054:うた[シグ+メイソン]
ふと、あの歌が聞こえた。
呼ばれたような気がして、シグルドは砂漠の上で停泊する潜砂艦ユグドラシルの甲板に出た。
満月の夜だった。
砂漠の月はどこで見る月よりも明るい。
シグルドは母と一緒にノルンで暮らしていた日々に思いを馳せていた。
あの頃、母の兄であり、シグルドの養父でもある首長ミミルの元に身を寄せていた。
母は病気でもうあまり長くないことも理解していた。
でも、まだ子どもだったシグルドは、どこかそのことを信じていなかった。
自分を置いて母が逝ってしまうなど、あり得ない。
母は、一人のとき、よく細い声で歌っていた。
月の美しい夜は窓辺に寄りかかり口ずさむ。月の光を浴びながら。
今はもうその歌詞は思い出すこともできないけれど、儚く消えてしまいそうな母の声と、その旋律はよく覚えている。
その歌声が聞こえる夜はたまらなく不安になる。
歌声から逃げるように外へ飛び出す。木に寄りかかり、じっと星を眺めていた。
潜砂艦のハッチが開く音に振り返る。
ゆっくりと、初老の男が顔を出しデッキに上がってくる。
「シグルド殿、冷えませんか」
「メイソン卿か」
「どうされましたか?」
「ああ、なんとなくな。それよりメイソン卿のほうこそどうしたんだ?」
「シグルド殿がデッキに上がっているのが見えて」
「誰にも見られていないと思ったのだが」とシグルドは苦笑した。
「邪魔なようでしたら、私は失礼しますが」
「いや」シグルドはもう一度空を仰ぐ。「昔……ノルンで一緒に夜空の下で話をしたことがあったな」
「身動きのできない国王の名代として、友好国ノルン首長の妹御シャリーマ殿のお見舞いにたまに伺っておりましたから」
シグルドはメイソンをちらりと見る。
「俺もそうだとずっと思っていたのだがな。……それだけではないだろう」
「むろん、シャリーマ殿とは古い友人でもございました」
デッキの金属製の柵に寄りかかり、シグルドは空を仰いだ。
明るい満月の眩しさに目を細める。
「母に会いにくるのは、父ではなくあなただった」
「エドバルト王は、シャリーマ殿に捨てられたとずっと思いこんでいたのです。それはもうたいそう落ち込まれて……」
「そんな事情もあなたはすべて知っていたのだな。母は信頼できるあなただからこそ、すべてを話した」
「それは、もったいないことでございます」
「母は一人の時、よく歌っていた。歌詞は覚えていないがその旋律は覚えている。ノルンの歌ではないが、知らないか?」
と、シグルドは小さく口ずさむ。
メイソンは、じっと聞き入っていたが、何かに気が付いたようなはっとした表情で顔を上げた。
「その歌は……」
「覚えがあるのか?」
「いえ……そんな、まさか」
メイソンは俯き首を振った。
「やはり、あなたがあの歌を母に教えた? もしくはあなたが母に歌ってくれたのか」
メイソンはシグルドの質問には答えず俯いたままだった。
「シャリーマ殿は美しく魅力的な女性でした。エドバルト王とお二人、誰もが羨むお似合いの恋人同士でした。私は……」
メイソンは俯き目頭を押さえた。
「ああ、母と父は本当に愛し合っていたのだろう。だが、メイソン卿……あなたが会いに来てくれることを母は本当に心待ちにしていた。母の体調が良ければ、二人でテラスに座って話し込んでいただろう。なぜだか間に割り込めなくて、いつも遠くから見ていた。知らなかっただろう?」
メイソンは俯いたままだった。
「子どものころはそれが何故なのか理解できなかったが、今ならわかる。あなたと母の強い絆が。母が最後まで信頼し、心を許していたのは親友であるあなただったのだとね」
メイソンは泣いているのかもしれないとシグルドは思った。
だが、それを確認するのは無粋過ぎる。
メイソンを見ないように遠くの地平線へと視線を向けた。
二人の間を一陣の冷たい風が吹き抜けた。
髪が、服の裾がばさばさとたなびいた。
砂漠の夜は冷える。
シグルドはメイソンから目を逸らしたまま、そろそろ中へ入ろうと声をかけた。
そして、もう一度あの歌の旋律を口ずさんだ。