その部屋にはたった一つ、窓があった。
逆に言えば、その部屋には一つきりの窓しかなかった。
窓は足下から天井まで長方形に伸びていて、窓枠はなく嵌め殺しになっているようだ。向こうに広がるのは何処までも続く空や、真っ直ぐに伸びる地平線ではなく、もう一つの同じ部屋。何一つ違わない、窓しかない部屋。
いや、違うものがあった。中にいる人間だ。
それぞれの部屋の中には一人ずつ人間が居て、お互いの存在が全てだった。
厚いガラス―――実際に厚いかどうかは分からないが、彼はそう思っていた―――に手のひらを当てる。すると、窓の向こうの彼も同じように手のひらを当てる。
窓の向こうの彼が嬉しそうに笑い、窓のこちら側の彼もつられて微笑む。
す、と手のひらを動かし、ガラスを撫でてみる。
小さく叩く。
向こうへ、声を掛けてみる。
それでも相手に伝わる物はなく、こちらに伝わってくる物もなく、それらは狭い部屋の中で波紋のような残響を残して消えた。
彼らは窓にもたれて眠り、伝わらないと分かっていても何かしらのメッセージを送ろうとし、時折ただぼんやりと相手の部屋を見つめた。
彼らに分かったことと言えば、相手に干渉するのは無理であること、しかしながら重要なことはお互いがそこにいることだけであることだけだった。
二人の視線が合う。
お互いの不思議な光を宿す瞳の奥を探ろうと、ただただ見つめる。
ある日、ドアが開いた。
彼はその部屋にドアがあることすら知らなかった。
いや、いままでドアはなかった。
しかしながら突如として部屋の出口が現れ、彼は外の世界へと行くことが出来るようになったのだ。
恐る恐る空間の切れ目に近づき、向こうを眺める。
始めて見る景色、広い広い世界。
彼はただ呆然と眺める、想像もしなかった世界を。
そして彼は悟った、あれは窓ではなく鏡であったのだと。
彼が想っていたのは他人ではなく自分が作り上げた己の影であったのだと。
だから、彼は出て行った。
振り返りもせずに一歩踏みだし、彼の髪の最後の一筋までドアをくぐり抜けたとたん、それは永久に閉じてしまった。
外の世界は素晴らしかった。
色彩に溢れ、生命に溢れ。
全てがここにはあるのだと、彼は満足した。
しかしふと、何かを忘れているような気がする。
とても、とても大切なことだったように思うのだけれど。
そしてとうとう、あの小さな部屋のことを思い出した。
何もなかった部屋。
一つの鏡と、永遠の時間だけがあった部屋。
思い出すと、どうにも懐かしい思いがこみ上げる。
また閉じこめられるのは嫌だったが、一目だけでもあの部屋を見たい。
彼は幾日も探し歩いたが、とうとうドアを見つけることは出来なかった。
ではせめて、あの時のようにガラスの向こうの影を見よう。
彼は近くの泉へ行き、自分の姿を覗き込んだ。
そこに映されたのは、全く知らない他人。
あれは、あれは本当に窓だったのだ。
きっと彼はあの厚い冷たいガラスの向こうに、たった一人で居るのだ。
あの何もない部屋に。
しかし全てがあったのだ。
小さな空間だった、しかし完成された世界だったのだ。
彼は叫び、嘆いた。
ドアは、あのドアは何処だ。
彼は、どこにいる。
しかしもう何処にも、不思議な翡翠色に染められた部屋を見つけることは叶わなかった。
2006.11.26
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