静寂が世界を包んでいた。
聞こえるのは小川のせせらぎ、枝を抜ける風の音。
ぴしゃ……。
水辺で何かを洗う音。水が跳ねる音が響いた。
深紅のドラゴンは、薄目を開き音の方向に目をやる。冴え冴えとした月の光が男の背中を照らしていた。
生きながらえるために自分と心臓を交換した契約者は、黙々と水辺で何か――恐らく血で汚れた剣――を洗っていた。自分は知らぬ間にうとうととしていたらしかった。
最近、どうもこの人間と一緒にいることに馴染んでしまい、気が緩んでいると思うが、それも居心地の悪いものではなかった。
薄暗闇の中で、水面が赤く染まるのだ。やがて、その赤は水に薄められ流される。静まりかえった岸辺で、カイムは淡々と、まるで毎夜の儀式のようにその作業を繰り返す。
ぴしゃり、ぴしゃりと。
何度洗っても刃を研いでも、漆黒の刃は白銀に輝くことはない。もともと漆黒の刃なのだ。このような剣が何故これほどまでに高い殺傷力をもつのだろうかとドラゴンはふと思う。
剣を洗い終えたカイムは、ドラゴンの傍らに腰をおろし剣を地面に置いた。
そして、濡れた服を乾かそうと野営の焚き火に袖をかざした。
かさり……。
草を踏みしめる音がした。
おかしい。いきなりだ。
普通ならば、近づく足音はかなり遠くから感じることができる。なのに、突然、至近距離でその音ははじまった。
ドラゴンは頭を持ち上げ身構える。
カイムも顔を上げ、剣に手をのばした。
「何者だ?」
声を失ったカイムの代わりに、ドラゴンは訊いた。
木立の間からあらわれたのは老人と言ってもいいくらいの男だった。見たこともない衣装に身を包んでいた。
「敵ではないとだけ言っておこう」
低い声。不思議な響きを持った声だった。
強い眼光。
その威圧感に誇り高き種族であるドラゴンでさえ、一瞬気圧された。
「何用だ」
「おまえたちが、呼んだのであろう」
「訳の分からぬことを」
ドラゴンはちらりと焔に照らされたカイムの表情を伺う。怪訝な顔をしている。
男は構わず続ける。
「今日は、何人、いや何十人、何百人その剣で斬り捨てたのだ?」
「…………」
カイムは黙ったままだ。
「そなた、声を失っておるのか。ならば、返事はしなくてもよい。昔話をしてやろう」
男はドラゴンとカイムを交互に見た。
ドラゴンは冷たい視線を男に向けた。
「話したければ勝手に話せと、カイムは言っておるわ」
男は口許にうっすら笑みをうかべたように見えた。そして、焚き火を挟んで、二人の前に腰をおろした。
焔に照らされれ、老人の顔に刻まれた皺が深い陰影を創っていた。
人間の話す戯れ事など興味はない。いつもならば、さっさと追い返すところだが、カイムがこの老人の話に耳を傾けようとしている。
ぱちんと、薪がはじけ火の粉が舞った。
「昔、栄華を極めた国があった。それも、たった一人の王の力で。王は絶大な力を持っていた。王が白銀の愛刀を一振りし、剣先をその行くべき方角へ向ける。民は何も考える必要はなかった。王にただ従えれば、民の繁栄も約束された」
「人間にとっては良いことなのであろう」
「そうだ。だが、国の民は驕り高ぶり堕落した。そうなると、国は衰退の一途を辿るのみだ」
ふんと、ドラゴンは鼻を鳴らす。
「その繁栄は己の力ではなかろうに、何故驕り高ぶれるのだ。我にはわからぬ」
「孤高のまま生きるドラゴンには、理解できぬことであろう。人とはそういったものよ」
老人は、続ける。
「己が導き、繁栄した国。その中で堕落していく民を見続けることは、王には耐え難かった」
「集団で生きていくことしかできぬのが人間なのだ。王であることを選んだのならば己の力でもう一度導けばよかろう」
つまらんというふうに、ドラゴンは言い放った。傍らでカイムは無表情のまま頷きもせずに、聞いている。何の感情の揺れも見せない。
「王が気づいたときには手遅れだった。王は、その絶大なる権力の象徴であった愛刀に邪心を召喚し、民を滅することを望んだ」
はじめて、カイムの表情が動いた。ほんの微かに。
「剣に宿る邪心は血を欲した。殺戮を繰り返し血をどれだけ吸い続けても、その乾きが癒されることはない。そして、その乾きは持ち主である王の乾きになった。殺戮は、最期に一人残った王の命を奪うまで続いた」
「なんと、無駄な生き物であることか。人間とは」
ドラゴンは憐れむように言った。
「そなた、乾いてはいないようだ。ならば、何故殺す?」
老人は、カイムに視線を向け言った。
ドラゴンは代わって返答をすべきかどうかカイムの心を探る。だが、何の感情も拾え無かった。
出会った頃、すでにそうだった。カイムは殺戮を繰り返す。ただ、戦い続ける。執拗にその攻撃の手を緩めることはない。かといって、殺戮そのものを楽しんでいるふうではない。
自らの運命に抗うためだけに、走り続ける。たったそれだけのために。そう、ドラゴンは感じた。
彼がその時、周辺を真っ赤に染める血飛沫に無惨にうち捨てられた死体に、何を感じているのか、あるいは何も感じていないのかはわからない。
心臓を交換したドラゴンにすらそれを読みとることはできなかった。カイムの心の深淵にあるもの。それは、ドラゴンはおろか当のカイムにすら触れることなどできないほどの深い闇なのだ。ドラゴンはそのことを理解していた。
カイムは何かを目指しているわけではない。
そこに崇高な理想を持っているわけでもない。
希望などない。
人のためでもなく、ましてや己のためでもない。
何故戦うのだ? そんな問いかけも意味を成さない。
それでも、この男は諦めることをしないだろう。世界の終わりまで走り続けるのだろう。
ならば、見届けたいと思った。
この男は、最期にいったい何を見るのかを。
「少々、無駄話が過ぎた。予の話はこれで終わりだ」
老人は立ち上がり、ちらりとカイムの脇にある剣を見る。
「そう、その血を吸い続けた剣だが、吸い続けた血のせいで刃は漆黒に変化した。そして、もう二度と白銀に輝くことはないのだ」
梢を抜ける風が一斉にさざめくと、老人は、森の中へと足音もなく、消えた。
再びせせらぎの音が聞こえた。
カイムは老人の消えた方向をしばらく見つめていた。
「カイムよ、気のせいだ。休むがよい」
察してドラゴンは言った。
カイムは頷くと、ドラゴンに寄り添い目を閉じた。
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