Cassis……黒房スグリ。
庭に植えられていた、低木の果樹。
黒に近い赤紫の実。
輪郭をはっきりと描くその香り。
帝室特務外務庁ビル。四元統合司令部内の執務室にラムサスは久しぶりに友人の訪問を受けていた。白い肌に淡いブロンドの髪と金色の瞳を持つガゼルと何ら変わらない容姿を持つラムサスと違って、白い肌に黒い髪と黒い瞳を持つこの友人の出自が下層階級であることは誰の目から見ても明らかだった。同じく軍の要職にあるとはいえ、この友人もラムサスと同じく「守護天使」というまったく次元を別にする任務もこなしていた。
彼は友人に執務室内に置かれているソファーをすすめ、自分も向かい合わせに置かれているソファーに腰をおろした。コーヒーを運ぶ秘書の女性に訪問者は微笑み、目で軽く挨拶する。
「地上勤務? そうか、正式に辞令がおりたか」
ラムサスはコーヒーを口にはこびながら、友人の穏やかな黒い瞳を見つめた。
「はい、法院の命令です。私の容姿ならば、地上人になりすますのは簡単ですから。妻子と一緒でしたら、警戒されることはないという判断だと思いますよ」
「妻子?」
「はい、地上人の女性と」
「偽装結婚か」
「え? まあ……。彼らは家族持ちに対しては警戒心は薄いですからね」
「兵器開発部は痛手だな」
「後継者は育っていますので、心配はないでしょう」
「もう少し、俺の側にいて補佐をしてくれると思っていた。だが、確かにアニマの器への同調者を生きたまま捕獲し、ソラリスへと連れてくるなどという任務をこなすことができるのは、お前くらいだろうな」
「すみません。法院には逆らえませんから」
かつて、エレメンツと呼ばれたもの達は次々とソラリスを去っていった。別の言い方をすれば、ラムサスのもとを去っていたのだ。彼の理想国家実現という大いなる夢を裏切ったのだ。裏切らなかったのはこの男だけ。そして、裏切った訳ではないが、この友人もラムサスの側から離れていくという。あの当時、皆が同じ理想に向かい共に歩いていけると信じていた。だが、時が移れば想いも変わり人も変わる。
その時、ノックの音が聞こえ、ドアが開き、ゲブラーの軍服に身を包んだ長身の女性が微笑みと共に入ってきた。黒髪の友人は立ち上がり、インディゴブルーの髪と瞳を持ったこの魅惑的な女性に笑いかけた。
「やあ、ミァン」
「さっき、聞いたわ。ついに地上に行くのね。ヒュウガ、暫くお別れね」
「ええ。貴女は、これからもカールを助けてあげて下さい。では、私は用意がありますのでこれで、失礼します」
ヒュウガが部屋を出ていくと、ラムサスは傍らに立つミァンと呼ばれたその女性の肩を抱いた。そう、今はミァンが側にいる。彼女は人材としても優秀だ。そして、何よりもラムサスを信頼し愛してくれているのだという満足感を彼に与えていた。
ふふ……。
ヒュウガが出ていったドアを見つめ、ミァンはインディゴブルーの髪を白い指で掻き上げながら小さく声を立てて笑った。
(そ……う、彼は有能で使えるわ。でもね、カールの側にいられては迷惑なの。)
「彼が行くわね」
「ああ…」
「寂しくなりますわね。今のソラリスで、唯一能力的にも、あなたと対等でいられるお友達でしたのに」
「法院の命を受けて地上に降りるのだ。致し方あるまい。それに、俺を信頼し助けてくれるものなどいくらでもいる。何よりもお前が側にいてくれる」
そう言いながらラムサスはインディゴブルーの髪にそっと唇を押し当てた。
「まあ、カールったら……ふふ……。それよりも、出発は明日ね。お見送りにはいかなくてよろしいのかしら?」
「挨拶は今済ませた。別に今生の別れというわけではない」
ラムサスはミァンの肩から腕をゆっくりほどくと、自分のデスクの前の椅子に腰をかけた。そして、デスクの上の書類をかき集め、端末の電源を落とし目を閉じた。
どうってことない。今までだって、ヒュウガとは一ヶ月に一度声を交わせばいいほうだった。お互い知らされていない任務が増え、すれ違いの毎日だった。地上勤務となったとしても、目指す世界は同じであるとラムサスは信じていた。だから、なんら変化はないはずなのに、このぽっかりと心に穴が開いてしまったような虚脱感はなんなんだろうか?
ラムサスはそんな自分の掴みきれない感情に苛立つ。
「カール、疲れているのかしら?」
不意に、かけられたミァンの声に我に返り目を開けた。心配そうに覗き込むインディゴブルーの瞳がラムサスのぼやけた視界の中でゆっくりと輪郭を取り戻していった。
「ああ、すまんな。ミァン、これから、夕食に付き合え」
「喜んで、ご一緒しますわ」
エテメンアンキの外れのビルの中にそのカジュアルなレストランはあった。
ビルの一階にある若い恋人達がよく出入りするそのレストランの窓からは、街を行き交う様々なファッションに身を包んだ若い恋人達を眺めることができた。
「のどが渇いたな。取りあえずビールでも飲むか?」
「ええ。お任せるるわ」
ウェイターが二人の前にビールの入ったグラスを置いた。ミァンは自分の前に置かれたグラスの中身に一瞬目を丸くした。そのグラスには青みを帯びた赤い液体が満たされていて一見ビールには見えない。上面に浮かぶ白くきめ細かい泡が、ビールであることを僅かに主張しているようだった。ミァンはグラスからゆっくりとラムサスへと視線を移し首を少し傾げた。
「あら? ビールを頼んだのではないのかしら? それとも、これはビール?」
「ああ、それはカシスビールだ。フルーツの香りはするが甘みはほとんどない。たぶん、気に入ってもらえると思うが」
ミァンはにっこりと微笑むと、グラスを手に取り口元に近づけた。と、ミァンの口元から微笑みがかき消えた。
「ミァン? どうした、その香り苦手か?」
ミァンはグラスをゆっくりとテーブルに置くと目を閉じ顔を背けた。ラムサスはの金色の瞳が不安そうな表情でそんな彼女を見つめていた。
「せっかく、選んでくださったのに……。ごめんなさい。下げてくださらない」
「ああ。すまんな」
ラムサスは、ウエイターにその赤いビールを下げさせ、もう一つ自分の前に置かれているものと同じビールを持ってくるように指示をした。そして、腕を伸ばし、テーブルの上に置かれているミァンの白い指に自分の手を重ねた。短めにそろえられたスクエアカットの爪に丁寧にネイルエナメルが塗られている。手入れのいきとどいている節のない細い指から微かにミァンの震えが伝わってくるのをラムサスは感じていた。
その後の、食事も注文したワインも美味しく、締めくくりに出された繊細に細工をされたデザートはミァンを喜ばせた。食前酒の注文のミスを除けばほぼ完璧なオーダーだっただろう。
ゲブラー要職者の為の宿舎であるマンションの中にある自室にラムサスは久しぶりに恋人を招き入れていた。
彼は、水割りをつくる恋人ミァンの背後から肩に手を置くと耳元に口を寄せ囁いた。
「さっきはすまなかったな。これから気を付ける」
ミァンは肩にのせられたラムサスの手に自分の手を重ねながらくるりと振り返り、静かに微笑んだ。
「いいえ、私の方こそごめんなさい。苦手な香りがあったなんて今まで自分でも知らなかったわ」
ラムサスは肩にまわした腕でミァンの身体を抱き寄せると、もう片方の掌をミァンの頬にあてた。赤い唇が僅かに開き白い歯が覗いた。形のいい唇を指でそっとなぞってからラムサスはミァンの唇に自分の唇を重ねた。触れるだけの軽い口づけから、激しい恋人同士の口づけへ。ミァンの腕がラムサスの背中にまわされ布地を強く掴んだ。
ほうら、小さい少女がとことこと歩いてくる。
「黒房スグリを食べた?」
「ママ…。食べてない……」
「お口を開けてごらん」
「あーん」
「嘘付いちゃ駄目よ。くすくす………、匂いがする」
優しい光。ここが中空に浮かぶ人がつくった大地であるなんてことは知識では分かっていた。でも、庭に植えてある草木や花々や低木の果樹。人工的だが穏やかな光は優しい父と母を柔らかく包み、ここにも善良な人々の生活があることを教えてくれた。
私は、愛されていた。そして、誰かを愛することを待ち続けるごく普通の小さな少女だった。
何故私はユーゲントへの入学を望んだんだろうか。「いくら、お前が優秀でも軍人などになって幸せになれるものではない」そう言って両親は反対した。でも、誰かが私を待っているのだと強く感じていた。根拠なんてないし理由などいらなかった。ユーゲントの寮に移り、定期的に自宅に両親の顔を見に帰る。そんな生活をすることになった。
そんなある日、自宅から寮へと向かう道で奇妙な占い師に声をかけられた。
「おや、お嬢ちゃん。ユーゲント生かい? 変わった相が出ているね。見てあげよう」
「ええ、そうよ。お婆さん占い師?」
「そんなところだ……。お前は、歴史を支配しようとし、世界もお前に身を委ねる。だが、お前は囚われ愛するものが連れ出してくれることを待ち続けるのだろう」
この占い師のお婆さんの言っていることは訳分からない。だから、適当に自分の都合のいいように解釈した。
「で? それは王子様?」
「いいや、ただの男じゃ……そして……」
「もういいわ。私知っているもの。じゃあね、占い師のおばあさん」
そう、私はその人を知っている。きっと、あの人のこと。ユーゲントに編入していきなりすべての科目においてトップに躍り出た。あの綺麗な人。
カーラン・ラムサス
「ほら、彼が行くわよ。話しかけなくていいの? 想っているだけでは何も進展しないわよ。何かをプレゼントするんじゃなかったの?」
「え、ええ……」
「あーあ、駄目ね。行っちゃったわよ、彼」
「チャンスはまだあるわよ。瓶詰めのジャムは悪くならないわ」
「くすくす……。まあ、頑張るのね。でも何故プレゼントがジャムなの?」
「美味しいのよ。それに、庭で出来た実でつくったと言えば彼も気を使わないかと思って」
「そうかなー。甘いもの苦手だっていう男の人多いし、だいたい手作りのものなんて、押しつけがましくない? それに、彼、お堅いって評判だし」
「放っておいてよ。意地悪ね」
でも、その人にプレゼントする機会はついになく、ジャムの入っていた瓶は割れた。あたり一面に漂う甘酸っぱい黒房スグリの強い芳香。胸が痛かった。
そして、今でも私は夢見ている。貴方に想いを伝えることを。貴方がここから私を連れだしてくれることを。
……ミァン
“ミァン? 誰それ?”
……ミァン
“私、ミァンなんていう名前じゃない”
……ミァン
“え? では、私は…誰…?”
「ミァン、ミァン……大丈夫か?」
“そう、私はミァン”
「ミァン、どうしたんだ?」
「カール?」
ラムサスは、ゆっくりとベッドから起きあがろうとするミァンの肩を支えた。そして、ミァンの頬が濡れていることに気がつくと驚き指で拭った。
「何を泣いている? 夢を見たのか?」
薄暗がりの中、ミァンは慌てて裸の胸をブランケットで隠し小首を傾げ微笑んだ。
「夢? いいえ、覚えていないわ」
「うなされていた……」
「ごめんなさい。でもね、たまに不安になるの。貴方の側に、ずっといられるのだろうか、私は本当に貴方の役に立っているのかしらって……」
ラムサスは自分の裸の胸の中へとミァンの身体を抱き寄せ、インディゴブルーの髪を梳いた。
「何を言っているんだ。お前は他のどのような男どもよりも優秀で役に立っている」
「嬉しいわ、カール」
「なあ、ミァン。俺は、理想国家実現の為にエレメンツを再結成しようと思う。だが、もう俺達の世代の中にエレメンツたる資格のあるヤツなどいないことは分かっている。だから、今のユーゲント生の中から素質のあるヤツを捜すつもりだ。発足は三年後を目処にする」
「ステキよ、カール。貴方の望みが一つずつかなっていくのね」
ぼんやりとした薄闇の中で作り出す陰影が女の冷たい微笑みを浮かび上がらせたことをラムサスは知らない。
(ふふ……。そう、貴方の理想を抱きながら前へと進みなさい。ぼうや。貴方のその能力は貴方に一つずつ道を開いていくわ。でもね、その遙か高峰を目指し、登り詰め有頂天になればなるほど、貴方の挫折感は深くなるわ。私はそうやって、貴方を壊していくの。私の中のプログラムがそう命じるから)
ラムサスは、傍らに眠る恋人の穏やかな寝顔をしばらく見つめていた。そして、「大丈夫だ、ミァン。俺が守ってやる」そう耳元に静かに囁いてから、額にそっと口づけるとブランケットに潜り込み目を閉じそのまま眠りに落ちていった。
それから、三年後にミァンと呼ばれ続けたその少女はミァンというプログラムの中に封印されていた想いやっと伝えることになる。
「それでいいのよ、カール……。これで……全て……の願いが……かなう。貴方と…」
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