ゼノサーガをキャラゲーにしてしまったEP1(その1)
キャラゲーというのは、貶し言葉とは思っていません。
ゼノギアスもあの世界観にはさほど興味を持てず、でもキャラ萌えのみで楽しんだかたは多かったと思います。藍晶も、ゼノギアスはその骨子のテーマよりは、その周囲のキャラたちの織りなす人間ドラマを妄想し楽しんだほうです。
また、プレイヤーにとってキャラゲーとして楽しめるということは、キャラが立っているということであり、それだけ魅力的なのでです。
一連のゼノサーガ語りの中についての意見、感想メールや、色々な情報のたれ込みをいただきました。しかしそこでいただいた情報をどう読み取ろうとしても、EP1でも、高橋監督のやりたかったとおりになっているとは読めませんでしたし、EP2、EP3が、EP1に比べて特別酷くねじまげられていて高橋監督にとって不本意だったという根拠になりそうな情報も見つかりませんでした。高橋監督は、インタビューやコメントの中で、原案になかったことが描かれたことに対し否定的な感想はおっしゃっていません。
高橋監督の奥様がサイトにアップしていたFAQを高橋監督の気持ちを代弁していると解釈されているかたもかなりいらっしゃるようですが、私はお二人を一心同体とは思っていません。また、もし代弁する意図でアップされたというのでしたら、それはあまりにも非常識なことです。
私はお二人を、そのようなかたがたとは思いたくはありません。
ゼノサーガ同盟の主催者さんは次のようにおっしゃっています。
発売され、ストーリーを見て、あぁ、これが高橋さんがやりたかったことなんだなぁと感じました。EP1は途中で終わりましたが、それだけでもたくさん考えることがあったし、今後の予想や考察など、皆様も楽しまれたと思います。
また、同じような論旨のEP1と比較した上でのEP3の批判文は他のファンサイトでもいくつか見かけました。
そこで、必ずといって良いほど、「高橋監督が全面的にかかわったEP1は、高橋監督のテーマが描かれていて、原案・監修のみに退いた、EP2、EP3では、削除されたりねじ曲げられてしまっていて、高橋監督のテーマが生かされていない」ということをその根拠にしています。
しかし、複数のスタッフが分担して創らざるを得ない大作ゲームの場合、「原案=脚本=監督」であったとしても、100%原案するかたの思い通りに表現できるものとは思えません。
そして、不思議だったのは、EP1を肯定し、EP3を否定されるかたがたは、「高橋監督の言いたかったこと」をEP1時点で、理解できたと主張されることです。
これには、正直驚きました。
私には、EP1~EP2まではプロローグのようなもので、とてもテーマらしきものなど、見えてこなかったからです。というよりほとんど描かれなかったことに対して、がっかりしたくらいでした。
EP1の「力への意志」から、高橋監督はその一番根底にあるテーマをニーチェに絞っていると受け取りました。ゼノサーガのメインテーマは、ニーチェ思想から切り離せないだろうことは間違い無いと思っています。
ポイントは、この物語りの中で高橋的ニーチェ思想がどのように描かれるのかということになります。
EP1で読み取れた人は、何を読み取ったのか知りたかったのですが、「理解している。感動した」と言いつつ、具体的にそれが「何」であるのか説明されているところはありませんでした。ほとんどは、U.R.T.V.、ジギー、モモについての考察というか、語りばかりです。そういったキャラに関するイベントにニーチェに触れるようなテーマは見つかりません。
EP1でニーチェ的な台詞、展開で、高橋監督のテーマを読み取れそうなイベントは、伊波氏の指摘であるヴィルヘルムの「力への意志」への言及やマーグリスの台詞、その流れでのアンドリューのエピソードくらいでしょうか。確かにそれくらいしか記憶しかありません。
そういった意味でも、EP1の出来は決して誉められるようなものとは思えませんでした。
この点についてSさんは、メールの中で次のようにおっしゃっていました。
当時、いよいよ本題かと身を乗り出したのを思い出します。
あと、序盤のレアリエンを巡るシオンとバージルの対峙もですね。
その本筋をEP3のみに集約させてしまったのは明らかに失敗です。
多少ストーリーが散漫になろうとも、EP1から積極的に小出しにしていかなければならなかった。
それだけ重要なテーマでした。
……いや、「永劫回帰」「超人思想」はゼノサーガの世界観の骨子テーマなのでこれらを伏線として散ちばめても散漫になるはずがない。
もしなったとしたら、「永劫回帰」「超人思想」をテーマとした世界観やストーリー、ひいてはゼノサーガ全てが完全な失敗作と断言せざるを得ません。
また、EP1に高橋的ニーチェ世界が表現されていないのではないかと、次のような感想も。
EP1のあのストーリーでキャラ以外に何にハマれと?と思い、ファンサイトが特定キャラに偏ったのも自然な現象と捉えました。
高橋的ニーチェ思想に興味を抱いていた者にとってはEP1を見て、一体何をしたかったんだ?と疑問符ばかりが浮かびましたが、キャラにハマった方にとっては、あれで十分だったんですね。
先読みは私の好きなところではありませんが考察するには材料が足りな過ぎました。
もっともさりさんのおっしゃるようにEP1~3がゼノサーガでありEP1だけで解釈できるものではないのですが、それでも1パッケージの中でひとつくらい明確なテーマを打ち出してほしかったです。
伏線らしきものがいくつかあるだけで全て保留にされてしまいましたからね。
連作への対策が練られていなかったのも致命的です。
ゼノサーガにおけるテーマはどう考えてもニーチェからはずせません。そのほとんどがEP3の「永劫回帰」「超人思想」に集約されているように受け取れました。
ずっと引っ張り続けてEP3パートに一番大きなテーマ「永劫回帰」「超人思想」を盛り込むことは当初の予定どおりだったのかなと思っています。
もっとも、それと高橋監督の意図とおりEP3が出来上がっているかどうかは別問題です。でも、少なくてもEP1よりは高橋監督のテーマは伝わってくると思うのです。
それなのに、高橋監督のテーマがうまく描ききれていなかったEP1のいったい何を見て、「高橋監督の言いたかったこと」を分かってしまったのか、EP3は高橋監督の言いたかったことが反映されていないと思われたのか、まったく理解できませんでした。
そこで、私は短絡的に結論づけます。
「高橋信者」
高橋監督が監督、シナリオもやったのだから、EP1はすばらしいと多くの問題点に目をつぶり、EP2、EP3が駄目なのが高橋監督以外の若いスタッフのせいと盲目的になっているようにしか見えなかった様子は信者としか言いようがなかったからです。
が、色々な反論というほどでもない意見をメールでいただき、読み、お返事を書いているうちに、「確かに信者体質的なものもあるかもしれないが、それだけではないかもしれない」と気づかせていただきました。
EP1を持ち上げ、EP3に不満をおっしゃるかたの多くは、監督の奥様、嵯峨さんのサイトから漏れる情報に影響されています。そして、嵯峨さんが作られたキャラ(U.R.T.V.、ジギー.モモ)のファンであることがほとんどです。それが、ポイントになるかと思っています。
私があるかたへ出した返事を抜粋し、少し文章をととのえ転載します。
このメールを書いていて気がつきました。実はEP1は嵯峨さん色がとても強いのですね。
なんとなくですが、にEP1がよかった、EP3はゼノサーガではないとおっしゃるかたは、高橋監督と嵯峨さんを一心同体としてとらえ区別されていないような気がしてきました。
そのせいで奇妙な齟齬を感じるのかもしれません。
なんというか、ジギモモ、U.R.T.V.がらみの描写は、監督のテーマではなくて、嵯峨さんのテーマが色濃く表現されていたのではないでしょうか。そう考えれば、そういったキャラを丁寧に描いていたEP1で「監督がいいたかったこと」がわかった気になるのは納得できます。そして、より監督色は強かったけれど、嵯峨さん色がほとんど無かったEP3は、「ゼノサーガでない」となってしまうのかもしれません。
だから、EP1を好きだというかたは、皆キャラはまりで、それも嵯峨さんが作ったキャラばかりだった……ということが腑に落ちました。確かに、ニーチェなど関係なくキャラ描写で十分嵯峨さんのテーマは伝わってくるかもしれません。
ただ、「監督のテーマ=(自分の琴線に触れた、実は)嵯峨さんのテーマ」ではないはずですし、少なくてもEP3でより強く監督のテーマを感じた人を否定することはできないのではないかと思います。
「キャラゲー」についての言及前に、息切れました。
続きます。