「キ…を…て欲……の」
外を吹雪く風の音にところどころかき消された小さな声にシタンは椅子をゆっくり回して振り返る。蒼白く透明な光りの中うす茶色の髪が透けていた。
眼鏡の奥の目を丸くして聞き返す。
「ユ…イ…? 今、何て?」
ユイはくすりと笑うともう一度繰り返した。今度ははっきりと。
「キスをして欲しいの。あのころのキスを」
「…………」
微笑んだままユイは小首を傾げた。シタンはたたずむ彼女を言葉無く見つめる。
彼女は一人でそこに立っていた。たった一人で。
「今更、こんなこと言うなんてどうかしている……と思っている?」
シタンは小さく首を左右に振ると両手の指を組んで目を閉じた。
明日はデウスへと向かう。手筈は整っている。すべての結論が導き出されている懸案事項。明日の為にやることなどもう何もないのだ。
それでも考え得る最悪の事態を想定し、もう一度頭の中でシミュレートしてみる。 そうせずにはいられない。
第一に優先すべきは接触者フェイをベストの状態で安全にデウス本体へと導くこと。人格統合してから日の浅い彼はまだまだ不安定だ。
それを最優先する。他、すべてを犠牲にしても。
シタンは自分の巡らす思考の中にさっきからずっと浸り込んでいた。誰もいない自らの世界に閉じこもり、たった一人で。まるで、そこが唯一の逃げ場であるかのように。
後ろに妻が立っている、その気配にも気付かずに。
ユイは黙って熱いお茶を書類が散乱するデスクに置いた。そして、窓の外へと視線を緩やかに移す。その視線を追うようにシタンも窓の外に目をやった。
雪原アジトから見渡せる景色はどこまでもどこまでも真っ白い雪が覆うだけの世界だった。すべての色を奪われた無彩色な世界に残された灯りは希望。
最後の決戦場は、ここから遠い遙か北にある。
「いよいよ、明日ね」
「はい……」
ユイは、ベッドの脇に立てかけてあった折りたたみ椅子を引きずってくると腰をおろした。うす茶色の髪から、かすかにただよう匂いに張りつめていたシタンの緊張が緩んでいく。
湯飲みの温度を掌に移しながら、ふぅーと息を吹きかけお茶をすする。立ち上がった湯気が一気に眼鏡をくもらせ視界を遮った。シタンは白くくもったった眼鏡をシャツの袖でこすり書類の上に置くと真っ直ぐユイに向かい合う。
今、ユイに向けられた闇色の瞳はガラスというフィルターを通さない。
「私は貴女にだけは本当のことを話してきました」
「ええ……」
「辛い思いをさせてしまいましたね。夫らしいこと、ミドリには父親らしいこと、何一つできなかった」
一見、穏やかで絵に描いたように幸福そうな一家に見えていただろうラハンでの三年間も、すべてを知るユイにとっては心休まる日はなかったに違いない。緊張の毎日。
平穏な日々は、いつ崩れてしまっても不思議はなかった。
何も見えていない未来。
失う日……それは、明日かも知れなかったし十年後かもしれなかった。
小さいミドリはいつもそんな両親の間にある張りつめた緊張という波動にさらされていた。
父の優しい微笑みはどこか空虚で、微笑みの下にあるものは真っ暗で何も見ることはできなかった。母の声も手も暖かかったけれど、その中に潜む寂しさを知っていた。
お父さんがお母さんを泣かせるの? 母親によく似たうす茶色の瞳はそう訴えていた。
ふと、ユイはデスクの上に積まれた書類を所在なげにいじりまわす夫の指に自分の手を重ねた。そんなユイの手を握り返してシタンは妻の指先が荒れていることを知る。
雪原アジトで彼女がやるべきことなどいくらでもある。指の手入れまでは行き届かせることなどできないのだろう。
そんなことにすら気付いてやれなかったことに胸が痛む。
「両親の愛情を一番欲した時期に……ミドリにはかわいそうなことをしました。あの子が私に心を開かないのは当然です」
「貴方が悪いわけではないわ。貴方は妻である私や娘であるミドリを最優先に考えてはいけなかった。私たちに愛情を注ぐことを第一に考えていたのなら、私たちがここにこうしていることもなかったでしょう。だから、今はまだ無理でも、いつかあの子も理解してくれます」
ユイの言葉にこたえようとする微笑みは無理矢理で、今にも泣きだしそうにも見えた。妻にしか見せることのない顔。
夫に背負わされたものの重さをユイは知っている。
「陛下が……だから私を選んだと。陛下は『大切な人たちを愛しなさい』と言いました。そして、その一方で『決して愛情を持ってはいけない。情は捨てなさい。個に対する情は執着し縛ろうとするもの。それを捨てなければ人類の行く末など見極めることはできない』とも……」
ふいに、首に絡んだユイの腕に頭を抱き寄せられる。シタンはユイの肩に額をのせ目を閉じた。
体温の暖かさに気が緩んだのか、忘れていた身体の感覚を取り戻す。自覚していなかった強い疲労感。
「これが、ベストの選択だったかどうかなんて解らない。ユイ……もし……」
続く言葉をユイは静かに遮る。
「やめてください。悪い癖だわ。出会ったときから全然変わらないのね。達観しているようで、実はしつこく悩んでいる。潔くないわ」
シタンは顔を上げ、驚いたようにユイを見つめた。
「そ、そうですか……。修行が足りないみたいで、すみませんね」
くす……。ユイの小さな笑い声がした。シタンもつられて微笑んだ。
「やっと、目が笑ったわ……」
そう言うと、ユイはシタンの頬を両掌で挟み、その深い闇色の瞳を覗き込む。
ふいにユイの顔が近づき唇に柔らかく暖かいものが一瞬だけ触れて離れた。
体温を感じ合えるほどの距離で二つの吐息が混ざり合う。そして、お互いの想いを通わそうとするように、黙ったまま見つめ合っていた。
止まった時間がまた静かに流れだしていく。
雪原アジトの外は相変わらずの吹雪。
すべてを凍てつかせてしまう寒気に包まれたこの人類最後の砦。その中で、今この瞬間にも肉親達が、恋人達が、友人達が…それぞれの想いを通わせている。
一万年前に仕組まれた神の残酷なプログラムの前に人々はあまりにも非力だ。
勝敗は五分と五分。
この運命を前にして人々が交わす情など何も役には立たないことをシタンもユイもよく自覚していた。
だが……。
ユイはもう一度、言う。
「まだ恋だったころのキスを……」
シタンはユイの額にかかる柔らかい髪を指に絡め掻き上げると額から目尻へと口づける。
「必ず帰ってきます。今度こそ……貴女とミドリのもとに」
そう耳元で囁くと、今度はシタンの方からゆっくりと唇を重ねた。
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