良くできた小品、と言うのが正直な感想。イメージとしては海外の連続ドラマ、特に刑事物の匂いが強い気がする。ゼノサーガ本編は全体的に分裂症気味な作品なのだが、一つのキャラクター・一つの事件に焦点を当てたこの作品は(設定レベルや人間関係図などを読み取れれば)まとまりの良い作品となっている。物語的には、プロット/構造レベルでそれなりの完成度を持っている。よく言えば「基本に忠実」、悪く言えば「何処かで見たことがある」。ただし、作品世界の独自性がそれなりなので、プロットレベルまで解体しなければ、そうそう不満が出るものとは言えない。
一方のサプライズとしては、RPGという拘束性/拘束時間が長いゲームにおいて、主人公が30代、ヒロインが子持ちのヒロインという設定は正直攻撃的だと思う。メジャーなストーリー性の高いゲームとしてMGSのようなタイトルがあるとはいえ、RPGが一般社会に開かれてからおよそ15年、その間にユーザーとクリエイター、市場が成熟したことに思いを馳せる。RPGが少年期であった頃は既に終わっていることを実感する。
それは同時に、ゼノサーガのようなハードSFと思索SFの折衷を許す事にも繋がっている―――市場に対して成功しているとは言い難いが。ただ、その上で、「SF」という「世界(観)」の上で成立している「刑事物」という「趣向」がこれほどマッチしている例も少なくない。ゼノサーガはそれ自体が「大きな物語」として機能することを任じられた作品だが、そうであるが故に削りだしのSFである本編より、それの表面をなでるだけのPied Piggarの方が「SFらしい」のは、まるでかつてのSFにおける拡散と浸透を一つ の作品世界内で見るかのようだ。
(わかりにくい例で喩えるのなら、1STガンダムより、0083の方がより「ガンダムらしい」と言うことか)
本稿では、こういった作品外観の認識の上で、ゼノギアスから続くゼノシリーズ/高橋監督作品の一つであるという事をふまえ、キャラ造詣と作品の主要ガジェットについてのとりとめのない思考を垂れ流す物である。毒電波とか取ってくれて結構コケコッコウ。
さて、本作の主人公はジギーことジグラット社製サイボーグ・ジグラット8の「前世」、ジャン=ザウアーである。ここでは彼のキャラ造詣を探るため、ゼノギアスにまで遡り考えていこう。
いうまでもなくゼノサーガはゼノギアスの後継作品であり、ゼノギアスから多くの影響を受けた点が見受けられる。主人公パーティには特にその影響が強く、ゼノギアスのメインキャラクターのリメイクをサーガで行っているのだと解釈できる。念のために言っておくが、これ自体は批判の対象にはならない。個人レベルの制作では、キャラクターの造形など、10も作れれば多い方だからだ。
ジギー(=ジャン)の役割はパーティ内における相談役、大人役、理性、過去、教師といったところだろう。Jrやサクラに対するジギーの役割から、これはわかりやすい。同時に、ジギーは「既に死んだ人間(=過去)」であり、そうである人間が何をできるのか、と言うテーマと、サクラ・Jrに対応する「機械になりたい人間」というモチーフを抱えている。非人間に対する眼差しというのはギアスから共通する高橋監督のモチーフの一つのようだ(ギアスにおけるエメラダや亜人、スファラディー化した人間にその眼差しがある)。人間性の回復と人間賛歌、というのはおそらく高橋監督作品の大テーマだろう。
その上で見ると、おそらくジギーはギアスのリコを前身としたキャラではないかと考えられる。と言うより、「パーティキャラとして考えた際の、リコの本来の立ち位置」を再考したキャラだ。
と言うのも、リコはエメラダと並び、ギアスのメインキャラに置いて最も失敗したキャラであると僕が考えているからである。リコはメインキャラ勢に置いて最年長でありながら(シタンよりも一歳年上、だったはず)、実際にはフェイと同質の「幼年期のトラウマ」をテーマとしたキャラであり、しかもその克服に決定的に失敗している。本来なら「スラムの長」という主人公よりも上の立場で、梶原一騎マンガ辺りなら「社会性を植え付ける」役割のはずなのに、それを行うどころか主人公と常に対等の立場に立たされていることから必然的に現れる結果と言える。これはシタンと役割が重なっていることもそれに拍車をかけているのだろう。
以上の問題点から、ジギーはパーティーメンバー唯一の「成熟した男性(ただし臑に傷持ち)」として設定されたのだと考えられる。Jrの外見が少年であること、ジンが社会不適合者でダメ兄貴として描かれていることはそういった計算上の要請とも考えられる。
Pied Piggarは、そのジギーの「生前」、彼がサイボーグとして再生する前、いわば「前世」の物語だ。この中で語られるのはジギーというキャラクターの基本骨子に関わることであり、ぶっちゃけこんな媒体で発表するのはどうよと本気で思うのだが……(笑)
高橋監督作品のキャラクターに特徴的なのは、幼少期のトラウマが人格を決定する、というフロイト/ラカンモデルを重用することである。ジギー、ジャン=ザウアーもその例に漏れず、彼が刑事という職を選択した遠因には、幼少期に警官だった父が殉職したことにあると描かれている。父親に対する愛憎が彼の人格や人生観に大きな影響を与えているのは間違いなく、またその点は義理の息子となるホアキンへと接する態度によくあらわれている。
面白いのは、今までの作品やキャラクターが青少年期における葛藤とその克服(多くの場合、オイディプスコンプレックスと重ねていると思われる)に焦点が当てられているのに対し、ジャンは青年期における克服と、その挫折を描いていることである。
ジャン自身が社会的には成熟していながら、一方で何処か少年的な未成熟さを有している事は作中によく出てくる。要するに不器用な男なのだが、彼はシャロン・ホアキンと接することで精神的に成長し、家庭を持つことでそのトラウマに一定度の解決に成功する。そして、その安息を奪われるという構造だ。
少なくとも、青少年期のトラウマを克服したことがある、と言う点は非常に興味深い。多くの場合、こういった克服は「自明のもの」として作中の「大人」キャラは現れるのだが、それをあえて自覚的に行うことにこのキャラの意義はあるように思える。
Pied Piggarを見ておかないと、どうしてジギーがユリ・モモ母子にこれほど世話を焼くのかが詳細に伝わってこない。ジギーのキャラクター性はなかなか通好みな気がするのだ。
――――――江原正士だしね、声優。
このテキストの準備稿では、実は一つ大きな抜けがあり、読み直してここに記述している。準備稿では「ゼノサーガではニーチェの超人思想を強く押し出しているのに、永遠回帰をあまり重視していない」と描いていたのだが、もしかしたらそれは大きな誤読かもしれない。
永遠回帰説というのは「人の『今』は永遠に繰り返す」という思想的試練のこと。喜びも悲しみも、すべて永遠に全く同じものが繰り返され、それが真実であり、そうであったとして人は絶望しないか。絶望しない人間を生み出す物こそ思想であり、芸術であり、そして完成された人こそ「超人」と呼ぶ。それが人類の使命で目的だ。―――ざっと言えば、これがニーチェ思想の主要概念の一つである。
Pied Piggarとは、つまりその「絶望」を綴った物語なのではないだろうか? 例えそれ(愛する妻子を失うという事実)があったとしても、それを「事実」として受け入れ、目を背けず、糧として、前を向く。ジギーにとって、Pied Piggarの 物語は「かつてあった自分の決心」の物語であり、ゼノサーガ本編は「かつてあった自分を取り戻す」物語なのかもしれない。
なお、さらに妄想。もしそうだとしたら、―――モモはともかく、ユリ博士の命は物語的に結構危うい気がしてならないのだ。
ジギーは「家族」が欲しくて、それを求めたわけだが、結局それは壊されてしまう。実は、こういった物語構造は特に90年代後半以降、先鋭的な美少女ゲームによく見られる構造だ(具体的には「家族計画」「Air」あたりがいいだろう)。
「家族」の問題はオタク考察に置いて避けて通れない問題だ。オタクとは元来「お宅」、つまり「(あなたが所属している)イエ」を示す言葉であり、同時にイエ制度の崩壊と個室・核家族の後に生み出されたトライブであることをさす。
90年代後半以降、男性オタク市場の共通価値となった「萌え」は、本田透の言によれば「男性の中に存在するアニマの発露」と言うことだが、それは単なる主人公と属性少女の無垢な関係性のみをさすのではない。「萌え」には確実に、共同体への意志が内面化されている。それは例えば東鳩が描く「なかよしグループ」であったり、田中ロミオが描く「仲間共同体」であったりするのだが、その一つの求めが「家族」である。
ところが、特に「萌え」市場で描かれる家族は不可思議なほどに捻れ、そして物語を描こうとすればするほど破綻する。それはまるで、「物語ることは家族の崩壊を招く」と言わんばかりである。オタク(特に萌オタク)の欲望が本質的に思春期性に根ざし、セクシュアル/ジェンダーへの欲望有しているという説も根強い。そしてそうであるが故に、「母体」としての家族の喪失と、新たな「母体」である家族の創出への失敗を描くのだ、とも言われる。
オタク作品(ゼノサーガがオタク向け作品かは疑問だが)における「家族」に対する問題は、オタク考察以上に広範な意義を持つ論考となると考えられる。
ネストリウス派と言えば東方からアフリカまで分布する異端教会の派閥だ。中世には中国まで布教し、当地では「景教」と呼ばれた。中世における東方救世主、プレスタージョン伝説はこのネストリウス派を指すと言われている(実際に来たのはチンギスハン率いるタタル族だったわけだが)。
移民船団の詳細がいまいちよく分らないからおおざっぱな考えになるが、おそらく「移民船団」とは、ゼノサーガ年表にある、地球を追われた民の一部、未だに拠点を得られていない移民者たち(と言っても、そうだとすると既に20世紀近く漂流していることになるが)が宗教結社化した存在ではないかと思われる。彼らの中には惑星に植民した集団もいるようだが(アブラクサスはまさにそうなのだろう)、彼らはその植民者に対しても宗教的な要素を忘れずに付け加えているように見える。
と言うか、地球を脱出した船団は本来すべてが「移民船団」であり、やがて地球に帰ることより新たに入植を決めた人々が「星団連邦」の始祖であり(だから星団連邦の主星は「エルサレム」という名なのだろうか?)、本来の目的・地球への帰還を固持し入植を拒むのが現在の「移民船団」という構図なのか、な? 正直、どうして本編において移民船団の説明がないのかが気がかりではある。
ちなみに「アブラクサス」は元々グノーシス派の用語である。その意味でも異端教会と関係のある名だと言える。
UMN、Unus Mundus NetWork。ゼノサーガ世界における主要インフラであるこれは、設定系として解説が何度か行われているが、その詳細はあまり触れられていない。
UMN、これを無理矢理訳すると「全一領域網」とでも言ったところだろう。ウーヌス・ムンドゥスはユング心理学の用語で、一般には深層の集合意識のことを指す。東洋哲学に造詣の深かったユングは仏教哲学の阿頼耶識の概念から作り上げたと言われており、僕自身ではそれの違いを説明することはできない。
ゼノサーガ世界は全体として認識学、実存論を基底としておいている。近代実存論の創始者ニーチェから始まり、フッサール・ハイデガー、そしてフランス現代思想へと繋がるこの系譜の中心軸は、「世界とは認識したもの(人間・現存在・解釈者)が映し出すもの」という考え方である。世界とは「物自体として存在するもの」ではなく、「観たもの(観客=認識者)が観たことにより映し出すスクリーン上の映画」のようなものなのだ。(*1)
その系譜をさらに遡ればライプニッツのモナド論や中世の錬金術・隠秘術、古代のギリシャ哲学まで遡れるのだが、この辺りは省略。用は、「意識が世界を作り出す」という考えがゼノサガには根底にある、と言える。
その最も大きな例が(というより、その根幹が)UMNだ。UMNが名前の通りなら、それは意識(別に人に限らず)の深部にある「全領域/世界を包み込む意識/情報の海」を経由し、事物を情報化して意識により再現するシステム、だと言える。
人がUMNを通して単独で移動できないという設定は、単なる個人が集合無意識に飲み込まれて戻って来れないと言うことか、あるいは人には「自意識」があるために集合無意識に埋没できないかのどちらかだろう。また、これはKOS-MOSが「UMNを通して単独でのドライブを行っていない」事への伏線であるような気もする(=KOS-MOSに自我はあるかどうか)。
UMNが危険だ、というのは、つまりそれが本質的に「人の意識そのものをインフラとして使用する」媒体だからだ。例えば別所でUMNはEPR相関の研究から派生した、という記述がある。EPR相関というのは―――正確に記述すると本稿より長くなるし、僕の理解の範疇外となってしまうのでたとえ話に終始してしまうが―――「ある種の情報は物理的速度を超えて伝達する」という、量子力学上の論争問題である。
例えば、「男性のA君が結婚した」という情報を1光年先の惑星へ光通信した。当然、情報が伝わるまでには一年かかる。この中にはA君の相手が誰なのかは記述されていないが、「A君の相手が女性である事」は物理的距離を超えて情報が伝達する。「その情報は記述されていないにもかかわらず」だ。情報にはこういった、物理的距離を超える能力、エントロピーに左右されない力がある。UMNはこういった情報系を利用しているのである。(*2)
表向きに考えれば、人の集合無意識に干渉できるかもしれないし、裏向きに考えれば、「存在し得ないもの」を生み出してしまう可能性も十二分にある。そもそも、UMNが顕在化した場合、何を基準に存在/非存在を分け隔てられるというのか?
そう、その結果がグノーシスなのだろう。
(*1)だからといって、近代実存論がオカルティズムの様に「物理的実体」を否定しているわけではないのだけれど。(注釈1のある本文へ戻る)
(*2)もちろん、これはたとえ話。EPR相関は量子論の話で、これらの研究は現実の量子コンピューターなどに適用されている。そう言えばギアスのエルドリッジにあった「マハノン」中枢、「ラジエルの樹」は量子コンピューターだったっけ。関係があるのだろうか?(注釈2のある本文へ戻る)
Pied Piggarからは離れていってしまうけれど、メモ書き程度に。
ゼノサガには死生観に関する思想も結構根強くある。ゼノギアスにおける波動存在のような存在かと考えられていたウドゥはどうもそういったものではなく―――現段階だと、漠然としたイメージでしか語ることはできない。それは例えば混沌や、干上がる宇宙や、底のない集合無意識のように見える。ただ、多くがそれをエネルギーの場であり、逃れられない終末への運命の様に捉えているように思える。
ヴォイジャーはそこから逃避する方法として、人の意識を「固定」する方法を。
ユーリエフはおそらくだが、ウドゥを押さえる「延命」する方法を。
ヴィルヘルムはウドゥを乗り越える「超人」への道を。
ヨアキムは終末を早め、その先を望む「楽園」への道を。
ケイオスはヴィルヘルムとはまた別に、衆生を助ける「救済」への道を選んでいるように見える。
―――ヨアキムはおそらく「フィオレのヨアキム」の事だろう。千年王国を描いたこの男の思想は、後に錬金術・神秘学の大きな思想的潮流になったと聞く。また、ミズラヒは現イスラエルにおける「東方ユダヤ人」を指す言葉。イメージ的には、移民船団の「東方系の教会」と何らかの相関関係を狙っているのではないかと思う。
以下、藍晶からの補足を少し。
「XenosagaPiedPiper」は何故かボーダフォンのゲームです。藍晶のキャリアはボーダフォンではありませんのでプレイすることは不可能です。それをあるかたからのご厚意でプレイ中に記録されていた全台詞と描写メモを藍晶と伊波さんとでいただきました。
ですから、上記の伊波さんの考察はゲームを直接プレイしてのものではなくそのいただいたテキストを読んでのものです。しかし、「XenosagaPiedPiper」はそれを読んだだけでシナリオの出来の良さが伝わってくるというのが、藍晶と伊波さん共通の感想でした。そこで、無理を言って伊波さんに考察文を書くようお願いして、できあがってきたのがこの考察文になります。
にしても、「XenosagaPiedPiper」はEP3に向けてのかなり重要な情報を含んでいますので、ボーダフォンという媒体を使ってしまったのは首を傾げるばかりです(docomoならよかったというわけではないのですが)。なんらかの方法でEP3発売までに媒体を広げていただきたいと本気で思います。(DS版のおまけにつけてほしい)
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