ありえないはずの人の気配を感じた時、泥のようになった
頭で私は思った。狂ってしまったのかと。このまま狂い死ぬなんて、可笑しくて笑い出したくなった。
まっとうに、誰かに看取られてベッドの上で死ぬことは無いと覚悟はしていた。
物心ついた頃から祖父や大人たちに混じって工作員としての訓練を受け、現場に出てからは尚更に。敵に捕らわれれば、酷い目に遭う。特に子供や女、抵抗する術を持たない弱い者は。そして敵が強い時は強い者でもどうにも出来ない時がある。
ひたすら屈せず、毅然とし、苦汁を舐めながらも機会を待ち続けなくてはならない時があると。大概の者は力尽き、狂気の世界へ逃避するか自ら死を選択することもある。
ソラリスの、守護天使に捕らえられ…彼のらしいフラットの、バスルームに繋がれてからはこのままなぶり殺されるのだと。
手すりと蛇口に腕を、姿勢を変える事も出来ないようにがんじがらめに鎖で固定された。明かりは一定の明るさで点きっぱなし。シャワーから常にぬるま湯が浴びせかけられる。
最初に時感。
眠る事も出来ず体力が。
そして、とうとう正気を喪い狂う時が来たらしい。
さっきから、部屋の総てが視界にあるというのに。
眠らないせいで、神経が針のように尖っている。何か些細な変化でも起これば気が付くのに。
私を見下ろしている、彼がいつからそこに居たのか分からない。でも、これだけ水気の有る部屋にいるのに、彼の纏っている長衣と鮮やかな赤の髪は少しも濡れていない。シャワーの水音が無ければ、軽やかな衣ずれの音が聞こえそうなくらい乾いている。
だから、『彼』は現実のものではない。
幻実と現実が曖昧になってしまうくらい、私は狂ってきている…。
虚ろな目だった。
浮かんでいるのは濃い疲労の色だけで、生気や精気が微かにしか残っていない。気力だけでもっている。
絶えず湯に濡れているというのに、血の気のない白い肌が重く身に張り付いた薄物を透かして見て取れる。
あのヒュウガ相手に、彼女も必死で抵抗したのだろう。
服だった薄物には所々、褐色に色あせた血が滲んだ跡と青紫になった内出血。
縛めを解こうともがき、擦れ、破れた皮膚。破れたままで、治っていない。
このままだと、いくら訓練を受けた工作員でも衰弱していく。
様子を見るだけで、去ろうとした矢先。彼女のやつれ、空虚だった表情が変わった。
疲れた笑みの表情。
「…あなた、だれ…さっきから人のこと見おろしてて楽しい?」
「我が見えているのか」
「まるで自分が見えていないのが当たり前のような事を言う…やっぱりあなた、幻覚?」
「幻覚か…それに近い者だ…妄霊…名前はカイン」
「天帝と同じ名前…」
天帝そのものなのだが、と答えようかと思ったが止めた。せめて、話し相手になって彼女に何らかの助け、あるいは僅かな慰めにでもなれば…。
「ぼうれい、ということはもう死んだ者なの?」
「ソラリスや世界のことを知る事は出来ても我自身は何も干渉したり手を加えたりする事が出来ないという意味では死んでいる」
「何も出来ない、か…今の私も何も出来ない…。私、もう死んでいると思う?」
「…このまま、何も食べず傷の手当てを受けず休養をとらなければもうじき死ぬ」
「…そう…」
「生きたいか」
「ここでは死にたくない……死ぬなら地上の方がいい…ソラリスの人たちは、地上は汚くて愚かな地上人たちがいる野蛮な場所だと言っているみたいだけど…地上は、時々美しいから…」
「やはりな…ヒュウガが、君をどうしようか困るわけだ…」
「ヒュウガって、誰…」
「守護天使と言った方がわかりやすいか。
君は…ヒュウガにそっくりだ」
「守護天使と私が?まさか」
「『野蛮で、汚らしい場所かもしれない。だけどあそこは、第三層は此処と違って暖かかったから』と。昔、守護天使になったばかりの頃にヒュウガは言った…鏡に映った自分を初めて見た時の事を、君は憶えているか?」
「…忘れた…」
「君は鏡に映った自分の姿に戸惑ったり、怖れを感じたりしなかったかね」
「…そうだったかもしれない…憶えてないけど」
「彼は、鏡の中から出てきたような者が目の前に現れた君に会った事を怖れている。戸惑っている、と言うほうが適切か。
君の事を敵だと、分かっている。だが、敵だからこそ分かり合える者という事も有る」
「私は、彼の考えている事やしようとしている事が分からない…軍人としても、人としても。
同じ言葉を話し、武器を手に互いに向かい合う任務に…就いているのかもしれない。でも、私は彼の事が分からない…。予想も出来ない…どうして、私をこんなめに遭わせたりするような、手間のかかる事をしたりするのか…。
カイン、あなたは守護天使の事に詳しいみたいだけど…なぜ?」
「ヒュウガは君と同じ…。
数少ない我を見ること、話を、声を聞く事が出来る数少ない子供」
ソラリスの者の殆どは我の姿を知っている。だが、本当に言葉を聞き話し、知っている者は一体どれほど居るのだろう?
「守護天使が子供?彼、二十歳くらいでしょう。一応、大人でしょう」
「我から見れば、この世界に居る者の殆どは子供」
「…ちょっと待って、あなたは…何歳?」
原初のころから在る者。
そして原初の『接触者』からミァンと呼ばれる『抱きしめ殺す母』の手により採り出され、切り離された接触者の妬み、嫉み、怒り。接触者の、分裂自我という影の存在。
接触者に、本体に成りかわろうとエレハイムと呼ばれる『抱きとめ受け入れる母』を手に掛けた者。
在ってはならない影なる者として仮面で耳目を塞がれ、地に降り立つ事無かれと足を斬られた者。
感覚器官を喪った者は別の能力を発達させる事で喪った感覚を補う。
我は妄霊となって人目に触れず出歩く術を得た。
それらを、今この娘に話した所で何になるのだろう。
「…我の歳については次に遭った時の楽しみにとって置く方が良いだろう…ここで今、総てを話してしまったら話す事が無くなってしまう」
小さく、それでも先刻よりは生気に満ちた眼で彼女は小さく笑って応えた。
「次に遭う時まで生きていたら…カイン、今度はあなたの話を聞かせて」
「…約束しよう」
生身の者なら、こういった時は握手をするのだろうが、妄霊の我は彼女には触れらる実体が無い。
それでも、エーテルで裂けた傷口を塞ぐ程度の事は出来る…。
「陛下…いかがなされました?」
「夢を、見ていた…ヒュウガよ」
「はい」
「以前に話した『羊歯の花』の事を憶えておるか?」
「花と同じ色の布を用いて摘み取り、人目に触れさせること無く持ち帰る事が出来れば幸福になれる幻の花の話ですか」
「そうだ…。
花には水が必要だが、水だけでは長く保たない…そんな夢だ」
天帝は、恐らく総てを知っていて言っているのだろう。
シェバトから血で染まった服に包んで連れ帰った血まみれだったユイ・ガスパールの事を。
「…例の任務で次に地上へ降りてもらう時は長くなる…今のうちにソラリスで為すべき事を済ませておくが良い」
それきり、ソラリスという天に浮かぶ牢獄に閉じこめられた老人は声を閉ざした。
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