ふと見れば、道の向こう側は昼寝に丁度良さそうな緩い土手。ふわふわと産毛に覆われた柔らかそうな葉が空へと手を伸ばし、小さな羽虫たちがふわりふわりと通り過ぎる。すぐ目の前の曲がり角を曲がれば目的地――小さな医院の焦げ茶の屋根が見えるあたり。
確か昼食用の食材だから急いで取ってきてくれと頼まれていたお使いの途中だった気もするけれど……でも、今を逃したらきっとこんなに良い天気の中、昼寝をする機会が何時あるか分からない。きっと明日も明後日も、あの老人は飽きもせずあれやこれやと言いつける用事を思いつくだろうし、数時間遅れたところで餓死することもないだろ――そう判断したクラウドは、いかにも個々で昼寝して下さいといわんばかりの場所に迷わずゴロリと横になって目を瞑る。
瞼を通しても強い太陽の光が目を焼いた。日の当たる場所だけじわりじわりと上がる体温が心地よい。隣に投げ出した籠から、ころりとジャガイモが飛び出し、坂を転げ落ちていった。かさりかさりと草を分ける音が遠くなっていき、消える。
この村に来る前は、よくこうして昼寝をしたものだった。誰にも邪魔されないような人里離れた山の中、気が向けば何日も、時には何ヶ月も自由に眠り、気ままに時を過ごしていた日々が懐かしい。
最初は人間関係が面倒で仕方なかったクラウドも、段々とその生活にも慣れ始めるにつれて、そこまで苦とは感じなくなってきた。医者に手当ての方法を習ってザックスの面倒を見ることと平行し、時々村人達の畑仕事の手伝いに駆り出されるのもそれほど面倒でもなく、むしろ新鮮で面白いと感じることもあった。
元々、クラウドは人間全てに無関心なわけではない。煩わしいこと、面倒なことは嫌だが、面白そうなことならば自分から進んで手伝ったりもする。要は気まぐれ、自分の好きなことだけやっていたいのだ。
種をまき水を引き、馬と遊び、ふと姿が見えなくなったかと思うと木陰で昼寝をしている。のんびりと、しばしば脱線することもあるクラウドは大して役に立っていないかもしれない、それでも少しは村に馴染んできた彼に喜ぶ者はいても文句を言う者はいなかった。
まるで決められた道を行進し続けるかのような、人間達の暮らし。時の流れと無関係に生きてきた彼にとっては、村人達の生き方や植物や人々の変化そのものにも興味を引かれた。ゆっくりと流れている時間、段々と育っていく畑の作物、少しずつ年老いていく老人達。毎日ほぼ決まった時間に三度の食物と約八時間の睡眠を取り、同じ場所に何年も住み、物資を蓄える。常に体の至る所で細胞が生まれ、老化と共に剥がれ落ち、百年持たない肉体は活動をやめ、その代わりに新しい個体を生み出し、育て上げる事に人生の大半を費やす。
まるで、蟻の行列。なんと人間は無駄な事をしているのだろうとクラウドは思う。あらゆる物に縛られ、同じ道を延々たどり続けるのだ。
だからこそ、見ていて面白いと感じるのかも知れない。
しかしそれはあくまで見ている側からであって、一緒に歩みたいと思う流れではなかった。こんな事をするのも飽きるまで。それは明日かも知れないし、十年後、二十年後、もしかしたらあの男が死ぬまでかも知れない。いつか来る未来。いつか来る、その日。
――それにしてもなんて気持ちが良い日だろう。
ちりちりと皮膚を焼く日の光に、猫のようにあくびをする。
ぼんやりと考え事をしながら睡魔に襲われていき、無防備になったクラウドの心の奥に、不意にいくつかの記憶がよぎった。
砂浜を渡る、肌寒い潮風。
薄明るい寂れた部屋の、埃っぽい匂い。
ぼんやりと焦点を結ばない光と、セピア色に滲んだ影。
ごつごつしたアスファルトに描かれた、二人の人間のシルエット。
それは彼の記憶ではなく、今まで吸ったライフストリームの名残。少しずつ少しずつ溶かされ、体になじみ、消化されていく誰かの記憶、思い出だったもの。
クラウドは夢を見ない。ライフストリームを生み出す人間と違い、ライフストリームの生態系で言えば捕食者であるクラウドは自分では作り出せないかわりに、こうやって人の記憶を見る。まるで夢を渡る様に。
いくつもの記憶が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。雑多なそれらの中に、ふと既視感を覚えた様な気がしてクラウドは集中し、一つ一つに目をこらした。
見たことのない風景。しかし、同時に聞こえてくる音の中にザックスの声があった。
本人の記憶なので、その姿が映っているわけではないが、聞き慣れた声にクラウドは確信を持った。丁度彼の記憶の番だったらしい。
――灰色を帯びた鉄の街、暗い空に伸びる頼りなげなサーチライト、鉄筋に切り取られた小さな三角形の曇り空。細く伸びる鉄塔と大木の年輪を思わせる錆付いた電線、不法投棄された廃棄物の間を蟻の行列のように行きかう人々の列からは蜂の羽音にも似た雑音やら話し声が響く。表情に乏しい人の波。幾人もの人々が入れ替わり立ち代り声を掛けていき、つかの間の時を燃やすように遊びまわっている。ザックスが、幾人も飲み知らぬ人々と過ごす日常風景。人々に向けられるザックスの声、彼の中を行き来する感情――
人は、それぞれ『固有の時』を生きる。蓄積される記憶、それによって形成される人格。
その記憶、すなわちライフストリームによって生きているクラウドなのだから、それに不満を持っても仕方ないと言うことは分かっている。
しかし、置いて行かれたような、心の奥が波立つような気がするのは、カサカサと皮膚の表面を爪で引っかかれるような心地がするのは、また他の記憶が見せた錯覚だろうか。
時に記憶と記憶はぶつかり、思いもよらぬ細波を起こす。波紋が静かに広がり、記憶どうしの境界線を消し、滲ませ、そして静かに消えていく。
全ての物は、クラウドを置いて去っていく。ライフストリームに記憶されていた思い出も人格の欠片もクラウドを動かすエネルギーとして消化され、何も残らない。残されるのはただ、空っぽのクラウドという殻――。
「こら!そんな所で何さぼっとる!」
急にかけられた声に驚き、クラウドは飛び上がった。
が、続けて上がった笑い声にうんざりと眉をしかめる。
「先生、脅かさないでください」
土手にたたずみ、お使いの途中で昼寝をしようとしていたクラウドを面白い生き物でも観察するように眺めているのは、ちょっとした用事に出るかのようなサンダル履きでたたずむ医師だった。白衣も脱がず上着も着ていないと言うことは、恐らくなかなか帰ってこないクラウドを探しに来たのだろう。
もう少し見つからないような場所にすれば良かったと溜息をついても後の祭り。初老で薄くなった頭を撫でながらどこか満足げに笑っている彼は、年寄り特有の掛け声を掛けながら隣に腰を下ろした。
目尻に寄ったしわがいつもにまして深く柔らかな線を描いている。やはり先ほどの言葉は本心ではなく、からかうつもりで掛けた証拠か。年の割に面白いことが好きで、よく患者達と冗談を言い合ってはいるが、そういうことに慣れていないクラウドにとっては天敵のような人でもある。
「俺が驚いたのがそんなに面白かったですか?」
未だ面白そうに肩を揺らす彼に拗ねたようにクラウドが言うと、いやいや、そうじゃないよと医者は言い繕うように付けたした。
「最近、ずいぶんと元気になったようだからなあ」
理由になっていない、誤魔化すつもりか。クラウドは医師にしかめっ面をしてみせる。
「おかげさまで」
「いいや、ザックスの事じゃなく、君のことだよ。クラウド」
クラウドは目を丸くし、疲れて見えるならともかく逆に見えるなんて、ヤブ医者なんじゃないのかと悪態を付いた。
「そうそう、君たちにお願いがあるんだが」
「ろくな事じゃ無さそうですね」
「まあ、そう言うな」
「先生がそう言う顔してるときって、めんどくさいこと頼もうとしてるに決まってますから」
「ううん……もう少し人を信用するもんだよ」
クラウドは肩をすくめる。
「その前に、君はどこから来たのか、まだ訊いていなかったね。家出にしたって、ご家族が心配しているんじゃないのかい?」
「先生に関係ない」
うるさい、と顔をしかめて見せるが、医師は真面目な顔で返した。
「いいや、大ありだね。こっちはボランティアで身元不明の未成年の面倒を見てやる訳にはいかないんだよ。大人には色々責任という物がある」
「……家族は、元々いない。家も決まってないから、適当に野宿してたんだ。だから心配する人もいないし、身元を保証してくれる人もいない」
「戦災孤児かね」
ザックスのことも然り、近頃は色々な所で戦争が起こっているのでそれに付随した二次的被害を被る者も多く、特に大きな街では行き場のない戦災孤児達が溢れかえっている。身なりと言い境遇と言い、その子達と同じだと言ってしまった方が都合が良いだろうと判断し、クラウドは曖昧に頷いた。
「似たようなものかな」
「そうか……分かった、君を信用することにしよう。しかしな、そうすると困ったことになったぞ」
「なんでですか」
「その頼み事というのがな実は、君たちに出て行って貰いたいたくてね」
明らかに動揺したように、クラウドの肩が揺れた。
ここより他に、行く所はない。しかも大分治ってきたとはいえ、未だギブスも取れていないザックスを連れてどこへ行けと言うのか。
途方に暮れたように眉を下げてしまったクラウドをみて、また引っかかった、と医師は朗らかに笑った。
「大丈夫、何も村から追い出そうって訳じゃない。うちの病院は狭いからな、他の病人が入れなくて困っとる。そこでな、とりあえず誰か他の家に移って貰おうかと思ってな。誰か君たちの面倒を見てくれる人を探したんだが、二人揃って世話できるほど余裕のある者もいない。君が家に帰るというならザックスだけ誰かの家に世話して貰おうと思っていたんだ。そこで相談なんだが、どうだろう、君一人でザックスの面倒を見られるか?」
「俺一人で?」
「ああ。空き家なら沢山あるからな、すぐにだって部屋は用意できる。医院からは離れるが、出来る限り手は貸すつもりだし、食事などは今まで通り、うちのかみさんが作るから取りに来てくれればいい。しかしな、これは責任のある仕事だ。怠けず、投げ出さず、最後までやり遂げることが出来るか?」
「……」
「まあ、今すぐ結論を出さなくても良い。二、三日考えてみてくれないかな」
考え事をしながら村内の手伝いをしていたら、帰るタイミングを逃して予想外に遅くなってしまった。
夕闇迫る薄暗い道を、クラウドはゆっくりと歩いて帰る。一つ一つ灯る窓の、街灯の明かりを眺めていると、何だかずっと昔からこんな風景の中で暮らしてきたような気さえする。
いけない、本当に感化されてきている。クラウドは頭を振って考えを追い出した。
医師の言葉をまた反芻しては、溜息をついた。どうしよう。
人の目を気にせずエネルギーを貰えるようになるというのは、確かに都合のいい話ではある。現実問題、医院の中では人が行ったり来たりしていて、空腹にもかかわらずエネルギーが摂れないことも珍しくない。医院から離れれば人との関わりも減るだろうし、ザックスが介護を必要とすることは多くないのも知っている。
しかし引っかかるのは最後の『責任』という部分だ。そんな言葉に縛られると考えただけでげんなりしてしまうようでは、やはり断ったほうがいいのだろうか。いままで責任なんてものを負ったことはなかった。意味はわかる。それを負ったものたちの記憶も食べてきたのだから、ある意味、体験してきたともいえるかもしれない。それでも、この身が縛られたことなどなかった。縛られる日が来るなんて思ってもみなかったし、そんなこと嫌に決まっている。――それでも、ザックスのそばにいるためには我慢しなければならないのか。あの不思議に麻薬的な感覚、満腹感や満足感ともいえる感覚を手に入れるためには、負わなければならないのか――。いや、しかし。
橙色の小さな灯りに照らされた医院のドアが、いつもより重く感じられる。既に医師は自宅である二階に引っ込んでしまったのだろう。黄色く心許ない灯りに照らされた廊下はシンと静まりかえっていた。小さな虫が窓の明かりに引き寄せられたのか、パチパチと窓ガラスに当たっている。どうしたってそこには行けないことが分かっているはずなのに、幾度もいびつに歪んだガラスに当たっては跳ね返されている。
ザックスのこと。
自分のこと。
責任。
足元の板を踏みしめるように考え続けながら歩いていたクラウドは、断続的に低い音が響いているのに気が付いた。音――違う、声だ。ザックスの低い呻き声。
幾分足を速めて軋んだ音をたてる病室のドアを開けると、案の定、カーテンの向こうからもう一度、手負いの獣が死の間際の混乱に陥りながらも威厳を取り戻そうとするかのような呻き声が聞こえた。
まただ。
夢は記憶に起因する。脂汗を流しながら、動かない左腕を必死に動かそうとしている。
そして、クラウドはうすうす分かっていた。
ザックスは夜毎に死の夢に脅かされているのだ。繰り返し、繰り返し。
体の不調のせいではない。心の、記憶の傷のせいだ。幾度も繰り返し同じような場面を見てきたクラウドには分かった――おそらく、例の戦場を思い出しているのだろう。昼間は欠片ほどにも見せないけれど、夜の夢は嘘を付かない。
毎晩彼の神経を蝕み、繰り返し繰り替えし彼の精神を蝕んでいく、戦場の記憶。限界を超えた痛みと麻薬物質のせいで霞んだ脳裏。虹彩の拡張によって高く明るく映った空。死に瀕したものの負った、精神の傷だ。二度と癒える事もなく脳裏に刻まれ、休むことなく彼の生を脅かしている。
人間の記憶は消えることはない。思い出せないだけで、覚えているのだ。古い古い書庫に無造作に積まれた本のように、捨てられることもなく存在を忘れられるだけの記憶など。
そして普通の人間の何倍にも相当する苦悩、恐怖。
――それが、原因かもしれない。不可思議なほど濃厚でクラウドを引き付ける味。人間の、記憶の舌触り。
ふと妙な苛立ちに襲われてクラウドは立ち止まった。
いや、クラウドに感情などない。どこかで飲み込んだ誰かの記憶のかけらが人間の感情のように反応しただけだ。しかし。
目の前の男は小さな電球の明かりの下で生成り色のシーツを引き裂かんばかりにつかみ、弓なりになった背がびくりびくりと獣のように波打つ。腕には腱や血管が浮き出し、生き物のように皮膚の下でうごめいていた。
彼はクラウドを認識してはいない。そのことが妙に苛立たせた。そうか、これは独占欲だろうか。自分の『物』だと思っていた食料庫、ザックスが自我を持ち、クラウドの知りえない過去にとらわれていることへの。ザックスの保有する記憶への。
それならば話は簡単だ。
クラウドはザックスの腕にそっと触れた。汗ばんだ肌が吸い付くように指先に触れる。
そしてそのまま、記憶を奪うために彼の精神の中に集中する。指先から染み渡るような記憶が流れ込んでくる。まるで温水の中に一筋だけ流れ込んでくる冷たい水の流れのように、目で見えなくともはっきりとした存在がある。
一筋、また一筋と掻き分けて目当ての記憶を探す。
普段ならばけしてしないこと、アイデンティティや真新しい記憶は奪わないと言う不文律に背いた行為ではあった。しかしそれすらも関係はない。クラウドは自由だ。何者にも縛られることなく生きていく、それが自分であったとしても。
おそらくこんなにも強い記憶を奪えば、彼の記憶の味は変わってしまうだろう。あんなに引かれる秘密も、繰り返される恐怖に由来しているのならば無くなってしまうかもしれない。この先、命のともし火が消えぬ限り手に入るはずだった美酒はもうお終いだ。コアとなるはずの一番重要な記憶が引き抜かれてしまうのだから。
そうなってしまうと分かっていても、クラウドは嫌だった。こんなにも毎晩ザックスを引き裂くようなまねをする強い記憶が許せなかった。
少しでも情のわいた相手の苦しむ顔を見たくなかった、そういえば簡単かもしれない。しかしクラウドの感情はそれよりももっと原始的で自己中心的な……獲物を取られかけた肉食獣のような、それだった。ただ、渡したくないのだ。誰にも。ザックス本人にさえも。
まるで引きちぎるかのようにして記憶を飲み込んだ。
びりびりとした刺激が喉を焼く。強すぎる。記憶が、奪うにはまだ強すぎる――それでも、のめりこませた爪を引き剥がすようなまねはしなかった。
*
*
*
最後の瞬間 瞳に映ったのは
自由な空の色
明日を思わせる太陽の光
宗教画から抜け出てきた様な
穏やかで癒されるような笑み
心の中にスルリと入り込んだそれは
とても暖かく 暖かく
*
*
*
ザックスは、あの時笑っていた。
かすれる意識の底で、確かに。
罪深く哀れな己の姿を。
抜けるような青空の下、
何もない荒野で尽きる己が命を。
今までの報いを受ける愚かな自分を。
そして、ようやく穏やかな眠りにつけることを静かに喜んで、受け入れて――。
飲み込んで、クラウドは理解した。ザックス自身が知りえなかったような心の底の言葉でさえ。
――ザックスは、死を、望んでいた。
そんなこと、忘れてしまえばいい。自分で忘れられないというのなら忘れさせればいい。人の生にとって良い事ばかりが起こるわけではない。辛いことも悲しいことも乗り越えていかねばならないなどと、誰が決めた? 苦しみ続けなければいけないなどと、誰が。
出来ることを我慢する必要などない。そうすべきだと思えば従えばいい。
静かな眠りを彼に与えるのが罪などと、誰にも言わせはしない。
ザックスの寝息は静かになった。一定の間隔を置いて上下する胸に手を置き、鼓動も呼吸も異常ないことを確かめる。
「あんたは俺のものだ、ザックス」
ぐい、と目じりに浮かんだ涙をぬぐってクラウドはつぶやいた。強すぎる記憶に負けた膝に力が入らない。がくがくと震えるそれをなだめながら、隣のベッドに倒れこんだ。
苦しさは消えたはずなのに、涙が止まらない。
目が熱い。燃えてしまいそうだ。
次々とあふれた水滴は、こめかみを濡らして枕に吸い込まれていった。
2008.1.3.
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