真っ黒な世界。虚ろに浮かぶ無数の扉は同数の数多の人の夢。
その中心に立つ少女よりも一回り小さい少女の――人形、翠星石はまたか、と重い息を吐いた。
 夢と夢の狭間。深い眠りの底である此処には様々な夢が存在している。それこそ身内も、全く知らない他人の夢さえも行き来出来るのは庭師足る翠星石の力故。
上下左右の感覚も無いそこに数歩。ぼうっと、火の玉のように扉が一つ、行方を防ぐように目の前に浮かんだ。
「っ……」
 花咲くこと無い茨に、がんじがらめされているその様。痛々しいそれは封じたい物なのか、あるいは縛られたい物なのか。
 何回とも夢の扉を見てきた翠星石であったが、この扉だけは何か違うと感じた。
しかしその扉の姿には見覚えがある。見間違えようもないその扉は自分と『あの子』の記憶。
 触れてもいないのに扉はゆっくりと音を立てずに開きだす。

『―――僕は、叶えたい……!』
『蒼星石!』
 
 まるで今そこで行われているかのような鮮明な映像。
扉の向こうに移るのは自分とその妹。忘れられる筈もないあの場面。
 
『君の…泣き顔は…………』
『やぁ…ですッ蒼…せっ……?』
 
―――もし、あの時
 
 逃げ出さなかったのなら。
 力ずくでも引き止めたのなら。
 躊躇せずに受け入れたのなら。

―――きっと、そんな事にはならなかった。


『あはははははははは!』
 黒い翼。黒と白のドレスを纏った銀髪の少女。
幻想的なその出で立ちながらも、蒼星石―――妹の命を刈り取る様は天使というよりも死神に近い。

『貰っちゃった。貰っちゃったぁ……。
 蒼星石のローザミスティカ、貰っちゃったぁ』
『返してぇッ。水銀燈ッ……!』
 極上の笑みを浮かべ、魅入られたように命、魂ともいえるローザミスティカを水銀燈は優しく包み込む。
 そして、ただ奪われた事実というものに駄々っ子のように泣き叫ぶ自分。
  
「―――やめて」
 手を差し伸べても、届かない。
 これは過去。それは過ぎ去った事。
 誰かに言ったような言葉が脳裏に浮かんだ。

『うふふふ……』

「やめてぇッ……!」
 伸ばした手には届かず。黒い羽を携えた彼女に飲み込まれるのは、妹の魂。―――そこで、止まる。
 ギチリ、と時計の歯が噛んだような音を経て映像は停止。
ギリギリと、歯車が逆回転したかのような音と一緒に映像自体も巻き戻っていく。

『また…泣いているの……?』
『蒼星石…。し、しっかりするですよ!』

 そのエンドレス。罪だと、罰だとも訴えんばかりに映像は永久にそれを繰り返す。
 何回も、何回も。
「ぁ……」
 そして手を伸ばす。映像に捕らわれたかのように、自分もまた永久にそれを繰り返す。
 何回も、何回も。

『ククッ。夢は現……現は夢』

―――そんな声が、聞こえたような気がした。


「ん……」
 まどろみ。夢から覚め、いつも通り視界に迎え入れるのは同じみの薄明るい部屋。
差してくる光を鬱陶しいように手で阻み、傍にあるケースから眼鏡を取り出す。
 まだはっきりとしない頭のままジュンはベッドから、机の上に置かれている時計で時間を見た。
 いつも通り。姉がとっくに出かけれている時間を針は指している。
 そのままジュンは空ろな頭のまま、習慣的な身体の動きに従い、ベッドから出て朝の支度をする。
「ん……なんだ?」
 と、丁度服が着替え終わった時に、頭が働いてきたのかある異変にジュンは気付いた。
「珍しいな、まだ寝てるのか?」
 目の前には大きな重厚の鞄が三つ。部屋の真ん中に鎮座し、我が物顔のように居座る鞄は二つは開き、一つは堅く閉じられている。
鞄だけなら何の変哲も無い事だが、ジュンの記憶ではこのような光景は一度とも無かったため首を傾げる。
「おーい」
 コン、と閉まっている鞄を叩いてみるも反応は無い。
 数秒そのまま待ってみるも、鞄は石のように沈黙を守ったままである。
「まあ、いいか」
 流石に中まで開ける気にもなれなかったジュンは、眠かったのもありそのまま部屋を後にした。


「……はよう」
 ドアの開閉の音で打ち消されるくらいの小ささで呟き、ジュンはドアを開ける。
 自分の耳にも聞こえるか聞こえないか程の小ささは、事実相手からの挨拶は返ってこなかい。
半ば予想出来たことなので差して気にはしなくジュンは席へと腰を下ろした。
『警部! すべての謎は解けました!』
『おお。さすがくんくん!』
 この家の大部屋でもあるリビングにひびきわたるコミカルな声。
近所めいわくになるほどでもないが、中々の音量でもあるそれはドアごしからでも十分聞こえ、寝ぼけた頭には少々響く。
『ずばり! 犯人は貴方です!』
 探偵物にはお決まりの決め台詞。テレビの中の一同と一緒に、向かいでは「おお」とか「さすがなのー!」とか驚きを含めた賞賛の声が聞こえる。
同時にソファーの後ろ越しから見える微かにだが、落ち着きの無いように揺れ動く金色のツインテールには苦笑しながら、こみ上げてきた欠伸をかみ殺した。
『次回もまた見てね! くんくん!』
 何時の間にエンディングが流れたのか、お決まりな台詞を持って画面は別番組への締めへと入っていた。
そうして別番組の合間のコマーシャルにきりかわる前に、興味が無いといわんばかりに画面は暗転する。
「あら、ジュン。起きていたのね、おはよう」
「おはようなのー!」
「……ああ、おはよ」
 未だにこみ上げてくる欠伸をかみ殺し、ジュンはやってきた人形達に適当に挨拶をした。
そのぶしつけな態度に真紅は咎める風でもなく、持ってきたリモコンを置き席へと腰を下ろす。雛苺もそれに続く。
 律儀なものだ、と思いながらジュンはリモコンを手に取り画面を再び点灯させる。
浮かび上がってきた画像はさして興味もないニュース番組で、適当にボタンを押しながらチャンネルを変えていく。
「ジュン? 紅茶を入れて頂戴」
 すっ、といつの間にか専用のコップをさり気なく出し、読書に励んでいる真紅。
 ……まったくもってこいつは。
 朝目覚めたばかりもあって、多少顔が引きつるジュンであったがそれ以上は何も言わず黙ってカップを受け取る。
テレビは興味の無い番組で止まるが、そもそもこの時間帯にジュンの興味を引かれる番組も無いので、ジュンはリモコンを放り出しティーポットへと手を伸ばした。
 何度も真紅が要求してくるものもあってか、手馴れた手つきで紅茶を注ぎ真紅へと返す。
「まあまあね。……少し温いけれど」
 と、また微妙な表情でのありがたき感想。
 繰り返すが、朝目覚めたばかりもあって、今度こそ人形達にもわかるかのように露骨に顔を引きつるジュンであったが、真紅はどうでもいい風にそれを無視した。


「……ったく」
 こうなってはどんな文句も暖簾に腕押し。長くもないが短くもない付き合いでもあり、真紅がどういう性格かはジュンだって把握している。
 不毛な言い争いもする気もないジュンは、さっさと冷めた朝食に手を付ける。別に負けたわけではない、と内心で言い訳して。
「ジュンー! ヒナもうにゅー、取ってー!」
 ……まったくもってこいつらは。
椅子から乗り出し自分の好物を求める雛苺。
手にフォークと完備しているその幼さは、隣で優雅に紅茶を飲んでいる真紅とは正反対であり、これはこれでとジュンはため息をつく。 
「朝から甘い物はやめとけ」
「むー……」
 風船のように頬を膨らませ、非難するかのような目で雛苺はジュンを見た。
 その目に合わさないようにジュンは視線を外し、すっかり冷め切った朝食を手にする。
一瞬非難するかのような視線から、物欲しそうなものを感じたがそこも無視。
「…………」
 冷え切った朝食。今日は姉ののりは朝食を作る暇が無かった―――じー……。
「…………」
 スタンダードにもスクランブルエッグとベーコ―――じー……。
「…………」
 予め置かれていた食器を取りだ―――じー……。
「………………やるから」
「ありがとうなのー!」
 にぱっと、先程とはうって変わって満面の笑顔になり、嬉しそうに雛苺はジュンが食べるはずだった朝食をつつき始める。
 ジュンはそれを横目で見て、毒気が抜かれたように深いため息をついた。すっかり冷え切った朝食をあんなに嬉しそうに食べられたら愚痴の一つも言えはしない。
 反面、仕方ないかもなともジュンは思った。見れば置かれていた朝食は普段よりも半分ぐらい少ない。
忙しかったのか、作るのを忘れていたのか……。どうでもいいか、とジュンは肩を竦めた。
 仕方なく適当に冷蔵庫から飲み物を漁り、昼食までそれで誤魔化すとしようと席を立ち上がった瞬間、
「翠星石」
 不意につかれた凛とした声に、ジュンは一瞬ヒヤリとしたものを感じた。
声が聞こえた方向を振り向けばいつの間にか本を閉じ、こちらを見据える真紅。真っ直ぐなブルーアイがジュンを捉える。
「……性悪人形? どうかしたのか?」
 その視線を無視するのも気が引けたジュンは静かに席を下ろし、仕方なく手元にあった紅茶をコップに注ぐ。
「あの子はもう起きていた? 私達が目覚めた時はまだ眠っていたのだけれど」
 そこで真紅は紅茶を一飲み。そしてすっとカップをジュンの前に差し出す。中身は空だった。
「……いや、鞄閉まっていたけれど」
 不本意ながらも紅茶を注ぐ。入れ終わったカップを真紅に渡し、「ありがとう」と一言言って真紅はそれを受け取る。
 ついでに雛苺のほうへと見やるがどうやら口とのサイズ差に困難しているらしく、一生懸命に自分のサイズへと切り盛りしていてそれ所ではないらしい。


「まだ寝てるのか、あいつ」
 珍しいこともあるんだと、ジュンはまずい紅茶をすすりながら天井を見上げた。
 人形達の朝は早い。
それは眠る時も同じで、小学生並みの生活サイクルを送り、決まって一番遅く寝て、起きるのはジュンである。
 それが一度たりとも今まで違えたことが無いのだから、余計にジュンは首を傾げる。
ましてやあの元気活発――過ぎる翠星石なら尚更っであった。
「珍しい……ね。ええ、本当に」
「って、お前また心っ」
「不可抗力よ。契約している以上お互い干渉出来ない事……。貴方も私もね」
「わかってるけどさ……」
 渋々と真紅の言葉を聞き、ジュンは左手の薬指に嵌められている指輪を見た。
 契約の証である薔薇の指輪。媒介と人形とを繋ぐこれは一種の中継点とも言え、媒介は人形に力を供給し、人形はその力を使いアリスゲームに参加する。
その所為なのか時々考えている事さえも真紅に伝わるため、ジュンも心中穏やかではない。
(そういえば、あいつとも契約してるんだっけ)
 真紅ともう一体、契約を交わしている人形。いま話題に出ている翠星石を思い浮かべジュンは深い嘆息を漏らした。
 もし真紅の言葉を鵜呑みにするのであれば、同様に契約しているあの人形にも伝わるということ。 
口を取ったら後は何も残らないようなあの人形に、もし自分の心が読まれてでもしたら……。
 ぶるり、と身体に一瞬怖気が走るが、ジュンは考えないようにしてそれを払った。
「……気になるの?」
 突然の真紅の問いに、ジュンの心臓が一瞬だが大きく動いた。
見透かされたような言葉にジュンは真紅のほうを見て、透き通ったブルーアイとかち合い、慌てて逸らす。
「……別に。どうせ変な物でも食ったんだろ、あいつ」
「食ってないです。勝手に決めるなです、チビ人間」
「うわぁっ!」
 ガタン、と今度こそジュンは情けない格好で椅子から転がり落ち、腰をさする。
見上げれば、冷たい目線でこちらを見下ろすオッドアイ。ふん、と明らかに機嫌が悪そうな翠星石が立っていた。


「よ、よう……」
 引きつった笑みで返し、一つや二つの毒舌を覚悟するジュンだったが、翠星石はそれを無視しジュンの隣の席へと腰を下ろす。
「おはよう、翠星石」
「おはようなのー!」
「おはようです、真紅、雛苺。あとチビ人間も」
「ついでかよ、僕は」
 そう不満をこぼし、ジュンは定位置へと椅子を戻す。
 すっ、と宝石のような瞳がこちらを捉えた。
来るか、と反撃に身構えてみるも、翠星石は一瞥した視線をすぐに自分から外す。
(……? 変だな)
 そう思いながらジュンは席へと腰を下ろした。
気付かれないように隣に視線を移すも、あいかわらず以前のような活発な様子は見られない。
「……翠星石の、朝食はどこですか?」
 と、耳を澄ましてやっとぐらいの小ささで翠星石は呟いた。 
 その言葉に気付きジュンは机のまわりをみわたす。
ティーポット、カップ、あとは雛苺が食べている朝食ぐらいなもので、翠星石が食べる分は何処にも見受けられない。
キッチンのほうへと視線を移すも、それらしいものは見当たらなかった。
 すっと真紅は本を閉じ、雛苺の朝食へと指差す。
「それよ。さっきのりがジュンと翠星石の朝食は一緒にしておくと言っていたわ。
一応ジュンのものでもあるのだから私は口に出さなかったけれど」
「ジュンから貰ったのー!」
と、今更ながらの説明をしてくれる真紅とご丁寧に補足までしてくれた雛苺。
後は我関せずと真紅は再び本を開き、雛苺は食べるのに没頭し始める。
(これは……)
 鬱陶しい事になりそうだ、ジュンは深いため息をつく。
 普段でさえ口八丁な翠星石である。この事に触れて余計に罵詈雑言を並べ、最悪の場合は今日一日ずっとその事に触れられる可能性もある。
更には自分にも非があるせいで、まともな反撃も出来ない始末。救いようがない。
 恐る恐るジュンは翠星石のほうへと視線を移すが、
「そう、ですか……」
「は?」
 間抜けな声を上げるジュンを無視し、翠星石は椅子から飛び降りる。
真紅以外の全員が呆気に取られている中、翠星石は気にした風もなくドアを開けた。
「二階に行ってくるです」
 パタン、と寂しそうな音を経て、ドアは静かに閉まった。


―――――――――――――――――――――――――

「どうしたんだ、あいつ……」
 未だに閉じられた扉を見つめたままどことなくジュンは呟く。
「翠星石、どうしたの?」
 流石の雛苺も翠星石の異変に気付いたのか、あれ程までに動かしていた手を止め、ジュンのほうへと振り向く。
「僕に聞くな」
 わかるわけない。
 心中で吐き、伝わるように雛苺の前で顔を顰めてみせる。質問をしかめっ面で返された雛苺は、何を思ったのかそれと同じように顔を歪ませた。
「ジュンのマネー」
「……さっさと食べろ」
 付き合う気にもなれない。吐き捨て、紅茶を手につけた。また微妙な味が口一杯に広がり―――不味い。
 そうして微妙な味を噛み締めながら、ジュンは残った紅茶を喉へと一気に押し流す。味と同時に多量の熱を体から感じながら、ほう、と息を吐き出した。
「ジュン」
 未だに紅茶の余韻が引かない中の、熟した女性のような声音にジュンは振り返る。
 澄ました表情でこちらを見る真紅がそこにおり、いつものことだと手元にあるポットを手に持つ。だがそれを諌めるように真紅は飲みかけのカップを置き、口を開いた。
「この後、何か用事でもあるの?」
「は? いきなり何だよ」
「いいから答えなさい」
 訳が分からない。真紅の唐突な発言は珍しいことでもなく驚きはしないが、意図が見えないものに戸惑いがあるのは当然。何よりこの答えは自分の触れられたくない部分に関わっている。
「別に。……なにも」
 聞き取るのが難しいぐらいの小声で呟く。不愉快だ、という意を込めて真紅のほうへと睨むが、以前と澄ました表情に動きはなかった。
 やがて互いに違う意図ながら見据えたまま何秒か経ち、真紅が動いた。
「そう。ならついてきてちょうだい」
「あ、おい」
 呼ぶが、無視。椅子から飛び降りドアへ向かう彼女を、肩透かしを食らったジュンは呆然とそれを見守る。そんなジュンを真紅は顔だけ動かし一瞥した後、ドアを開け姿を消した。
「……おい、雛苺」
「う、うぃ?」
 突然に声をかけられ、明らか動じている様子でこちらを振り向く雛苺。瞬間、耳に響く金属特有の音が聞こえた。
 思わず耳を抑え聞き覚えのある音。何が起こったのか分からないような表情で空手である片手を見る雛苺。それを見てジュンは全てを理解した。
「大きいけど、ほら」 
 ため息つき、使われることのなかった自分のスプーンを雛苺に差し出す。雛苺は驚いたようにジュンのほうへと見上げた後、おずおずと自分の手には少し大きいスプーンを手に取る。にぱっと、満足気に笑った。
 純粋な感謝に慣れていないジュンは無愛想にそれを受け取り、床に落ちたスプーンをキッチンに放り込む。その横にある以前として反応が無いドア。ため息つき、覚悟を決めた。
 嬉しそうに大きいスプーンと小さいフォークを見比べている雛苺に向け、ビシリと指差す。
「いいか? 僕が帰ってくるまで誰も家に入れるなよ。
 この時間帯に来る奴なんてどうせろくでもない連中なんだから」
「う、うぃ」
 コクコクと必死に首を縦に振る雛苺を見て、ポットを置き席を立つ。
 後ろから「あいとあいとぉぉぉ!」という意味不明な言葉を聞きながら、ジュンは部屋からでた。


「遅いわ」
迎え入れた最初の発言がそれだった。にしては壁にもたれ、分厚い洋本を読んでいる事から大して暇ではなかったのだろう。本を閉じ、立ち上がった。
「ホーリエ、お願い」
 手品のように真紅の片手から赤い光が舞う。自己主張するかのように小さく一回転した後、真紅はその光に持っていた本を掲げた。本は浮き、光はゆっくりと本と同時に階段のある方向へと進んでいく。
 人形達のおかげで不思議光景に慣れつつあるジュンはあえてその光景を無視し、話を進める。
「あのな、せめて説明ぐらいしろよ」
「見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
 ジュンの問いに答えず、真紅はそのまま歩き出した。ついてこいという表れか、ジュンもそのまま真紅の背中を追う。
「おい、ここって……」
 リビングから十歩も満たない距離。真紅が立ち止まったのは、この家で最も出入りが無い部屋。当然、この部屋に用があるなんて以前までは滅多にありはしなかった。……以前までは。
 嫌な予感がする。両親が海外へ仕事に行ったきり、二人が土産、もといガラクタを送りつけるのもあり物置と化したこの部屋。しかし真紅達が来てからはガラクタを置く以外にここへ来ることが出来た。
「開けなさい」
 ん、と顔でドアのノブを指す真紅。その物言いに少しむっと顔を顰めるが、渋々とノブを回しドアを開ける。途端、肉眼でも見えるほどの埃と、廊下とはまったく違う木が湿ったような匂いが鼻に引っ付く。
 ジュンが身体に取り付いてくるそれらを払ってるなか、真紅は平然とその奥へ進む。ここまで来ればジュンも大体の見当が付いた。
「やっぱりこれか」
 入り口から五、六メートル離れた場所に置いてある鏡。その前で歩みを止めた真紅を見て、いささかジュンの顔が引きつった。
「……nのフィールドってやつか?」
「ええ」
 不満というより気味が悪いといったジュンの言い方に、真紅は振り返るまでもなく淡々と返した。
 nのフィールドに決して良い体験などないジュンにとっては、何をするのか説明ぐらいはして欲しいものだが彼女のわかりきった答えをいまさら聞くまでもない。
 肩を落とすジュンを尻目に、真紅は一歩、鏡の前へと踏み出す。
「行くわ」
 鏡面が揺れた。真紅の言葉が合図かのように中心を基点に波紋が現れ、裏返しに写った真紅とジュンの像を歪ませる。
 その中に真紅は臆さず腕を突き出した。音も経てず、突き出した分の腕だけがそこで消え、波紋が大きくなる。
 大した動揺も見せず真紅は足、胴、頭と、次々と鏡へと突っ込んでいき、例外なくそれらはジュンの視界から消えていく。
 真紅の身体全てが入りきったのを見守った後、ジュンはためらいがちに鏡の前に踏み込んだ。ジュンの侵入を心待ちしているかのように、鏡の波紋は未だ消えない。
 説明ぐらいあってもいいんじゃないかと舌打ちするが、反応したのはいっそ波を大きくする鏡だけだった。
「ったく……!」
 一言いってやる、それだけだ。―――言い聞かせ、鏡の中に踏み込んだ。


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