120:月[ジェサイア]
──この山林を越えた向こう側、この季節は高温多湿だよ。一応、温帯域ということにはなっているがね。不快指数の高さは保証するよ。
そう教えてくれた男がいた。
夜の地上駐屯地。
月明かりのもと息抜きに煙草を薫らせ世間話をしたシェバトゲリラ兵。最期まで行動を共にしたあの男は、もう生きてはいない。ちぎれた腕から指輪を抜くのは難儀だった。
いつか、形見を家族にとどけてやれればなどとは、またまた感傷的なことだと自嘲した。
ソラリス市民にとって、不快指数などという言葉は一般的ではない。あの国の外気温は、常に快適にコントロールされている。いや、あの閉鎖空間にある空気を外気と表現することがそもそも適切かどうかという疑問はある。
腕を伸ばし、泥で汚れた指を掌に握りこみ、ゆっくりと開く。そんな動作を何度か繰り返し、指先にまだ感覚が残っていることを確認する。水気を多く含んだ空気が、全身に重くにまとわりついていた。
昨夕、雷を伴いながら降り出した大粒の雨は、夜更けまで断続的に降り続いた。夜が明け陽が高くなるに従い、気温はぐんぐん上がっていった。とにかく蒸し暑かった。
起伏のある山林の道は滑りやすく、何度も掌を地面につけ身体をささえた。膝から下は泥だらけだった。隙間なく上空に敷き詰められたような梢を覆う濃い緑の葉が、強い日差しを遮ってくれた。ところどころに木漏れ日を落としながら。
魔物が徘徊する森林。
ジェサイアは、敵から奪取した人型戦闘兵器であるギア──バントライン──を、目立たぬよう森に隠し、徒歩で森林を抜けようとしていた。肺まで水浸しにしてしまいそうな湿気に喘ぐような呼吸を繰り返しながら歩を進めた。
今現在、シェバト陣営への連絡手段はすべて失っていた。共に戦ってきたシェバトゲリラ兵とはぐれてしまってから久しい。連中の生死すら知れなかった。
やっとの思いで、用心深いシェバト人たちから得た信頼は、すべて水の泡と化すかもしれない。ガスパール、いや、シェバトゲリラ兵と合流することはすでに諦めていた。
自分の間抜けさを罵る気力もなかった。
森を抜ければ戦火に巻き込まれることなかった小さな町がある。そこで、酷使した身体を癒し、物資を補給することにした。情報を集めながら、今後ののことを考えるのが得策だろう。
そして、一度、家に帰ろう。
ラケルは元気だろうか。ビリーと小さなプリムは大きくなっただろうか。僅か数ヶ月、離れていただけでも幼い子供の成長は目を見張るものがある。
その程度のささやかな一家団欒、休息くらい許されてもいいはずだ。
視界が開け、眼下に町の灯りを見た。
ほっとする。
いつの間に周囲は薄暗くなっていた。それでも、危険な時間帯に山道を通り抜けるという愚行はなんとか避けることができたようだ。
空を見上げる。満月が銀色の光を放っていた。その眩しさにジェサイアは目を細めた。
ズボンのポケットに手を突っ込めば、金の輪っかの硬く冷たい質感がひやりと指先から伝わってきた。
──娘がいるんだ。まだ四つになったばかりのな。
ジェサイアが差し出したシガレットケースから煙草を一本抜き取り穏やかに笑う、月明かりに照らされたあの男の顔が脳裏に浮かび、消えた。
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