夕食を用意したのは長谷川だった。 正確には夕食の膳を長谷川が従業員として運んできただけだが。 どうやら女将たちの指導は上々なようで、長谷川が禁断症状で暴れるような事態は無いらしい。 一日だけでもかなりの効果があるかも知れねーな、お前が良くなるなら俺は何だっていい。 緊張気味の長谷川に、俺は声を掛けた。 「中々板についてんじゃねーか、この分なら大丈夫そうだな」 「……、…なあ兄ちゃん」 「何だ?」 長谷川は難しい顔をしたまま、何も話そうとしない。 俺は首を傾げるが、内心では長谷川が何を言いたいのか大体分かっていた。 ……自分の意思じゃなかったとはいえ、実は麻薬中毒でしたなんて普通言えねーよな。 だから俺は待つ、長谷川が自分の口から告げるまで。 「長谷川、言いたい事あるんならぶちまけちまえ」 「……けどよ」 「付き合い長いんだ、今更お前に何言われようが多少の事じゃ驚かねーよ」 これは俺の本心だ、お前の滅茶苦茶な行動に俺は何度も振り回されてる。 夜逃げを手伝ってやった、機械家政婦から守ってやった、裁判の手助けもしてやった。 既にある程度の耐性が出来てる俺は、多少の事じゃ驚きたくても驚けねーよ。 少なくとも、麻薬にやられたって程度じゃ俺は腐れ縁を切る気にはならない。 だから話せ長谷川、お前が馬鹿なのは今更だろ。 「なら兄ちゃん、ホント怒らないで聞いてくれよ……?」 「分かってるっての。お前に一々腹立ててたら今頃憤死してるしな」 「……薄いピンクの着物で、優しそうで、いっつも穏やかに笑ってる女性に心当たりはあるか?」 「………………、…は?」 長谷川の言葉は麻薬とは全く関係ない俺への質問だった。 俺は絶句して、ただ長谷川の顔を見続ける。 その質問に当てはまるのは、俺が知ってる中で一人だけだ。 俺の人生の全てで、俺が世界を憎む理由で、俺が鬼兵隊に身を置く理由。 あまりにも予想外過ぎて、思考が完全に停止していた。 待てよ…、だって……え? 何でお前が、…俺はお前にアイツの話した事なんて一度も…。 「兄ちゃんの後ろによ、ずっといるんだよ」 「………………」 「自分の声は届かないから代わりに伝えてくれって、だから」 「長谷川」 俺は途中で遮った、声こそ落ち着いてるが目は多分…鋭かったはず。 俺は今までこんな声を、こんな目をコイツに向けた事は無い。 だが人間には踏み込まれたくない領域ってのが存在する、長谷川は今…そこに来た。 俺の一番大切な思い出は治癒不可能な程の傷を負って、今も強く痛んでる。 もう二度と、永遠に治る事の無い傷として俺が死ぬまで痛み続けるだろう。 時が経つほどに強く、少しずつ領域を広げていって。 「お前がどこで聞いたのかは知らねぇが、それ以上はやめろ」 「兄ちゃん…!」 「アイツは死んだ。死んだ奴は二度と蘇らねぇし意思も持たねぇんだよ」 「た、例えそうだとしてもよ!それでもその人の意思ってのは生きてんだろ!?」 「故人の遺志ってのは遺言か周りの人間の想像ってだけだ、死んだ人間の思考は停止する」 「そうじゃなくて、こう…死んでもその人が護ってくれるとかあるじゃん!」 「言っとくが、俺は幽霊なんて下らねぇモン信じるつもりはねぇぞ」 長谷川が何を言いたいのか、俺には理解出来ない。 理解出来ないが感情がささくれ立つ、妙に苛立ちが募って口調もきつくなってしまう。 人は死んだらそこで終わりだ、俺は幽霊だけは絶対信じない。 何故なら幽霊を認めちまったら、つまりが今の俺を…。 「何でそんなに意地張るんだよの兄ちゃん!!」 「いい加減にしろ長谷川!オカルト布教してぇんなら他でやりやがれ!!」 「そんなんだから、さんがいつまでも成仏出来ねぇんだろ!?」 「アイツの名前を気易く呼ぶんじゃねぇ!!」 普段の口喧嘩と違い、俺は本気で激高した。 ―――頭が、痛い。 「兄ちゃん危険な事してんだろ!?もうやめろって泣いて訴えてたんだぞ!!」 「知ったような口聞くな!お前が俺やの何を知ってんだよ!!」 確かに今の俺を知ったとしたら、アイツは確実に止めるだろう。 だがこれだって俺の想像論だ、実際に聞いたワケじゃねぇ。 ほぼ確実だとしても、もう声が聞けないんだから確かめようが無い。 これが死ぬって事だ。死ねば二度と俺に笑いかけてくれる事も、俺に話しかけてくれる事も無い。 俺を戒める事も、俺と共に生きてくれる事も。 ――頭が、痛い。 「男だったら好きな女、安心させるような生き方するモンだろ!!」 「お前が言うな路上生活者が!!」 「ちょっ、痛い!俺のハートにダイレクトアタックだって今のォォォ!!」 「そのままライフゼロになって人生のデュエル終了しちまえ!!」 アイツは死んだ、死んだ人間は意思を持たねぇし二度と会う事も無くなる。 俺は断じて幽霊だけは認めない、認めるワケにはいかない。 認めたら、アイツが死んでからの俺の全てが無意味になる。 元々無意味だってのは、最初っから分かってんだけどよ。 それでも、認めるワケにはいかねぇんだ。 ――頭が、痛い。 「の兄ちゃんさんの事好きなんだろ!?だったら何で拒否すんだよ!!」 「拒否?俺がアイツを拒否してるってのか!?それ以上言ったら本気で殺すぞ長谷川!!」 「してるんだよ!そのせいでさんは、この場所でも兄ちゃんの前に姿を現せられねぇんだ!!」 「オカルトは沢山だって言ってんだろ!!」 「兄ちゃんが今の自分を見られたくないって強く思ってっから弾かれちまうんだよ! 姿どころか夢にも出られねぇ!傍にいんのにそんな状態になってんのは悲し過ぎんだろ!!」 「黙りやがれ!!」 ちゃぶ台の上にある膳が音を立てて揺れた、俺がちゃぶ台の縁を叩いたせいで。 零れた酒の飛沫が拳を濡らす。 不意に目の前にいる長谷川の姿がぼやけ、あの日の光景が重なっていった。 飛び散った料理、破壊された部屋、目を押さえてのたうち回る俺。 使い物にならない目の代わりに耳が状況を捉え、家から強引に連れ出されるアイツを知る。 俺は何も出来ずに、失った視界と激痛でただ無様に悶えるだけだった。 好きな女の身すら守れなかった、男どころか人間とも言えない最低な生き物の滑稽な姿。 封じていた記憶がフラッシュバックし、鮮明な光景となって俺を呑み込んだ。 ――頭が、割れる。 「……ッ、ぐ…アァァ……!!」 「に、兄ちゃん!?」 内側から頭蓋骨が砕けそうな激痛に、俺は頭を抱えその場で蹲った。 目の前が白く霞んでいく…、頭も目も心臓辺りも全てに激痛が走り発狂しそうになる。 長谷川が何度も俺の名前を呼んでいた気がするが、全てが遠くおぼろげにしか聞こえなかった。 もう全てがどうでもいい、実際長谷川の言う通り俺は好きな女に安心すら与えられない男だ。 ……あれ、はせがわって誰だ? それよりも痛くて眠くて堪らない、このまま目を閉じればきっと楽になるんだろうな…。 身体の奥が、頭の奥が、軋むような音を立てながら、欠片となって剥がれ落ちる。 何処か幸福な気持ちにさえ思いながら、俺はこの眠気に身を任せた―――
「……、ん…」 「に…兄ちゃん!!」 目を開けて最初に飛び込んできたのは、滂沱の涙を流す長谷川だった。 状況が呑み込めないまま俺はふら付く頭を押さえ、身を起こす。 俺の身体と一緒に掛け布団が捲れ上がり、外を見れば既に朝だった。 ―――俺、いつ寝たんだ? 確か長谷川がこの旅館で一日だけ働く事になって、それで俺の部屋に食事運んできて…。 そこから先の記憶が酷く曖昧で思い出せない。 「良がっだ…!ホンド良がっだ兄じゃァァァァァん!!」 「ちょっ…何してんだ長谷川、気持ち悪いだろうが!!」 泣き笑いで顔をぐしゃぐしゃにしながら頬ずりしてくる長谷川。 一体何なんだよ、てか髭が微妙に痛いんだっての! 鬱陶しい長谷川を引き剥がしていると、女将が朝食を運んできてくれた。 布団を片づけ白米と味噌汁、そして漬物などを並べた後に俺の顔をジッと覗き込む。 俺は居心地が悪くなり目を逸らし、女将は息を吐いて立ち上がった。 「何とかなったみたいだし、とりあえずは良かったのかねぇ…」 「ああ…、良くはねぇけど今は仕方無いんだろうな…」 その意味深な口調に俺は眉根を寄せる、俺…熱でも出したか? 当事者だが完全に蚊帳の外らしいので、俺は何が起こったのか尋ねようと口を開く。 しかしそれを見越したように女将が振り返り、自分の胸を親指で押した。 「大切な奴はここにいる、アンタは一人じゃないんだよ」 「……え?」 「…アタシも昔は、みんなが消えちまったら一人ぼっちになると思ってた」 「………………」 「でもね、みんなここにいたんだ。アンタも自分のここにいる、それに早く気付きな」 部屋から去っていく女将の背中を、俺は無言で見つめていた。 言いたい事は何となく分かった、が何故いきなりこんな事を言い出したのかが理解出来ない。 それに納得も出来ないしな。 俺の大切な奴は死んだ、死んだら二度と笑わないし俺の隣を歩く事も無い。 胸の中にいるのは生きたアイツじゃない、ただの記憶…思い出だ。 思い出は思い出に過ぎない、記憶だけの存在が未来を作り出せんのか? 答えは否、生きてるってのは未来を作り出せる奴だけに当てはまる言葉。 だからアイツは死んだ。 思い出は確かにある、だが俺と同じように先の時間を見る事は絶対に無い。 それが、死ぬってことだろ? 「な、なぁの兄ちゃん…」 「長谷川、もうすぐチェックアウトの時間だろ?」 「え?あ、ああ…そうだけど」 「悪いな寝過ごして、すぐ出発しねーと」 ふらつく頭を振って布団から出て、食事を終えた俺達は身支度を開始した。 そう言えば長谷川、ここの従業員用の半被もう脱いだんだな。 てことは薬は抜けたんだろう、俺が寝てる間に全部済ませたのかもしれねぇ。 良かった、どうやら無事に復帰できそうだな。 仕事無いから社会復帰ってまで行かないところが悲しいけどよ。 「なぁ兄ちゃん…」 「何だ?」 「夢…。寝てる時の夢の内容さ、何か覚えてねーか?」 「夢って昨日の夜のか?」 「そう、昨日の夢だ!」 必死に食い下がってくる長谷川に俺は首を傾げた。 ああそっか、俺が何か知ってるかどうか確認したいんだろう。 俺が寝てる時に薬を取ったんだとすれば、こう聞くのが一番自然だ。 俺が夢の内容を話せば寝てた事の証明に、つまり長谷川の秘密を知らないと結論付けられる。 長谷川が口を噤む以上、何も聞かずに付き合ってやった方がいいよな。 「……普通に寝てたから夢なんて見てねーな」 「え…、やっぱ…そうなのか?」 てか俺が悪夢見ない事の方が珍しいんだけど、それは長谷川には言えない。 あからさまにがっかりする様子に、俺は内心焦った。 これじゃマズイ、こうなったらでっち上げでもいいから何か見た事にしねーと。 俺は必死に考えた、するとぼんやりとしたイメージがおぼろげに浮かび上がってくる。 「そう言や…」 「そう言えば!?」 「何となく白かったな。で…随分温かかった気がする」 「………………」 正直な感想は微妙だった、もうちょい脚色すりゃ良かったかも。 だが俺の後悔を尻目に長谷川は少しだけ嬉しそうだった。 そして俺と俺の肩近くを交互に見やり、何故か俺から視線を外したまま一度頷いた。 再び俺に視線を戻した長谷川は、今度は俺の顔を真剣な顔で覗き込む。 「の兄ちゃん、俺…絶対に兄ちゃんに恩返すからよ」 「え、ああ……」 「絶対いつか、兄ちゃんの事助けっからな!」 強い決意を持った言葉に気押され、俺は何も言えずに頷く。 御守りが少しだけ温かくなったような気がして、俺は巾着袋にそっと触れてみた。 |