フィクションにおけるセクシュアリティ3
羅川 真里茂 (著)「ニューヨーク・ニューヨーク」の文庫版を購入しました。
最近はまった漫画(というか、はまったのはキャラ)「しゃにむにGO」と同じ漫画家さんが描かれたということで、読む気になったのですが。
感想を一言で言ってしまえば、「とても、よく出来ている」といったことになります。
少女漫画については、かなり疎いので断定はできないのですが、もしかしてここまで、真摯にゲイを描いた少女漫画って無いのではないでしょうか。少年漫画に至っては真摯もなにも、ゲイを描いた漫画がほとんど無いでしょう。あったとしても、ただの笑いものにされるために登場するオカマキャラくらいなものですね。
少なくても、ゲイ主役の少年漫画って、ありましたか?(あれば読みたいので、是非タレこんでください)
たぶん、こういったものを「リアリティがある」と評価されるのでしょう。
この作品の共通した評価は「ボーイズラブ、ヤオイとは一線を画す作品である」のようです。
実際、ゲイのかたからの評価も高く、すこたん企画の伊藤悟氏が二巻の解説を書かれています。
ゲイを描いているといっても、ストーリー、テーマともに、古典的な純愛ものです。別にゲイ故といったものではありません。
一度も、恋人として男とつきあったことも愛したこともなく、不特定の相手とその場限りの関係を持つ、警察官ケイン。そんな彼が、酒場で、メルという青年と運命的な出会いを持ちます。
が、そこはお約束で様々な障害が二人の前に。そして、大変な事件に巻き込まれながらも、二人は愛を貫くのです。
ね、古典的純愛ものでしょう?
男女ものでも同じですが、こういった恋愛を軸に描いた作品では、演出として様々な障害がつきものです。古典的な障害としては、ライバルの妨害とか、偶然のすれ違いとか、身分違いとか、身内の無理解とか。
さらにドラマティックに盛り上げるには、「陰謀」やら「犯罪」に巻き込まれてみればいい。
この作品では、ゲイカップルが主役であるので、ここで描かれる彼らの障害は、彼らを取り巻く社会そのものです。
自分がゲイであることを肯定的に受け入れることが出来ないケイン。息子が同性愛者であることを生理的にどうしても受けつけない母親やケインの親友。ゲイであることが周りに知られたときの職場での中傷、揶揄。
現実のセクシュアルマイノリティが置かれている社会的状況を忠実に描くことが、この作品の恋愛障害の演出になるのです。
家族や周りの人たちの葛藤、苦悩。そしてそれを乗り越えていく様子が、興味本位ではなく、資料に基づききちん描いているだろうところに好感が持てます。
もっとも、それ故、現実の同性愛者の手記や同性愛関連のニュースで目にしたことがある表現が多く、「これってどこかで読んだな」と感じさせるところ多々ありましたけど。
これは、当事者で無いが故の慎重さと言えるかもしれません。
この辺は「しゃにむにGO」でも同じように感じました。テニスをプレイしないということで慎重になっているのか、地に足がついた漫画になっています。その分、少年漫画のスポーツものにありがちな、突飛で超人的な技など何もありません。まあ、笑える面白みには欠けますが。
アメリカ(というかキリスト教・イスラム 教・ユダヤ教等の旧約聖書がベースになる宗教が幅を利かせている国)と、もともと無宗教だけどどちらかといえば、仏教、神道といった日本や他のアジア仏教国とどちらが、同性愛者に対する偏見が根深いかと言えば、むしろ、前者です。宗教的すり込みは一朝一夕のモンじゃないんですからね。
根深いが故、セクシュアルマイノリティに対する暴力も半端なものではありません。それ故、アメリカでは、同性愛者を保護するように法を整えたり、人権団体がより強く目を光らせる必要性が出てきたのでしょう。
日本で普通に使われるようなマイノリティに偏見に満ちた表現を、うっかり使かったら大変なことになる。
法的な整備や、その手の人権団体の声が小さい日本と比較してどっちがマシかというと微妙なところですけどね。
※余談ですが、芥川賞作品「蛇にピアス」に関して、ジャーナリストの北丸雄二さんがニューヨークジャーナルでこういったことを。さらに、サイト内での日記で、 次のようなことを書かれています。
「ニューヨーク・ニューヨーク」の解説で、伊藤悟さんは、「この作品のケインとメルの一途さを『ゲイだから』といった目で見ないで欲しい」(本をうっかり会社においてきてしまったので、うろ覚えです。あとで修正するかもしれません)と言っています。
確かに、異性愛はいくつものドラマ、小説、漫画等で色々なパターンで描かれています。また、知人たちのさまざまな恋愛話を聞けます。だから、一つの描かれかたで、「この恋愛は異性愛だからこそで、異性愛は皆こうである」といった誤解は生みません。
実際、ゲイにも色々な人がいます。一生ただ一人のパートナーと添い遂げる人、また一人に縛られるのを嫌い、多くの相手を渡り歩く人。また、パートナーがいても、別の相手を求める人。
それは、異性愛者となんら変わることはありません。
たとえ、傾向的なものがあったとしても、異性愛者の恋愛観を一括りにできないように、同性愛者や両性愛者の恋愛観や人生観を一括りにすることはでないのです。
恋愛観も人生観も人それぞれということです。
フィクションにおけるセクシュアリティにて、こんなことを書いたことがあります。
ヘテロセクシュアルは描かれることが多いので、ヘテロセクシュアルというだけで、キャラの個性にはなり得ないのです。が、バイとかホモセクシュアルは、滅多に描かれないので、そういった設定自体が一つのキャラ個性になってしまいます。バリエーションが、少ないと一つの描かれ方の印象比重が大きくなり、ステレオタイプ化しやすい。ヘテロセクシュアルなどいくらでも描かれるし自分の周りにもいくらでもいるから、そのキャラがいかに変態的に描かれようが、それを「ヘテロだから」的に結びつけることはないのです。
調査方法、地域によっては、同性愛者の割合は、10%を越えるという報告もあります。
実際、同性愛者を含めたセクシュアルマイノリティに対する偏見が強ければ、自分がそうであるとは認めようとはしません。
ですから、日本の現状としてはかなり少ない数字が統計的にはじき出される可能性のほうが高いでしょう。
間(?)をとって、5%くらい存在すると仮定します。
二十人いれば、1人、40人のクラスに2人は同性愛者がいることが当たり前なのです。
小学、中学、高校と関係なく。
ならば、小説、ゲーム、アニメ、漫画、児童文学……どんなものでも、そのフィクションの中に何十人も登場キャラのうちすべてが異性愛者であるという設定は、むしろ不自然と言えます。
そういった創作の中に、ごく自然なこととして同性愛者等のセクシュアルマイノリティが描かれるようになってこそ、健全だと思っています。
児童文学に異性に対する淡い思いが描かれるのならば、同性に淡い思いを描く小学生がいたっていい。いや、そういった子どもがかつて描かれることがなかったというほうが不思議です。
同性愛者であるということは、特異なことでも個性でもありません。異性愛者が個性になり得ないように、同性愛者だから……というキャラ個性への結び付けかたは偏見からきています。「同性愛者=変態」 などというのは論外として、「同性愛者は芸術的センスがある」 等の肯定的なものであっても。
「ニューヨーク・ニューヨーク」は確かに同性愛者の置かれている現在の状況があるからこそでしょう。それは、現代社会の持つ問題があるからこそドラマになり得ました。
ここまで、真摯に「同性愛」を描いた羅川 真里茂 です。
今後、彼女が描く同性愛がテーマではない作品に、たとえば脇役としてでも、自然にさらりと同性愛者の存在が描かれるかどうかが気になるところです。
キャラ数からいっても、「しゃにむにGO」あたりに描かれても不思議は無いのですけどね。