太陽色
■第一話■
男は褌一丁で寝転んでいた。
風は一切吹かなかった。吹いたとしても心地いとは言いがたい風だった。
「ギラギラとした」では不十分な太陽は、男の身体を焼き付ける。土と同色の肌が、少しばかり赤味を帯び、ダラダラと汗が流れた。
しかし、そんな汗も見る見るうちに蒸発していきそうな程、太陽の眼差しは強かった。息も次第に荒くなっていく。
それでも男は動かなかった。
顔から吹き出す汗が目に入った時だけ、男は気だるそうに手で顔を拭った。
顔は泥まみれになっていくが、顔を洗いに行く気はないようだ。それから数十分たった後で、腹がなった。低音で、それは大地に響いた。男は泥まみれの手で腹を撫でた。
それから少し経っても、腹は鳴きやまなかった。鳴く度に男は腹を撫でた。男はそんな腹に嫌気がさしていた。
五十三回目に腹が鳴いた時、撫でずに下にひかれた土に触れた。何度も何度も爪を立てて土を引っかいた。
すぐに手首まで入る程の穴ができ、男は穴に手を突っ込んだ。右へ左へ手を動かし、何かを探っている。穴から手を抜くと、男は黒い物体を手にしていた。
片手いっぱいの大きさのそれを見て、男は微笑んだ。
フッ、と息を吹きかけると、パラパラと土が顔の上に落ちた。もう一方の手で顔を拭ったが、意味はなかった。何かの合図の様に腹が鳴った。
顔を拭った手はすでに腹をさすっていた。
まだ十分に土のついたそれを、男は口に入れた。
カリッと少し噛む音と、シャリシャリという音に続いて、ゴリゴリという不可思議な音が、口の中いっぱいに広がった。満足気に笑うが、次にふってきた声に男は笑顔を消した。
「剛羅村の名無しよ〜。」
凛とした声が畑中を包み込むと、男は手の物を口から離して仰向けの体を嫌そうに動かした。彼は、剛羅村の村長の息子である。名をフェイといった。
「そう、背を向けるな。」
カラカラとした笑い声が響いた。同時に風が吹いたが、別段涼しくなることはなかった。生暖かい風である。
乱れた髪を嫌そうに手で直しながら、フェイは一歩足を踏み込んだ。
「入るな。土が泣く。」
男は静かにそう言った。不機嫌極まりない声色だったが、フェイは気にした様子は全く感じられない。
踏み込んだ足は元に戻され、彼の大きなため息のみが広がった。男はフェイの行動一つ一つを全く気にせず、また手のそれを口にした。
カリコリ、シャリシャリ。
「うまいかー?」
フェイは、一向に顔を向けぬ男に声をかけた。
返ってきたのは返事ではなく、食べかけのそれであった。歯型がしっかりついたそれを、上手くキャッチしてフェイは苦笑した。男がかじった所から覗く薄い黄土色は、まさしくこの畑一面に植えられている芋であった。
「食えるのか?」
「食えないように見えるか?」
男の声は不満の念を帯びていた。フェイはもう一度その手の中の芋を見たが、それはどう考えても口に入れられた物ではない。
「見える。」
「ならば返せ。もったいない。」
フェイは返事もせず、芋を返すこともなく、手の中にある芋をいじった。手も爪の中も真っ黒になった。
同じように真っ黒な芋を服でこすり、泥を少しばかり落とした。それでも、まだ芋の物面影は現れてはこなかった。
「返して欲しくば、ここまで来い。」
男は嫌そうな顔をした。フェイからはその表情は見えないが、嫌だという言葉はその背中から伝わった。
「ここまで投げろ。」
「そんな下品なことができると思うか?食べ物を投げたら駄目だって小さい頃習っただろう?」
フェイは、芋を真上に投げて遊びながら、鼻で笑った。フェイはいつもより口を開く。男は畑へ、フェイはその外に。こういうシチュエーションは度々あったが、お互い共にいるだけで、あまり口を開かなかった。
男は根っからの無口だし、フェイは多くを話そうとしない。外面は良い方だったが、男に対していい顔をすることはなかった。
しかし、今日のフェイはいつもの倍近くは口を開く。男は耳を傾けているだけであまり返事はしなかった。
暑い陽射しのおかげで、汗が流れ落ちていく。不機嫌な男の背にも大粒の汗が広がっているのが見てとれる。風は一切の行動を止めたようだった。
フェイはポケットの中に入っていたハンカチで汗を拭いた。男は汚れた手で顔を拭った。「暑い。」という単語は暗黙の了解かのように喉の奥で押しとどめられた。
二人は何度も汗を拭うが、そのことに関しては何も言わない。フェイが真上に投げていた芋は、フェイの手を掠めて地に落ちた。
静かというには静か過ぎる空間に、芋の泣き声が響いた。男にもその声は届いたが、別段気にした様子はなかった。
「なぁ、名無し。」
「あぁ、なんだ?」
「俺は、明日から都に行くことになった。」
ほんの一瞬、生暖かい風が吹いた。それは畑を駆け巡ったが、その風は二人を心地よくするには不十分であった。フェイは喉を鳴らした。この静かな空間に溶け、男の耳には届かなかった。フェイは都の方を見た。
地平線上に幻影の様に建物が大きく揺らいでいた。男もそれを見ていた。
「都とはー…」
都とはでかいのか?
いや、小さい。お前の畑を五つ合わせたくらいだ。
五つ?それじゃあ剛羅村より小さいじゃないか。
男は顔をしかめ、フェイをジッと見た。
いいや、だまされんぞ。
だます?俺が?そんなことがあるか。本当のことだ。都は王の家みたいなもんさ。許された役人と、許された町人だけがそこに住むことを許される。大きい必要はないのさ。
男はただフェイを見つめていた。腹が二度ほどなったが、気にはならなかった。
「なんだ、お前…。」
都に興味があるのか?
フェイはニヤッと笑った。
行きたいとは思わんが、興味はあるな。一度も入ったことのない所だ。学校でどう習おうとも実感がわかん。
男は起き上がってその場で胡坐をかいた。フェイはすぐに男の側まで来て隣で胡坐をかいた。
都は『朝のない街』と言われている。朝は時計が知らせてくれる。朝日を都の人間は知らない。朝日が入るのは都に並ぶ高層ビルの上の階の数戸のみ。ほとんどが王の持ち物だ。都は高い壁に囲まれ、高層ビルがひしめき合う。入り口は二つ。そこには何百という軍兵が置かれ、二十四時間、三百六十五日都を守る。都に入るにはー…これは知っているかもしれないが、王の許可書が必要だ。役所に書状を送り、その返答に許可書が入っていれば、入都できる。
「あの小難しい制度は嫌いだ。」
男はまっすぐ見つめた。そんな男をフェイは見つめた。
「お前はそんなところにいくのか?」
「あぁ、前に許可書が届いたんだ。入都は明日。」
フェイは懐から一枚の紙を取り出した。小難しく書かれた書状に何かを象徴するであろう印が押されている。
しかし、男にしてみれば唯の紙切れで、これに何の価値があるのかはわからなかった。男は見せられた紙を手にしようとするが、自分の手を見てそれを引っ込めた。
「オヤジさんもさぞかし喜んだだろう?」
ニッと男は笑った。男はフェイの父にひどく世話になっていた。その彼の喜びを考えると自ずと笑顔がこぼれた。
フェイはそんな男を困ったように見た。男はフェイの顔を見て眉をひそめた。真っ赤な顔は確かに青ざめていた。フェイの目は今、焦点を定めてはいない。
「お前、反対されたのか?」
微かな不安が過ぎった。
「い、いや…。」
フェイは首を大きく振った。瞬きが多いのを男はしっかりと見ていた。青い顔がさらに青さを増したようにも思われた。
自分とは確かに違う、玉のような汗がにじみ出てきているのにも気づいた。男はフェイに近づいた。泥まみれの手がフェイの頬をかすめた時、男は目を見開いた。
「お前、狩りにでも行ったのか?」
フェイは眉を寄せた。男はフェイをジッと見る。獣の臭いだ。と男は呟いた。フェイは首を少し傾けて服の臭いをかいだ。別段異臭は感じられなかった。
「そんな臭いはしないな。」
「いや、血と肉の臭いだ。」
男はフェイの服に鼻を寄せた。フェイは目を大きく見開いて、未だに己の服の臭いをかぐ男を跳ね除けた。
「そんなわけがないだろっ!!」
フェイは怒鳴っていた。都にまでも響くような声だった。男は唖然たる面持ちで、フェイを見つめた。彼の男の瞳の、奥の奥を見つめるようだった。
フェイの息の荒いのが、男の耳にまで伝わっていた。滝のような汗が流れた。フェイは下唇をかみ締めながら、一つ唾を飲み込んで、フェイは口を開いた。
「明日、明日の準備があるから。」
フェイは背を向け、走って行った。男はただ見送った。フェイがそうさせたかのように、男はフェイを追わなかった。
ただし視界の中から消えるまでのほんの少しの間だけ、男はフェイを見送るのだった。フェイが視界の端に消えていくと、男は背にある都の一部を見た。ジッと見た。それはあたかも睨んでいるかのようであった。
汗がダラダラと流れていたが、男は気に止めることができなかった。
「お前はアイツが必要なのか?」
生暖かい風が吹いた。今日一番の大きな風であったが、やはり心地よいものではなかぅた。短い髪がなびいた。なびいたというには少々激しかった。舞い上がった髪にも男は気に止めず、ただただジッと都を見つめていた。
第一章
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