あれは、いつのことだったろうか。俺がまだ幼い…リアクターから出され破棄され、第三級市民としてのIDを手に入れてから間もないころだった。一人の女性が俺の前で優しく微笑む。少し哀しげな表情で。
「初めまして、カール」
俺は思わず「お母さん?」と言いそうになって首を振った。俺に母親などいるはずはないのだ。
だが、俺がイメージしていた母親がそこにいた。
「あなたは誰?」
「名前は意味がないわ。私は、ずっと、あなたに会いたかったの。嬉しいわ…願いがかなって」
俺が初めて彼女に出会った日。出会ったといっても、それは現実だったのか、夢だったのか記憶は曖昧だった。
その後、何度か夢の中で彼女は俺に微笑む。
ミァンと名乗る少女に出会ったのは、そのもっとずっと後だった。ミァンは何故かその女性に似ていた。俺はミァンに惹かれ、のめり込んでていく。
俺はミァンを愛し、愛されていると信じていた。
「カール、もう一度右手を見せて下さい」と、シタンは医者の顔でラムサスの右手をかるく掴む。「握ってみて……」
やはり、力が入らない。微かに震える手。顔色がいつにも増して悪いことがシタンにはひっかかった。
最初にそのことに気が付いたのは、シグルドだった。
「ヒュウガ…気が付いたか? カールの右手だけど……」
「右手がどうかしたんですか?」
「変なんだ。食事をしていて、度々、スプーンやナイフを落とすし、気が付くと、左手で震える右手を抑えている。一度、診てやってくれ」
デウスを倒し、休む間もなく、雪原アジトに集結していた人々は崩壊した世界を復旧する為に動き出す。そんな中、ラムサスは徐々に自分を取り戻しつつあるように見えた。自分の持つ能力を残された人々の為に使うことを理解したラムサスは、脇目もふらず、ただひたすら人々の為に働きつづける。よけいなことを考えないように、何もしない時間を恐れているかのように、ただ、ひたすら。
そんなラムサスはかえって、シタンやシグルドを不安にさせた。
「カール……。身体的にはどこも悪いところはありませんよ。顔色が悪いようですが、夜、眠れていますか?」
シタンは、カルテに細かい字を書き込みながら、ラムサスの顔を観察する。「……」黙ったまま、俯くラムサスにシタンは「やはり……」という表情をすると、立ち上り奥の部屋へ行った。
キッチンから急須と湯飲みをのせたお盆を持って戻ってきたシタンは、湯飲みにお茶を注ぎ、「取りあえず、お茶でも飲んで下さい」とラムサスにすすめた。
「妻は妻で忙しくてね。なかなか側にいてもらえなくて…おかげで、お茶くらいは上手にいれられるようになりましたよ。有能な妻を持つと辛いです。あ、お煎餅もありますが、如何です?」
ラムサスは少し笑うと首を横に振り黙ってお茶をすする。シタンの所へ訪ねてくると必ず入れてくれるお茶は本当においしいと思う。
「これは、いつもの緑茶とは違うようだが……」
「ほうじ茶ですよ。もう夜ですからね。カフェインが多い緑茶よりもこちらでしたら、問題ないでしょう。お口に会いませんか?」
「いや…。これもおいしい…香ばしくて」
お茶を飲むラムサスが落ち着いたころを見計らって、シタンは問診を続けた。
「あなたの不眠の原因ですが…。ご自分で何か思い当たることありますか?」
ラムサスは湯飲みをテーブルの上に置くと、ぽつりと話し出す。
「夜、一人になりベッドの中で目を閉じると苦しくなる。あのときの感触がこの右手に蘇るんだ。剣でミァンを刺したときのあの感触が……」
ラムサスの右手が小刻みに震えていた。
そうですか…。それで、右手が……。それは、無理もないことだ。愛する女性の裏切りに、彼は逆上して殺した…という身も蓋もない言い方もできるが、彼にとって、唯一の真実であるミァンと共有した時間や思い出を、完全に否定されてしまったのだから。
すべてが偽りだと。
「カール…それはいつからですか?」
「デウスとのケリがついたころからだと思う」
「毎晩ですか?」
「ああ……。なさけない話だが、寝るのが怖い」
「あなたが、ミァンを殺したことは仕方なかった。あなたのせいではありません」
ラムサスは身体を屈め、肘を膝で支えると掌で顔を覆う。シタンは微かに震える背中を見つめる。
「俺が殺したんだ。あんなに愛していたのに。刃が肉に刺さっていく感触。返り血で、真っ赤に染まる手。血の臭い。俺の腕の中で冷たくなっていくミァンの身体……俺のすべての感覚にまとわりついて離れない」
「いいえ、あなたはミァンから解放したんです。ミァンではない彼女を。何故なら、彼女は最期に微笑んだじゃないですか」
ラムサスは、少し身体を起こし、シタンの方を少し見る。…とすぐに下を向き、頭を抱えるとぐしゃぐしゃと銀に近い金色の髪をかきむしり、激しく首を振る。
「思い出せないんだ。彼女の笑顔。あの時本当に笑ったのかどうか、俺の錯覚でしかなかったのか。思い出せないんだ!」
彼女は少しも恨むようなふうではなく、安らかに微笑んだ。
「それでいいのよ、カール……。これで……全て……の願いが……かなう。あなたと…」
それは、俺の願望がつくりだす偽の記憶にしか過ぎないのか。今となっては確かめようがない。でも、それを知りたい。真実を知りたい。そうでなければ、俺の心に安らぎはない。癒しはない。どうすれば知ることができる? どうすれば……。彼女は何を言いたかった? 何を思った? 何を願った?
「ヒュウガ、教えてくれ、どうしたら知ることができる? どうしたら解る?」
ラムサスはシタンの両腕を掴み、縋る子供の目で訴える。シタンは、静かな表情のまま、目を伏せ、すぐに宙を見上げる。
「カール…。あなたは、私や他の誰が何を言っても納得しないでしょう。どんな言葉も気休めにしかなりません。自分で見つけて下さい。誰も、あなたに答えを教える事はできません」
シタンは立ち上がると、窓を開け外の空気を入れる。夜の冷たい風が頬を撫でる感触に、ラムサスは、疲労しきった顔を上げた。
「すまなかった。部屋へ戻る…」
この男には限界かもしれない…と、思う。それでも、手を差し伸べてはいけない。
「薬を処方しましょうか? 睡眠薬と精神安定剤ですが」
「薬にはもう頼らないことに、決めたんだ」
ラムサスが、そう力無く微笑むと、シタンも微かに微笑み返す。そう、黙って見ているしかない。
「ヒュウガ…、ここのところ、ミァンが毎晩訪ねてくる。夢の中に」
「え……?」
「夢の中の彼女は、哀しげだ。俺が彼女の気持ちを確かめようとすると、消えてしまう。何を尋ねても、微笑むだけだ」
「カール…それは…。いや…今夜は泊まっていってください。ベッドも空いていますし」
ラムサスは、そう促されるままに、一晩シタンの側で休むことにした。「自分はあまり寝なくて大丈夫だから」と、シタンはラムサスが休むベッドの脇に椅子を持ってきて腰をかける。二人は取り留めのない、昔話をし、やがて、ラムサスはシタンに右手を預けたまま、眠りに落ちていく。
開け放たれた窓から、夜の湿気を帯びた風が吹き込みカーテンがふわりと舞い上がると、シタンは気配を感じ、立ち上がり窓に視線を向けた。
「やはり、あなたでしたか……」
ミァンはラムサスに微笑む。
「あなたに最初に会った瞬間に、あなたに恋をしたの。あなたを愛したわ。だから、あなたに会いたかった。あなたを知りたかった……」
「俺を愛していた?」
「ええ、今も愛しているわ…これからも」
「今日は、話してくれるんだな」
「今日が最後だから。もう、会えないから」
「何故?」
「だって、私は、私を失う瞬間にしかあなたを愛せなかった。その瞬間まで、あなたを知らなかったの。だから、会いたかった。小さいカール。そして、未来のカール」
「ミァン……」
「私は、ミァンではないわ…。名前は意味がないのよ」
「待ってくれ」
「さようなら、カール。あなたを愛せて嬉しかったわ」
「しっかりしてください! カール」
シタンが上から覆い被さるようにして、ベッドに横たわるラムサスの肩を押さえ、揺らす。
「大丈夫ですか? ひどくうなされていましたよ」
ラムサスは上半身を起こし、自分の右手をじっと見つめる。
「ミァン……俺がまだ幼いときから、何度も俺に会いに来ていた。そうか……そうだったんだ……」
「カール?」
「彼女はあの時、初めて俺に出会ったんだ。そして、あの瞬間に俺の過去と未来を訪れた。そうだろ?」
シタンはベッドに腰をかけ、頷く。
「あなたが見つけた答えですね」
「俺が初めてミァンに出会ったとき、彼女は既にミァンとして覚醒していた。だから、最期のあの瞬間にミァンでない彼女を取り戻したんだ。そして、俺を見、俺に出会い、俺を愛した。これは、俺の思い過ごしか?」
闇の中で、ラムサスは透き通って消えていくように見え、シタンはラムサスの両肩を掴む。
「いいえ、思い過ごしなんかじゃ……。彼女がここへきたことは私も解りましたから」
「あの瞬間に俺は愛する人を得ると同時に失った……」
ラムサスはふと気がついて濡れている自分の頬を指で拭う。
涙? 俺は泣いているのか? ミァンを殺したそのときも涙はなかったのに。
目からあふれる涙は止めどなく流れ続ける。
俺は、泣こうとしているわけではないのに何故こんなに涙が出続けるのだ?
「大の男が、みっともないな……」
「泣いてください。誰だって、愛するものを失えば哀しいでしょう? 泣かない方が異常です」
「愛するものを失って……哀しい? 俺は哀しんでいるのか?」
「ええ、あなたは怒りや憎しみの感情だけを強制され、哀しいという感情を学ばせてもらえませんでしたからね」
シタンはラムサスを抱き寄せ、むずかる子供をあやすようにその柔らかい髪を撫で続ける。
「泣いて下さい。いや…泣いた方がいい」
ラムサスはシタンの胸の中で、静かに泣き続けた。子供のように…泣き疲れてそのまま眠ってしまうまで。
シタンはラムサスをベッドに寝かしつけると、テーブルに置いてあった眼鏡をかけ、ラムサスの安らいだような寝顔をのぞき込み微笑んだ。
「涙は、不思議ですね。本人に自覚をさせないまま、痛みや苦しみや哀しみをきれいに流してくれる。医学的に言えば、体内に溜まったストレス物質を排出してくれるわけですが……」
白々と明るくなり出した窓の外から、微かに小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「やれやれ。どうやら、徹夜になってしまいましたね」
死ぬ間際に、強く思った。強く願った。その思いが時間を越えラムサスの前に現れたのだ。たった一つの祈りにも似た言葉を伝えるために。
「カール……あなたを愛せて嬉しかったわ」
楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天
LINEがデータ消費ゼロで月額500円~!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル