なかなか寝付けないのは昔からだった。
12時前に布団に入っても3時4時まで寝付けないのも日常茶飯事で、しかし視認してしまうと余計に眠れなくなるのは目に見えていたから極力時計は気にしないようにしていた。
一度メディカルセンターにも行ってみたことがあるが、リラクゼーション効果のあるCDを聞いてみろだの疲れて動けなくなるまで体を動かしてみろだのと当たり前のアドバイスしか貰えず、それらも試してみたが全く効果はなかった。
特に運動疲れなどは新兵であるクラウドにとって今更言われずとも毎日限界まで感じているものだ。疲れてはいる。今すぐ眠りたいとも思う。しかし手足の筋肉が酷く痛みを訴え火照っている状態では逆効果でしかないし、もともと寝入るのがどうしようもなく下手なのだ。
昼寝であれば、あっというまに眠りに入ることが出来るというのに、何故夜だと上手くいかないのか。眠らなければいけないというプレッシャーがそうさせているのか、横になっても覚醒したまま何時間だって過ぎてしまう。
本来なら6時間は取れているはずの睡眠が、これのせいで半分以下になっている。今は一刻も早く体力を上げて色々なことを学び、ソルジャーにならなければならないのに。何故こんなにも不利な体質なのだろうか。ばからしい。
溜息をついて寝返りを打つと、ひどく不安定なスプリングがギシリと鳴った。予算がギリギリまで削られているのだろう一般兵の寮設備は粗悪な物で、細いパイプ4本で支えられた二段ベッドに眠るどちらかが体勢を変えただけで、振動がそのままもう一人に伝わるほどだ。生まれて初めて24時間絶え間なく他人と生活を共にしなければならなくなった時は4人部屋の騒がしさに閉口したものだったが、しばらくすればイビキも振動も気にならなくなるのだから人間の適応能力はすごい。
夏だというのに、虫の声一つしない。聞こえてくるのは人々が眠る音と低く唸りを上げる非常灯、そして効いているのかいないのか分からない様な空調設備の機械音。
今日も眠れない。きっと明日も眠れない。明後日も、1ヶ月後も、1年後も、10年後も……。そんなことを考えていると、ふとこの大きくてがらんどうの街にたった1人で置いて行かれたような気がした。
肺の辺りがシンと冷える。薄い氷は気管へ声帯へ喉頭へと上り、延髄から脳まで侵食する。
それに飲み込まれてしまわないように、枕を引き下げて腕で締め付けた。
大きい。何もかもが、大きすぎる。地平線まで続く砂漠で迷ったらこんな感じなのかも知れない。砂がみんな他人だけタチが悪い砂漠だ。ただの砂ならば踏み越えていけば進めるけれど、ここでは気を抜いたら踏みつけられるのはこっちだから。
夜の闇に覆い尽くされた真っ白な砂漠で、一人。そして、眠らないのも、置いていかれるのも自分一人。
……夜はろくな事を思いつかない。
音は、しなかった。しなかったはずだ。だが、もしかしたら少し眠っていたのかも知れない。
ぼんやりと天上を眺めていると、ブラインドの隙間から射し込んでいた規則正しいサーチライトの影が不意に不思議な形をとった。
動く影。生き物の気配。いったい誰がこんな真夜中に起きているのだろうかと思い、非現実的な出来事に夢なのではないかと疑う。
いや、そんなはずはない。夢の中に入ってしまえれば、こんなに強い頭痛や焦燥感を感じるはずはないのだから。絶望的に同じ風景の中に居続けなければならないこともないのだから。
ひらひらと合図する手のひら。それを捕らえた時、不覚にも声を上げてしまいそうになった。骨ばった大きな手。少しくたびれたパーカーの袖は、オレンジのライトの元では黒く見えるそれが、本当は深緑色をしていることも分かる。それが自分のものより高い体温であろうことも、かすかに清涼なフレグランスの香りがするだろうことも――果てなく広く感じる、この暗く寂しい世界でたった一人、友人だといってくれる人間のものだから。
ザックスとクラウドはソルジャーと一般兵という格差を越えて仲の良い友人だ。先輩後輩として仲の良い者は多いけれど、ここまで階級の差を感じさせず意気の合った二人は数多い神羅兵でも珍しく、――クラウドとしては不服なのだが、でこぼこコンビとして結構有名な存在でもある。
他のヤツら起こすなよ、と大きくて温かな手で口を覆われて現実だとようやく認識する。
記憶よりも鮮明な体温と香り。眠れない夜の幻でも、寂しい記憶が見せた影でもなくて、本当の。
音もなく現れた人物は、思ったとおりザックスだった。二段ベッドのはしごを数段登った状態で、狭いんだからもっと向こうよれよとジェスチャーされる。細いはしごは体格の良い人間の重みに軋んだ音をたてる。
見慣れた風景、しかしそれは昼間の話。闇の中では逆に非日常的で、やはり夢の中なのではと疑ってしまう。オレンジとブラックで描かれた暗闇の中、驚きで零れそうになるクラウドの言葉を指先で止めて、数十センチの距離で笑う輪郭が光に照らされて柔らかな線を描く。淡く光を含んだようなパライバ色の瞳が笑っている。
突然のことに、鼓動が変に早まったのが収まらない。こんなこと、なんでもないはずだ。こんなことでいちいち動揺していては、奇抜で人を驚かせるのが大好きなこの友人を喜ばせるだけ。そう自分に言い聞かせ、クラウドは得意のポーカーフェイスで平静を装った。
普通のことのようにザックスが横に来たから、一人だけ慌てているのが悔しかったということもある。
だけど、それだけではないような……。考えようとしたが、頭はうまく回ってくれなかった。仕方ないので後回しにして、マットを極力揺らさないように後ろに移動する。
二人分の体重を受け止めたマットは不安定に揺れたが、クラウドの予想に反して静かに沈んだだけだった。
「なんでここにいるんだよ」
ほとんど音にならない程度の音量で尋ねる。湿った吐息が当たってしまうのではないかと気になるが、仰向けで窮屈そうに伸びをするザックスが未だ現実と信じ切れない。
こんな風に狭いベッドに文句を言いながら二人して寝転がるのは珍しいことではない。トランプをするときでも、教官や同期のちょっとした噂話をするときでも、夕食までの少しの時間に昼寝をするときでも。
元々狭い寮のなかでは当たり前の風景だ。でもこんな夜中の所為か、それが気になって仕方ない。
「今遠征から帰ってきたとこ。眠れないって言ってたから、もしかしたら起きてるかなーって。半信半疑だったけど」
目にかかっていた前髪を軽く掻き上げられる。さっきと違ってザックスの表情は見えない。暗い影から伸びる手に、ふと不安になる。
「ホントに起きてたな」
全く仕方ない子供、と言外に言われているような気がしてムッとした。
「疑ってたのか」
「や、勘違いならその方がいいじゃん?」
「わざわざ確かめに来るなんて暇人だな」
「――気になって仕方なかったんだよ」
嫌味な口調になってしまうのは悪い癖だ。だけど、気を許したら――気を許したら、駄目だという気がするのだ。
だって、だって――説明のつかない感情に、クラウドは戸惑っていた。
もしも、もしも気を許して……相手に、自分が無防備だと知れてしまったら。完全に心を許しているとばれてしまったら。そして、万が一裏切られてしまったりしたら――絶対に、立ち直れなくなる。一人で立っていられなくなる危険を冒してはならない。隙を見せたら駄目だ。
それは結局、自己防衛のために相手の好意を踏みにじっているのではないかとも思う。誠実に対応してもらったら、こちらも誠実に対応すべきだ。それは分かっている――それでも。
怖い。どうしようもなく怖いから、手の内は見せない。気も許さない。そうしないと、もう二度と独りでは立っていられなくなる。
「……久しぶりだから会いたくなって」
「昼間に来いよ」
「昼間じゃ夜這いになんないじゃん」
「夜這いなら女の子の所行けばいいだろ。俺の所来るな」
「ええー、クラウドの所が良いんだけどなー」
「女顔だって言いたいんだろ、最悪」
いつも通りの軽口が、僅かにぎこちない気がするのは耳元で最低限の音量に搾られた低い声の所為だろうか。何だか余計に眠れなくなった気がして眉をひそめた。
「眠い?」
「……どうだろ。疲れてるけど眠い気はしない」
「腕かしてみ……熱持ってんな」
暖かな指が二の腕の凝っているあたりをぐっと押す。いたたたと情けなく声を上げてしまいそうになるのを直前で飲み込んだ。
他人の体温。感触。びりびりと電流が流れるような痛みをこらえつつ、にらみあげる。
「痛い」
「ちゃんとアイシングしたか?ストレッチもしっかりしろよ」
「分かってるって」
軽く溜息をついた気配の後、軽くマッサージされる。照れくさい手前、しかめっ面をしてしまうけれど、ザックスにされることは嫌ではない。
ふと、父親というのはこんな感じなのかもしれないと思う。暖かくて、大きくてーー優しい。見たことがない父親の姿を、たった2つ上の友人の中に見てしまうのは失礼なことだろうか。
「くすぐったいからやめろよ」
「少ししといた方が良いんだって」
「いやだ」
「我慢しろ」
「くすぐったいの駄目なんだよ」
「ほら力抜けって」
「やめろ変質者。蹴り落とすぞ」
「誰が変質者だ。お前みたいなお子様には何にもしませんー」
一瞬言葉に詰まったのに、気が付かれただろうか。余計に頭痛がひどくなったのは気のせいか。呼吸まで苦しくなってくる。それもこれも、この能天気で突拍子もなくて、なんだかよく分からない、鈍らせていたはずの感情を揺り動かすようなザックスのせいだ。
「そこそこの年いってる女の子なら誰でも良いんだろ。俺、軽いヤツ嫌い」
「えー?俺、好きになったら一途なんだけどなぁ」
この前会ったという、教会の娘のことか。そう考えると、正直なところムカムカした。
本当なら、この人間を独占したいのだ。他の誰とも友達ならないで欲しい。付き合わないで欲しい。自分だけのトモダチにしたい。だけど、そこまでは言わない。嫌われたくないから。この距離を、せっかくこんなに近い距離を、諦めたくはないから。
「それに」
「ん?」
「俺はもう子供じゃない」
「……へえ?」
「先週の身体測定、8センチも背、伸びてたんだ」
「……」
こっそり胸をはり、もったいぶって教えたのに、ザックスは「はあっ」とあきれたようにため息をついた。
「この分なら1年後にはアンタより高くなるな、絶対」
「……あーそーかよ。へーんだ。お子様。ちびっ子。ばーかばーか。分からず屋」
髪をぐしゃぐしゃっとかき回されて、ついでに耳まで引っ張るまねをされたクラウドはお返しにザックスの前髪を引っ張る。
「何がだよ。そっちの方が子供っぽいだろ」
「もう知らねぇ。おやすみ」
わさりと向こうに寝返りを打つ姿は、かまってもらえない大型犬のようだ。
「……なんだよ」
大型犬は無視して寝たふりを続ける。
「そんなに怒ること無いだろ」
しかたないのでこっちも寝たふりをしてみると、しばらくして
「……クラウド?」
と機嫌を伺うような声がした。
「もう寝ちゃった?」
「……」
「冗談だよ。別に怒った訳じゃねえよ。ごめんな」
「許さない」
「ゴメンって」
軽くパンチを何発か打ち込んで、予想外にマットレスが揺れたことに慌てて動きを止めた。目と目が合って、いたずらを見つかった子供たちみたいに苦笑して……。
いつのまにか、意地を張ることさえ忘れていたことに気がつく。いつだってそうだ、硬い硬い外壁を、殻を、柔らかくふやかして溶かしてしまう。無理に入ってこようとする侵入者じゃない、味方なんだって思わせてしまう力。ザックスの、多分持って生まれた天性だ。
幼いころからずっと、欲しかった。
トモダチ。
いつだって指を咥えてみていることしか出来なかった大切なものが、こんなに近くにあるということを、どんなに嬉しく思っているか。友人の多いザックスには分からないかもしれない。それでもいい、自分はこんなに嬉しくて、大切に想っていて。
だからかもしれない。いつもなら言葉にしない、言葉に出来ない心のうちをポロリと喋ってしまったのは。
「……向いてないのかな」
なんて自分は弱いのだろうと、心の底で隠すようにしていた本音を、意外なことに受け入れている自分がいることに、クラウドは気がついた。
本当は、誰かに効いて欲しかった。誰かに頼りたかったんだ。
絶対に頼りたくなんてない、そんな強い自分とは違う、弱い自分。きっと強い自分なんて他人に見せるための張りぼてでしかなくて、強い自分がいるんだって思わせるだけの偽者でしかなくて。本当の自分は弱いほうだと、気がついていた。
弱い自分がいるってことを、きっと誰かに受け入れて欲しかったんだと思う。だけど否定されるのが怖かった。
そんな時、ふとトモダチだけは――ザックスだけは、今までひた隠しにしてきた自分を受け入れてくれるんじゃないかって思った。受け入れて欲しかった。ザックスには、本当の自分を、隠し切れないと思った。
「頑張ってるつもりだけど、上手くいかないんだ。要領を、なかなかつかめなくて……自主訓練は大丈夫だと思う、けど……周りに、合わせるのが苦手なんだ」
言葉になって零れ落ちた自分の欠片。
初めて見せた弱気な姿に、それでもザックスは静かに受け止めていた。からかうでもなく、笑い飛ばすでもなく静かに聞いていた。
「まずは」
ぐしゃっと髪をかき上げられ、側頭部に添えられるように手が止まった。
「聞けよ。どうすればいいと思う?って。そしたら俺は、お前が無理って言うまで山ほどの解決策を見つけてきてやる。解決法なんて星の数ほどあるって。あとは、お前がどれがベストか探すこと――俺と一緒に、な」
なんだか、目の前が開けたなんて使い古された言葉じゃ言い表せない気分がした。世界がふわりと、腕を広げたようだ。色つきのフィルムでも振ってきたのではないかと思うくら いに視界が明るく色を持った。
そうか。そうだったのか。
自分で解決する方法、それしかないと思ってた。誰も自分のことを助けられないと。
でも、そうじゃない。世の中には沢山の道があって人がいて……組み合わせを言えば何千、何万通りもの方法があった。
自分では気がつけなかったけれど、ザックスはすぐに見つけ出してくれた。
人間関係は1+1じゃなくて、1x1だったんだ。
「まずは……そうだな、もうちっとリラックスして訓練が受けられるように、人間関係のベースから直してってみるか。後は予習復習だな。これは俺の時間が空いたときに面倒見てやるよ。お前が最初にやるべきことは、だ。訓練仲間の顔と名前を覚えて、よく挨拶するようにしろ。ちょっとでもすれ違ったら声掛けとけ。そしたらだんだん誰が何に関して上手なのか分かってくるだろ?で、そいつと一緒に自主訓練していろいろ聞いてみる。どうだ、出来そうか」
な?と顔を覗き込んでくるザックスが、こんなに頼もしく見えたことは無かった。
「やってみる」
口元が緩んで、ああと伸びをしたい気分だった。
「……俺も、昔は一人で自由にやんのが好きだったからさ」
明るくそう呟いた声の裏に、少しだけ複雑な色が見えたのは気のせいか。クラウドが目で問いかけたのに、苦笑が帰ってくる。
「お前と俺、全然似てねえのに、そっくり」
不覚にも、視界が滲んだ。
弱い部分も、受け入れてもらえたのだ。初めて。
許されたと思った。自分がここに居ることを、弱い自分が存在していることが許されたのだと。
「ああ、これからは」
ちゃんと、いつも通り威張って聞こえただろうか。
「ザックスにうんと我侭言おうっと」
「え?!なんだよ、それ!」
そこから後は記憶がない。あんなに眠れなかったのが嘘のように、昏々と眠ったようだ。
起床のベルが鳴ったときには、もうザックスはいなかった。あれは明け方の幻だったのではないかとも思ったけれど、布団にはかすかに体温が残っていた。
これは秘密のことだけれど……あいつといると眠れる、そんなジンクスがクラウドの中に出来た。ザックスには絶対に、絶対に秘密だ。
2007.07.17
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