運が悪かった。
いや、運が良かった。
どちらでも構わない。
主体があやふやな記憶。混濁したイメージは、悪夢を呼ぶ。
彼は、この世に生を受けたときから超越者だった。
十年間、胎児の状態でリアクターの中にいた。まどろみの中、カレルレンから受けた調整、そして教育。
新しい人類の支配者。
すべてのヒトを超越する原初の存在、天帝カインと同じ力を持つもの。
もっとも優れた神の代弁者の資格を持った存在。
その、はずだった。なのに……。
――では、捨てましょう。これは必要ないわ。私の子どもがいるから。
――ならば、こいつは塵だ。
そして、彼は廃棄物処理場に投棄された。
この場から移動するためには、すぐに、成体として固定された肉体を手に入れる必要があった。時間は余りない。が、獲物が近づくまでじっと待ち続けるしかなかった。
足音が聞こえた。どのような肉体だろうか。
できれば、良質な肉体が欲しかったが、贅沢は言っていられない。彼は、活動するための身体を手に入れるべく、少年の足首に触れた。
もう一人の彼は、善良なソラリス二級市民でもあった。不自由のない生活。そこそこの中流家庭。
でも、両親とよくもめた。特に母親は口煩かった。勉強をして、ソラリス市民としての義務を果たしなさいと。
彼は成績優秀だった。見栄えも良い自慢の息子だった。それなのに、さらに多くを望む欲張りな母親。親などいなければ気楽なのに……よくそう思った。
あの時、両親の一言にまた腹を立てていた。彼は苛ついていた。苛ついてボールを蹴った。ボールが消えた方向に目をやる。
――こっちよ。
女が妖しく微笑み、手招きをした。
彼は、魅せられたように指示に従った。
そして、廃棄物処理場に足を踏み入れた。
何かが、足首に触れた。ぬめりとした、嫌な感触。それが、身体に入り込み細胞一つ一つを侵食していく感覚。彼は恐怖に震え、だが、どこか陶然として、それを受け入れた。
こうして、0808191ラメセスとカーラン・ベッカーは出逢った。
カーラン・ベッカーが0808191ラメセスに捕食同化された。
いや、カーラン・ベッカーが、自分の肉体に入り込んできた0808191ラメセスを受け入れただけなのか。
手に入れたのは、カーラン・ベッカーの肉体か。カインの複製である0808191ラメセスの能力か。
すでに彼にとっては、どちらでも同じこと、たいした問題ではなかった。
0808191ラメセスは、その肉体を消化吸収融合する。細胞を一つ一つ取り込み、遺伝子情報を解析しDNA配列を決めた。この肉体は、カーラン・ベッカーそのもの。彼の肉体特質をもち、彼の肉体的弱点をも持つ。が、これ以上望めないほどの、美しい肉体を組立てることのできる設計図が、そのDNAに組み込まれていた。手に入れた身体は最高レベルのものだった。
しかし、彼は、自分が不完全なカインのコピーにしか過ぎないことを、カレルレンから聞かされていなかった。
いくつかの記憶に転写ミスが生じていた。取り込まれた、カーラン・ベッカーの意識や記憶は断片的に、無意識領域に追いやられた。
肉体と精神のほとんど支配した、0808191ラメセスの目指すことは一つだった。彼は、外気に触れたその瞬間やるべきことを自覚していた。
真っ赤だ。
家が、燃えさかる炎に包まれた。
――カーラン、カーラン……どこ? 無事なの?
母親が叫んでいた。
炎を見つめながら、彼は確かに泣いていたのだが、誰も、彼自身すらそのことを知らなかった。
「カールが?」
ヒュウガは振り向き、黒い瞳を見開いた。
「ああ……、最近、元気がないようだ」
「まあ、強い肉体づくりには余念はない努力の人だけど、見た目いつも元気一杯って人じゃないからなぁ。そんなに普段と違う様子があったようには思わなかったけど」
「いや、特に顔色が良くない」
「講義は?」
「実戦演習を含め、パーフェクトにこなしてはいるさ」
「ふうん」
小首を傾げ、少々考え込むような動作をしている、友人にシグルドは慌てて言った。
「あ、気にしないでくれ。俺の気のせいかもしれないし。あとで、ちょっと話してみるから」
「そうですね、あなたの勘は大抵当たるから。私、例の研究室長、あの赤毛で短気な――に呼びつけられ、臨時の助手バイトなんですよ。だから、頼みます。シグルド」
「ああ、了解した」
「私も、後で、時間を作って彼と話してみます」
シグルドは頷いてから踵を返した。
ユーゲント内にある地下訓練室に、友人はいた。
剣が空気を切る、音が誰もいない部屋に響いている。
彼は、剣技の稽古に余念がない。額から玉のような汗が噴き出していた。
「随分、熱心だな」
友人の声に、動きを止め、カーラン・ラムサスは振り返った。
「ああ、さっきまで相手をしてくれていた、連中は皆帰ってな。どうも、付き合いきれないらしい」
シグルドは、笑った。
「では、俺が付き合おう……と言いたいところだが、ムチ対剣では、相性が悪すぎる」
「確かにな」
そう言いながら、ラムサスはタオルで顔を拭く。
「じきに、一年だな。俺がここに来てから」
シグルドは、ミネラルウォーターのボトルをラムサスに手渡しながら言った。
「お、気が利くな。ラケル先輩の治療は進んでいるか?」
ボトルのキャップを開け、一気に喉に流し込んで、口を拭う。
「まあまあさ。相変わらず、子どものころの自分など、何も思い出せないけどな」
「俺は、思い出などいらないといつも思う。俺の持っている理想、目的に見合った能力、情報としてだけの過去の経験。それさえあれば、思い出など邪魔なだけだ。理想国家実現のために、おまえは俺達と力を合わせていればばいいんだ。その為の力さえあれば。俺は、いや俺たちはおまえが必要だ。過去のおまえが何者であれ、今のおまえが必要だ。今のおまえが大切なんだ。だから、気にするな、無理に思い出そうとするな」
シグルドは呆気にとられて、友人の白い顔を見つめた。言わんとしているところが、解らない。気を利かせて励ましているようにも聞こえる。が、ただの無神経なだけかもしれないとも思う。
「ああ、無理はしない。確かに、子どものころの記憶なんてたいして役にはたたないだろうしな。ところで、おまえの子どものころの話は、あまり聞いたことなかったけど、どんな子どもだった?」
「普通の子どもだ。ちょっと成績がいいくらいの。両親が口うるさくてな」
ラムサスの穏やかな表情に、シグルドは口許に笑みを浮かべた。ああ、こいつにもそんな子ども時代があったのだと、微笑ましく思う。
「親が口うるさいのは、どこでも同じだな。たぶん」
「ああ、でもな、母は、いつも俺の好物を必ず用意してくれていて……」
そこまで、言葉にして、黙り込んだラムサスの顔を覗き込んだ。険しい表情。シグルドは、慌てた。
「あ、わりぃ」
ラムサスはユーゲントへと編入してくる前、自宅の火事にて家族を失っていると聞いた。今の彼は、天涯孤独の身なのだ。無神経なのは自分の方だ。
もっとも、シグルドの気のまわしかたは、甚だ見当違いだった。ラムサスはカーラン・ベッカーの記憶、思い出をあたかも自分ものであったかのように、あっさり受け入れてしまっていた自分自身に戸惑っていたのだ。
カーラン・ラムサスの肉体能力はカーラン・ベッカーが生まれて十五年の間に、少しずつ訓練し身につけてきたものだ。ラムサスはそれを自らの経験として意識せずに利用している。歩行というごく基礎的な運動能力ですら。
他に、教師や教官との付き合い方、他者との会話構築、友人と冗談を言い合い悪ふざけをしたりという、およそこの年頃の男の子たちが当たり前に経験し、培ってきたコミュニケーション能力、それら、すべて、カーラン・ベッカーが身につけていたものなのだ。
さらに、リアクターで調整されていた十年間にカレルレンが行ってきた、ある種の英才教育――かなり偏ったものではあったが――が複雑に混ざり合い、今のカーラン・ラムサスという人格が存在する。
かなり歪なものではあったが、その卓越した能力とカリスマ性は、それらの些細な問題を凌駕した。
しかし、彼は不意に沸き上がる、温かい懐かしさを伴う記憶――そう、きっと世間ではこれを“幸せ”と言うのかもしれない――に最近悩まされていた。
記憶の中で蘇る、両親の笑顔と優しい声、そして温もり。
が、すぐに、炎の記憶がそれらを焼き尽くす。
はっきりとした殺意を持って、自らの目的のために彼らを殺したのだ。
それなのに、その温もりを欲する自分がいる。
肯定と否定を繰り返さねばならなかった。彼の精神は不安定にならざるを得ない。
ならば、俺は、誰だ? 何者だ?
「カール?」
黙り込んだラムサスをシグルドは呼んだ。
金色の瞳が、不安そうにシグルドを見た。こんな頼りなげな、カーラン・ラムサスは初めて見る。シグルドの知っている彼は、いつも自信に満ち、また誰もその自信に文句を言わせないだけの実力の持ち主だ。
「ああ、すまん。少々ぼうっとしていたが、大丈夫だ。さすがに疲れたらしい」
シグルドは、それを聞いて安堵したように微笑した。
「なあ、カール、さっきおまえが言ったことだけど。俺の失われた記憶は、もしかすると思い出さない方がいいような、辛い記憶なのかも知れない。でも、記憶はやはり無いよりも、あったほうがいいと思う。いつか必要になったときに、取り戻せると俺は信じているんだ。だから、焦りはしないけど」
優しく語るシグルドの声。ラムサスは目を閉じ心地よく耳に響く音だけを聴いた。唄を聴くように。胸の奥が、ぼうっと温かくなる。
「だけど、おまえが言っていた、今のほうが大切だって、俺解るよ。俺、おまえやヒュウガや先輩がいてくれたからこんな状態でもなんとかやってこれた」
二人を取り巻く空気が、温かいものに変化した。永遠に続くわけではない。束の間のことでしかないだろう。が、今この瞬間、世界はこんなにも優しい。
「おい、カール? 聞いているのか」
呆れ顔で、覗き込む澄んだブルーの瞳と視線がまともにぶつかった。
「いや、悪い。ほとんど聞いていなかった」
「おい、それはないだろう! このっ!」
ラムサスに飛びかかったシグルドは、彼の首に腕をまわし脇に抱え込み、あいた手の指で、淡い金髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「うわぁっ! 何をするんだ。く、苦しい、やめろ」
喉が締まって咳き込んだラムサスは、シグルドの脇腹をくすぐって反撃に出る。
「わはは……。くすぐった……い。やめっ……あはは」
それは十六歳くらいの少年が友だち付き合いの中でやる自然なじゃれ合い。微笑ましい光景だった。
過去は消せない。それは、自分の存在を消し去ることができないのと同じこと。炎の悪夢はこれからも、ラムサスを苦しめるだろう。
それでも、シグルドがいてヒュウガがいて、同じ理想を胸に共に歩いていければ、どうにでもなるだろう。友人とじゃれ合いながら彼は思った。
その象徴としてのエレメンツが存在し続ける限り。
それは、まだ、四人が同じ理想を夢見て、同じ方向を見つめていた頃のこと。
引き裂こうとする運命の足音がひたひたと近づきつつあるのだということを、今の二人には知る由もなかった。
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