「綺麗……」
トリスは、鮮やかな夕焼け空に思わず呟いた。
早めの夕食を済ませ、西日が射し込むテラスに出た。まだ明るいうちに、この聖王都ゼラムを見ておきたかった。夕映えの街は美しい。これから、あっという間に訪れる日没まで、陽は更に朱を帯び周辺の空を茜色に染める。
明日、まだ夜も明けぬ早朝、この聖王都を発つ。
キュラー、ガレアノ、ビーニャという三体の悪魔を退け、いよいよメルギトスの本隊と戦火を交えるべき時が迫っていた。
草原から聖王都へ侵攻しようとする大軍を構成する兵士は、元デグレア兵やトライドラの騎士たちのなれの果て、つまり、鬼に変じたものや操られた屍人たちだ。
だが、これらの大軍を無視したとしても、大悪魔メルギトスさえ倒せばすべてが終わる。
騎士団、ゼラムを守る兵士たち。そして、蒼の派閥と金の派閥が抱える召喚師たちが、草原にて彼らを火の中に封じ込めることによって、敵戦力を削ぎ続けている。それは、聖王都を守る強固な砦であった。
だから、自分たちが追うのは大悪魔メルギトス。その一点のみに集中すればいい。
もちろん、メルギトスのもとへ辿り着くまでに、屍人軍団との戦闘は避けられないだろう。
厳しい戦いになりそうだ。
「必ず生きてこのゼラムへ還るんだ」と、誓い合う。いままで幾多の困難な闘いを乗り越えてきた仲間たち。それでも皆、怖いのだ。そう声に出して自らを奮い立たせなければならないほどに。
トリスとて、どう楽観的に捉えようが、自分たちの置かれている状況が、どれだけ不利であるかくらいは理解できる。
だが、トリスの心は不思議と静かだった。
焦りはない。悲壮感もない。
暗黒の闇に侵食されようとしているのに、世界は、こんなにも美しい。
「トリス、何を見ているんだ? 冷えるだろう」
「ええ、ネス」
背中から聞こえた兄弟子の声に、振り返った。ネスティはそのまま静かに歩み寄り、トリスと並んだ。
「空を見ていた? それとも街かい?」
「両方。……綺麗だと思って」
トリスは、ちらりとネスティの方を向いてから、その景色に視線を戻した。
ネスティは、眼鏡を指で軽く押し上げ、トリスの視線の先を追った。
どうやら、今しがた陽は地平線の下に沈んだらしい。が、まだ西の空はうっすらと明るい。漆黒の闇に覆われるまでの薄明の時はあと三十分ほど。
まだ仄かに明るい茜色の空を背景にシルエットを描く街並み。その中でも、蒼の派閥を象徴する楼閣は、逆光の夕明かりに縁取られ美しく輝いていた。
「ああ、確かに。何度も目にした風景のはずなのに、不思議だな。今、はじめて綺麗だと、思うよ」
「ネスも? 実は、あたしもなんだ」
トリスはえへっと笑った。いつもの、子どもっぽい笑顔にネスティもつられて微笑を返す。
たぶん、珍しくもない景色であるのは間違いない。陽が沈むその瞬間に繰り返し、見ていたはずの風景に、かつては何の感慨も湧くものではなかった。
メルギドスとの対峙を控え、悲壮感はなかった。もちろん、死を覚悟したわけではない。それなのに、何が、これほど二人を感傷的な気分にさせているのか。
「不思議なものだな。この街をこんなにも穏やかな気持で眺めることのできる日がくるとは。それも、今の今になって」
トリスは黙って頷いた。
それは彼女にとっても同じで、蒼の派閥を擁するこの聖王都はあまり親しみのもてるものではなかった。
街中の人々から尊敬と畏怖の眼差しを向けられ、自らもそのことを良く知っているプライドの塊のような召喚師。その出自のほとんどは、代々続く格式のある召喚師の家系だった。孤児でしかなかったトリスにしてみれば、そんな召喚師の集まりである派閥の連中は、それこそ違う世界の人間。普通に暮らしていたら、会話を交わす可能性もほとんどない。
そんな輩に囲まれての生活は決して快適なものではなかった。
楽しいことよりも辛いことを思い出す方が簡単だ。温かく優しい眼差しより、侮蔑を込めた視線をぶつけられるほうが、何百倍も多かったように思う。
――何故、おまえのようなものが此処にいるのだ?
そんな無言の圧力に耐える日々。いつも鈍感に何も感じていないようなふりをして、お調子者を装った。おかげで連中に警戒心を抱かせることはなかった。しかし、露骨な嫌がらせを受けなかったかわりに、相手にもされなかった。存在を無視された。蒼の派閥にはトリスという召喚師などいないのだ。惨めだった。
毎日が、嫌で嫌で仕方なかった。よく逃げ出しもした。でも、何処に逃げようが、この街の中にいる限り、常に派閥の監視下から自由にはなれない。そんな行動は、兄弟子であるネスティやラウル師範に迷惑をかけるだけの意味しか持ち得なかった。
そのことを解っていながら、トリスは脱走を繰り返した。そうせずにはいられない。
その度に、方々を探しまわったネスティに見つかり連れ戻される。そして、目を三角にした彼から、うんざりするくらい長時間、説教を食らう。それは、ラウル師範が「トリスも、反省しているのだから、もういい加減に許してやりなさい」と、なだめてくれるまで続いた。
それでも、ずっと待っていた。
この兄弟子が探しに来てくれることを。
そんな風に説教されることを。
その時、兄弟子の唇から発する言葉はトリスにのみ向けたもので、闇色の瞳はトリスだけを映していた。だから、それを求めずにはいられない。
それは、トリスにとって、己の存在を確認するための儀式のようなものだった。
「ネスは、この街が嫌いだったの?」
何も考えずに口に出してしまって、ネスティの表情をちらりと伺う。トリスは、自分の軽率さを後悔した。
しかし、遠くを見つめたまま、感情の揺れも見せずに彼は答えた。
「僕には、この街より嫌いな街なんて、他にない。そのくらい嫌いだったさ」
当然の答えだった。
ネスティが、派閥の中でどのような仕打ちを受けたのか、彼の口からはっきりと告げられたわけではない。でも、幼い時からの虐待と迫害の記憶。それが、どれだけ心と身体に深い傷を負わせたのか、容易に想像がついた。
それだけではない。ネスティは祖先の記憶すべてを遺伝子レベルで継承している。ライルの一族はこの街から一歩も外へ出ることを許されず、絶望の中一生を終えている。祖先の受けたむごい仕打ちも、彼にとっては。過ぎ去ったものではなく現実だった。
二重の苦痛。
「そうよね。ネスは本当にここで、辛い思いをずっとしてきたものね」
その事実をトリスが知ったのは、ごく最近のことだった。
一度も弱みを見せることもなく、トリスに対しては、常に高圧的で厳しい態度を崩さなかった兄弟子。トリスに「勘づけ」と言う方が無理というものだった。
目を閉じれば、ネスティと一緒に過ごした日々が脳裏に蘇る。
課題をろくすっぽやらなかったとはいえ、延々と続く小言にうんざりした。
雨の中、脱走して民家の軒下に隠れていても、この兄弟子は律儀に見つけ出してくれる。黒い髪から、ぽたぽたと落ちる水滴に、此処に辿り着くまで、彼が散々探しまわていたことを知る。
導きの庭園のベンチでうたた寝から目覚めれば、隣に座るネスティにぎょっとした。あまりにも気持ちよさそうだったから、起こすに起こせなかったと憮然として言われたっけ。
表情に乏しかった彼が、手の掛かる出来の悪い妹弟子に向けるのは、いつもしかめっ面だ。
派閥内の召喚師たちに対しては、どこか余所余所しかった。
ラウル師範と一緒の時は、遠慮がちではあったが、甘えるようなそぶりを見せた。
ギブソン先輩にだけ向ける、少しはにかんだような笑顔。
そして、一人でいる時の思い詰めたような様子に、思わず声をかけそびれたことが何度もあった。
そうだった。あの時に、気づいてもよさそうなものだった。何故、気づかなかったのか。
ネスティは、その間も、すべてを一人で抱え込んでいたのだ。半分はトリスが背負うべきものだったのに。
もう少し勘が良ければ、もう少し頭がまわれば。何よりも、もう少し大人であったならば、ネスティ一人を苦しめずに済んだのではないかと、真実を知ってからのトリスは何度も自分を責めた。
こうして、記憶を辿れば、悔恨の情にかられるばかりだ。
これほど傍にいたのに、何も気づいてあげられなかった。自分のことだけで精一杯だった。彼の痛みなど、何一つ感じることはできなかった。ただ、胸が痛い。何も察知できなかった自分の鈍感さをなじりたい気分になる。
――何も知らないで、自分だけが惨めだと思い込んで、あたしは大バカだわ。
癒したいのに、彼の痛みを少しでも和らげたいのに。その為の言葉をトリスは持ち合わせていないのだ。所詮、人間であるトリスに、最期の一人となった、融機人である彼の孤独をどのような言葉で癒せというのだろうか。
トリスのそんな想いを知ってか知らずか、ネスティは、ぽつりと言った。
「だがな、トリス。それと同時に、この街より好きになれる街は、他にありそうもないんだ」
思いも寄らない言葉。トリスは驚いてネスティを見た。
ネスティは続ける。
「なぜなら、大切な思い出もここにあるんだよ。ラウル師範……いや、義父さんが見守る中、学んだ街。ここで出会ったギブソン先輩は尊敬できるはじめての人間だった……。そんな大切な人たちに出会えた街。確かに、辛かったり、苦しかったり、憎んだり、恨んだり。そんな負の思い出ばかりが詰まった街だけど、幸せだったことも、少しは思い出すことができるんだよ」
ネスティは、トリスの肩にそっと手を置いた。
「だがな、それも君と出会ったからこそなんだよ。君と出会い、君が笑いかけてくれなければ、僕はそのことにすら気がつかなかったと思うよ。大好きで大切な人だっているんだってことを知ることもなく、人間に対する恨みや憎しみに押しつぶされてしまっていた」
――あたしも同じよ。もし、ネスに出会わなければ……。
トリスは心の中でそう呟きながら、黙って続きの言葉を待った。
「もちろん、今だって、許せているわけではない。人間が僕や僕の祖先にした仕打ちを思えば憤らずにはいられない。憎悪の感情に自棄になる。そんな時、何時も確認するのは、この街でのささやかな思い出だ。それを懐かしみ、愛しく感じることができている自分にほっとする。そして、安心するんだ」
軽く目を伏せ、ネスティは一呼吸置いてから、続けた。
「よかった、まだ君の傍にいられる。僕はまだ、君の傍にいていいんだってね」
顔を上げたネスティは、今度こそ、はっきりと微笑んでいた。
薄闇のテラスで、僅かに漂う光を集め揺らめく闇色の瞳。
またなのね。
想う気持ちの強さは同じなのに、何時だって、気づくのはネスティの方が先なのだ。先に言葉にして伝えてくるのは、トリスではなくネスティなのだ。あの時もそうだった。蒼の派閥によって隠蔽されたゲイルにまつわる因縁話を知った時、トリスにはネスティやアメルのことを気遣う余裕などなかった。それなのに、二人とも自分のことよりもトリスのことばかり心配していた。
さまざまな想いが胸の中で湧き起こる。募る思慕。その相手が目の前にいるのに、言葉にすべき想いは、は舌の上で空回りをするばかりだった。
だから、トリスはネスティの胸に顔を押し付け、腕をまわし抱きしめた。
「トリス?」
「ネス、ネス、ネス、ネス……」
ネスティの胸にすっぽり納まったトリスは、思いの丈を込めて、ただ、その名だけを繰り返し呼んだ。
「トリス、どうしたんだい? そんなに抱きついていたら、苦しいだろう。子どもじゃないんだから」
トリスは、まわした腕の力を緩めない。それに応えるように、ネスティもトリスの背中に腕をまわした。
「ネス、ネス……」
ほとんど涙声だった。
「泣いているのかい? トリス?」
「ネス……」
頬を涙が伝うのがわかった。
「変だな、君が泣く理由なんてないのに」
ネスティの手のひらが、あやすように優しくトリスの背中を撫でる。
「大丈夫だよ。言っただろう? 君のことは僕が必ず守るって」
その言葉にトリスは、ぴくりとしてネスティの背中で服地を握りしめた。
一瞬、よぎった不安。
そんな不吉な予感を振り払うように、トリスは、さらに腕に力を込めた。
――どこにもいかないで。ずっとあたしを抱きしめていて。お願い、ネス。
声にはならない叫び声を上げていた。
一向に離れようとしないトリスに、ネスティは諦めの溜息を一つ落とした。トリスの髪の毛が揺れた。
「まったく、君ってやつは。……今夜だけだからな、明日にはしゃんとしてくれ」
トリスの頬を両手のひらで包むように挟んで、ネスティは微笑した。
息がかかるほどの距離で、そのまま黙って見つめ合う二人をまだ浅い宵闇が包んでいた。日没から、急速に下がった外気温に吐く息が白い。二つの吐息が白く漂いながら混ざり合う中、どちらからともなく、唇を重ね合わせた。伝えられなかった万感の想いを込めて。
聖王都は、すっかり夜の帳に包まれていた。民家の窓から漏れる金色の光は、既にまばらだ。街の明かりが一つ落ちれば、星が一つ輝きを増す。二人の頭上には降るような星空が広がっていた。澄んだ夜空に煌めく星々は宝石を散らしたように美しい。
その美しさに気づかぬまま温め合う二人を、星明かりが密やかに照らしていた。
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