十字架の罰

  
■序章■   

ため息をつけない状況なのは確かである。しかし、光隆はため息をついた。消えぬ程の小さなため息を心がけたが、静かな室内には瞬く間に広がった。ちらりと視線を上げると目の前の町奉行が眉をひそめた。光隆が『またやってしまった。』と思ったのはこの時である。
 
堺光隆、十五の歳にしてその名を全国にとどろかせた男である。どこに行ってもその名が通るようになって早十年。その仕事ぶりに、彼を『鬼』呼ぶ者は少なくなかった。

「何故、ため息をつかれるのかわかりかねますな。堺殿。」

町奉行の眉間のしわなど、もう見慣れてしまった。どこに行っても同じ反応である。どの依頼人も、光隆の行動にイライラする。その時一番困るのは回りにいる人間だと、本人は気づきもしない。今も例外なく、周りの人間達は息を殺す様に二人の様子を伺っていた。

「いえ、この年にして島流しにあうとは思わなかったので。」

すました声が広がった。チラリと外を見る。どんよりとした、なんとも冴えない空が江戸中を覆っていた。たった一匹で空を飛ぶカラスは今、何を求めて飛んでいるのか。ため息がこぼれた。

「あと、何十年も残された余暇を鬼ヶ島でどう暮らそうかと、この桃太郎は悩んでいるのです。」

数名、堪えきれず笑う者があった。堪えた笑いと、カラスの間抜けな鳴き声が室内を充満させた。奉行の強く握られた拳がわなわなと震える。

「お主、わかっていてそのような笑談を申すか?」

「笑談?笑談にはございませぬ。私が笑談を申すなど、天と地がかえりましょう。それより、笑談を申しているのは佐伯様の方ではございませぬか。鬼退治とは…島流しと素直に言ってくださればよいものを。笑談が過ぎると思われますが?」

いらだつものを感じたのは光隆の方であった。遠回しな言い方を光隆は嫌う。慣れない正座。足の感覚はもうない。いつまでこのような話を続けるのかとイライラしていたのは確かであった。
 


全国を流れる浪士である光隆が江戸に入ったのは、昨日の晩の話。東北にある故郷に帰る途中によった、特別意味のない場所であった。ここで仕事をするつもりもなかったし、誰かと会う予定もなかった。ただ一日、雨風をしのげればよかったのだ。

『私は町奉行、佐伯雪之介。』

その晩すぐに、町奉行の役人が光隆の旅籠を尋ねてきた。静かに酒を飲んでいたところを邪魔された光隆は少々機嫌が悪かった。

『貴殿が堺光隆だと知って頼みがある。』

『残念ですが、お受け兼ねますな。』

光隆はくいっと酒を口に含んだ。依頼を受けるつもりはさらさらない。厄介事など御免だと、光隆は思った。

『そうですか。と、私もここで引き下がるわけにはいかぬのでな。明日、また改めて来る。』

佐伯は光隆が反論する前に旅籠から出て行った。面倒臭いことになってしまったと、光隆はため息をついた。月も笑わぬ夜のことである。

早朝、酒の抜けぬ頭を叩き起こして、光隆は旅籠をあとにした。町奉行に捕まってはならぬ。そう、感じたからだ。「良い予感」というものはあまり当てにならぬが、「悪い予感」というのは当たるものだ。さっさと江戸を出てしまえと、そう感じた。

静かな町を一人歩く。南町奉行所も北町奉行所もなんなく通り過ぎ、奥州道中へと入ろうとしたその時であった。

『堺殿。奉行所へ、来てただけますね?』

同心かその類のものが十数名、光隆を囲んだ。刀を抜いて振り切るのは簡単だ。しかし、追われるのはもっと面倒だ。ため息がこぼれた。

『仕方がない。』

渋々、光隆は同心についていった。奉行所に案内されると三時間待たされた。無理もない。まだ早朝なのだ。三時間襖絵を見て過ごした。あれやこれや考えていたが、次第に面倒になって、ボーッと無駄な時を過ごしていたのだ。

『お待たせしたかな?』

佐伯はすました顔で入ってきた。一応、姿勢を整える。さて、と話を始めた。

『それにしても、耳にしてたよりも人間らしいですな。』

佐伯は一人で笑った。周りの人間達は青い顔をしているように見える。

『天狗のような顔ではなく、申し訳ございません。』

光隆も自分の噂を耳にしてた。天狗のような鼻、とがった耳、真っ赤な目をし、皮膚は獣の毛で覆われている、と。どこからそのような噂が広がったのか、知る由もない。

『それより本題へ入っていただきたいのですが。』

別段、光隆には怒る理由などなかった。さっさと話しを終らせたいのに、このような世間話をされるとは、光隆も今日という日はついていないらしい。

あっさり話しを流された佐伯は気にせず笑い声を上げた。噂が教えた姿を想像していたのであろう。

『そうであった。』

明日にでも、いや今日でもよい。山に入っていただきたい。ここより北の山に、鬼が棲みついておる。鬼は人の血を吸い殺す、恐ろしい鬼だ。江戸の者は皆困りは果てている。その鬼退治をしていただきたのだ。

『とんだご笑談を。』

光隆は声を上げて笑った。しかし、佐伯はいたって真剣であった。



「笑談ではない。」

「笑談としか聞こえませぬが?」

佐伯は静かに腰を上げた。光隆の横を通り、障子に手をあずけた。外はやけに暗かった。

「私も初めは笑談かと思った。」

光隆は何も言わず。じっとその背中を見つめた。小さな、頼りない背中であった。

「江戸の与力はもういない。」

光隆よりも先に、周りが喉を鳴らした。

「我こそがと、立ち上がった武士達があの山に登ってから十日がたった。」

「目には目を歯には歯を…ですか?」

「そなたは天下の人切り。切れぬものなのない筈だ。」

「人切りであって、鬼切りではございませぬ。」

長い沈黙が続いた。嫌な沈黙である。ため息さえ忘れた身体はゆっくりと立ち上がった。足の痺れが体中に回るのを感じながら、ニヤリと笑い、佐伯を見た。

「私の命の値段はおいくらです?」

信用したわけではない。鬼が切りたいわけでもない。町奉行に恩があるわけでもない。ただ、早くこの場を去りたかったのだ。

しかし、これが全ての始まりだった。

江戸の末期。世直しの世での小さな事件である。


序章 完   
  
  
第一章

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