1941年5月10日、1人のエジプト生まれのドイツ人の政治家が手に薔薇の装飾がなされた鞄を手に、1機の飛行機へと足早に向かっていた。
───畜生、なんだってこんな事に・・・。男はぼんやりと考え事をしながらも歩調を緩める事はしなかった。
「ああそうだ、全ては2年前にこの鞄が届いてからの様な気がする。」男は口に出して言った。実際はそんな事でもなかったのだが。

2年前・・・1939年の夏の終わり。彼はとある会議の一席を与えられた。最近彼の政治力は低下しており、これで復権がなったと喜んだ。
だがしかし現実は無情でその会議で彼は一言も発言は許されなかった。彼の経歴の絶頂期は1930年前後でありもはや彼にとっての
夏は終わったのだ。近頃は彼の副官がその力を伸ばしており、地方の有力者が尋ねてきてもまず挨拶するのは副官からだった。
その様な露骨な態度を取られても彼には文句を付けるだけの力も、気力も無かった。
彼に不可思議でそっけない電報が届いたのはそんな時だった。その電報にはただ「マキマスカ・マキマセンカ」とだけあった。
「ふん、数年前ならともかく今の私には何かの罠に引っ掛けるだけの価値もあるまい」彼は半ば自棄気味に、そしてほんの少しどうしようもない現状
の変化に期待しつつマキマスに○を付けた。しかし急にバカらしくなり紙をくしゃくしゃに丸めると屑捨てに放り入れた。
翌日、世間は戦争中らしいが儀礼的な式典に顔を出す事以外する事もないので帰宅すると、そこには喜ばしい変化が起きていた。
すなわち、どこかの要人から彼への久方ぶりのプレゼント(それは包み紙に収まった箱でもなくなぜか豪華な鞄だった)が書斎の机の上に鎮座していたのだ。
彼は使用人や妻には書斎に入らないよう言い付けて置いたにも関わらず、なぜそこに見知らぬ鞄が置いてあったのか、そもそも一体誰か送られてきたのか一瞬考えたがやめにした。
そんな野暮な事は後でじっくり考え、今は鞄を開けて中身を検分する事が一番大切なことだったからだ。その重厚な鞄は音も無く簡単に開いた。
そして中身を見て彼は顔をしかめた。中にはいかにも高級そうな、黒いドレスを身にまとった銀髪の美しい人形が納められていたからだ。
大方自分がオカルト好きなのを知った党の誰かが送ってきたんだろうと苦笑しながら鞄を閉めようとしたが人形の横に螺子があるのを見つけた。
巻いてみるか・・・、彼は何の気なしに人形を手にとり螺子を巻いた。と・・・彼は我が目を疑った。人形が動き始めたのだ。
「うわ!?」彼はつい慌てて人形を落としてしまった。するとその人形は悲鳴を上げた後、泣き始めた。
「一体何なんだ?動くだけならまだしも泣いてる?」彼は頭を素早く回転させ、一つの結論に至った。
うんそうか、きっとどこかの変態じじいが奴隷の少女を送りつけてきたに違いない。そうだとも、人形が動いて泣くなんて事はあるはずもないじゃないか。
螺子の事を無理やり忘れ、そう現状を整理する。「ええと、大丈夫かい?怪我は?疲れてるだろう、何か食べるかい?」
見たところそう弱ってそうでも無いが長時間鞄の中に居たに違いない。とりあえず冷たい床の上ではまずいと思い、彼は手を差し出した。
少女は戸惑いつつも手を上げた。その時、少女の服がずれ手首が露わになった。
「関節!?やっぱりこの子は人形なのか?」彼は頭が混乱しそうになったがすぐに落ち着いた。彼自身も科学では証明なし得ないものが存在すると
信じていたし、何より人形というところに惹かれるものを感じたのだ。
───人形?ふん。私と一緒じゃないか。上に飾られただそこにいるだけでよい「人形」。正に今の私にはふさわしいもんだな。
まあ、誰が送ってきたかは解らないが感謝しようじゃないか。畜生め。


その日から彼と人形の共同生活は始まった。彼は時間の許す限り書斎に閉じこもるようになり、周囲の人間からは聞こえよがしに鬱病とまで噂された。
しかし彼はその生活に満足していた。なぜなら彼はその漆黒の天使に心底惚れ上げていたからだ。もっともそれは人としてではなく、宗教に近いものだったが。
だが世界情勢は悪化の一途をたどり続けた。ドイツはイギリス本土の制空権争いに負け、次第にその目を東方へと向けていった。
彼はその事について悩む事が多くなった。いつもの癖で指で机をトントンと規則的に叩きつつ呻く。
「う〜んイギリスと事を構えている上にあのソ連に攻め込むなんてなぁ。おまけにアメリカも参戦したがってるし・・・」
「どうしてそんなに悩むの?ドイツは強いんでしょう?」
「どこも強国だからね。いくらドイツが強くったって、2カ国位ならともかくこんなに沢山の国とは戦えないよ。」
「だったら・・・どっかと戦うのをやめてみる・・・とか・・・?」
「簡単に言ってくれるねぇ・・・」等と言いつつも彼は閃いた。そう言えばイギリスのハミルトン公爵とはオリンピック以来の仲だっけ。
ひょっとするとチャーチル首相との停戦交渉を取り持ってくれるかもしれない。そう考えた彼は気違いとまでは噂されたくないので、
周りの人間には秘密のまま行動しはじめた。まともな手じゃ無理だ。残念ながら私にはもうそんな影響力は残されていない。
ならば、会談というより亡命に近くなるが飛行機でスコットランドに強行着陸してしまおう。前の大戦では戦闘機パイロットだったからとりあえず操縦は何とかなるだろう。
彼はここ4〜5年は味わった事の無い充実感に満ちていた。そして1941年5月、彼は祖国を守るべく行動を開始した。


ああ、そうだったな。全部私が決めたんだったな。男は双発戦闘機の操縦席に納まると腹をくくった。
「さあ行こうか。水銀燈。」
彼───国家社会主義ドイツ労働者党副総統ルドルフ・ヘスはそう言うとドイツを救うべく飛行場を飛び立った。


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※ヘスさんは実在の人物です






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