ゼノサーガをキャラゲーにしてしまったEP1(その2)
EP1は、「キャラ萌えできなかったら、どうやって楽しめばいいんだよ!」というような出来だったと思っています。
そりゃ、ゼノギアスからの繋がりを妄想したり、これから描かれるだろう世界観を想像して楽しむことはできたかもしれませんが、ストーリーに決着をつけられなかったことは致命的だったと思います。
EP1の制作発表の時、「ゼノサーガは宇宙の創世から、終焉までを描く、○部作(←覚えていないが、三部作なんて少なさではなかったはず)の作品。EP1で登場するキャラクターはEP2ではもう登場しない。ただ、ケイオスとコスモスだけが全編を通じて登場する」……といったような発表があったかと記憶しているのですが、よく覚えていません(タレ込み希望)。それなのに、EP1で終わらなかったこと、EP2にまでシオンた登場するということになっていて、驚いたものです。
ですから、EP1~EP3まではもともと一作にまとめる予定だったのではないかと想像しているのですが。
たとえ、EP1<EP2<EP3と出来がよくなったとしても、それぞれ、単独で完結していないものである以上、EP1>EP2>EP3と回を追うごとに販売数は減っていくのはあたりまえのことです。最初から完結しない「続く」状態で三部に分けることが予定通りというのはいくらなんでも考え無し過ぎます。といことで、EP1~EP3を一作品にまとめ上げることができなかっただけに過ぎないと考えていますが、いかがでしょうか。
ゼノサーガをキャラゲーにしてしまったEP1(その1)にて、「EP1では、監督のメインプロットよりも嵯峨さんのサブプロットのほうがていねいに描かれている。EP1をプレイして、監督の言いたいことが伝わったと感じたかたは、監督ではなく嵯峨さんのテーマが伝わっていた。それを監督のテーマだと勘違いしているのではないか」という、仮説を立てて語っています。
その根拠に、そういうかたがたは、
- ニーチェ的な台詞を語る数少ないキャラクターやシーンに注目している様子はない。
- 世界観の根幹に触れることがない、U.R.T.V.、ジギー、モモなどの嵯峨さんのキャラにはまっている、というかキャラ萌えである。
もっとも、これらはプレイ日記などから受けた勝手な印象でしかありません。統計的な調査など一切しておりません。
もちろん「違うよ」というかたはいらっしゃるとは思います。また、傾向としても違う(ファンサイトは、アンドリューやシオンのほうが多いよ……等)というのがありましたら、遠慮なく反論してください。
誤解していただきたくないのは、ゼノサーガにおけるテーマはニーチェ関連のみで、それを理解しろなどと言いたいわけではありません。いや、理解できているかどうかでいえば、藍晶だってほとんど理解などできてはいません。親切に解説してくださるかたに甘えてなんとなく、ぼんやりとわかったような気になるだけです。
テーマなど受け取る人それぞれ、どう受け取ったかだけであり、正解などないと思っています。プレイヤーが共感できる、楽しめるところで楽しめれば問題ないでしょう。
ですから、U.R.T.V.、ジギー、モモなどキャラが大好きで、キャラ関連のベントに感動できれば、その人にとってEP1は十分に価値のあるものです。そのキャラに共感し、そのキャラがらみのインベントに感動する、「素養」があったのです。藍晶にはその「素養」がなかっただけです。
メインプロットよりサブプロットのほうが面白いと感じたっていい。別にメインテーマを理解しなくてはいけないもではない。楽しんだ者勝ちです。
それでも、自分の好きなEP1のサブプロットをまさに高橋監督のテーマだったと主張し、そのサブがあまり描かれず、メインをとりあえず決着させることを第一優先させたEP3に対し「これはゼノサーガではない」と高橋監督を根拠に否定するのは、傲慢で軽率だと思うだけです。
サブプロットのためのキャラのほうが、メインプロットのためのキャラより、分かりやすくキャラが立っている。それ故多くかたがたにとって魅力的だったのです。ファンサイトは、極端に<「それ」にかたよっていましたから。
EP1でゼノサーガを熱く支持されたかたは、サブプロットキャラファンが、ほとんどです。そうなってしまうと、今後の期待も、サブプロットキャラの描き方が満足できるかどうかにかかってしまいます。
つまり、そういったサーガファンにとっては、サーガはキャラゲーとしての一点で大きな価値を持っていたのではないでしょうか。メインプロットがきちんと描かれたとしても自分の大好きなキャラは描かれない。そりゃ、納得いかないでしょう。
まずかったのは、「メインがサブに負けていた」という身も蓋も無い一言になってしまいます。そのために、EP1を支持したファンにサブプロットがメインプロットであると誤解させてしまったことではないでしょうか。
メインプロットからニーチェをはずせないとすると、メインプロットにかかわるキャラたちはどうl考えても、一般受けするようなわかりやすいキャラになるはずはないと思います。むしろ、理解力のある人以外には、何を言っているのか意味不明……となってしまうのが自然と思えます。(私にとっても意味不明な言動と思うの多かったです。ヴィルヘルムとかヴィルヘルムとかヴィルヘルムとか……)
キャラやその背後にある設定が魅力的であることは、責められるようなことではありません。
でも、というかだからこそ、演出でバランスをとるべきだったのと考えます。
サブプロットのためのキャラが魅力的でキャラ立ちしていればしているほど、控えめに演出をさせてこそ生きてくるのではないかと。ゼノギアスのシグルドがそうであったように。
原案で思い描いていた素材すべてを作品に盛り込むことは実質、不可能でしょう。そこで、最低限何を優先させるかを考え、取捨選択する潔さが必要です。
それを致命的に間違えてしまい、サブプロットキャラより優先させるべき、絶対に削ってはいけないシオンがらみの描写が削られてしまい、圧倒的な説明不足になってしまいました。そして、プレイヤーにここまでバッシングされる主人公にされてしまったとしか言いようがありません。
確かに、EP3感想掲示板で、伊波さんが指摘されるように、シオンには設計段階から主人公としては致命的な欠陥をかかえているかとは思います。でも、演出次第でもう少し支持される主人公になれたと思うのです。
……と書いてきて、EP3世間での評価、実は高いようですね。アマゾンのレビューを見たのですが、かなり良いんですね。(そこまで高評価……というのは、解せないといえば解せないのですが)
メールで色々な意見を伺って感じたのですが、EP1よりも。EP3を支持(というか、まあ取りあえず納得したレベルかな)というのは、EP1時点でキャラ萌えはしていない。そもそもEP1の出来にかなり不満があったかたといった印象です。