薔薇水晶は力なく地に伏せている。
六つのローザミスティカを取り込むことに失敗し、自壊した体はすでに器としての機能を果たしていない。動くことも喋ることもできないが、意識だけは辛うじて保っていた。
少女の意識を壊れかけた体に繋ぎとめているもの、それは単純明確な憎悪である。
―――壊してやる。
自分を受け入れなかった六体のドール達。
忌々しいその姿は、今でも瞼の裏に焼きついている。
内側から破壊された腹部がズキリと痛んだ。
――― 一体残らず、全て壊してやる。
哀れな贋物と嘲った白いドール。
お父様によって作られた完璧な人形の自分が贋物のはずがない。そう叫びたかったが、口が動かなかった。
やがて白いドールは消えうせたが、胸中に溢れかえる怒りは消えることはなく、皮肉にも薔薇水晶と体の結びつきを強めることになった。それこそが白いドールの思惑だともしらずに。
―――壊してやる、壊してやる、壊してやる。
行き場のない負の感情は、いまや少女にとっての生の糧である。そして創造主から与えられた崇高な使命は、少女の精神を堅固なものにしていた。
全ては自分がローゼンメイデンシリーズを超える存在だと証明するために。
全てはお父様のためだけに。
だが、薔薇水晶は知らなかった。それがすでに失われた目的だということを。
あの時、光に包み込まれた二人を待っていたのは、無限に広がるnのフィールドの虚空空間だった。どこまでも続く世界と悠久の時は、薔薇水晶に朽ちを、槐に死を与えたのだ。
最愛のお父様が動かなくなったわけを、闘うことしか知らない少女には理解できなかった。理解できたとしても、その死を受け入れることはできなかっただろう。
「おやおや、まだ迷子になられていないご様子で」
視界の隅に見慣れたタキシードが映った。
音も気配も出さずに現れた訪問者は、ゆっくりとした足取りで薔薇水晶に近づいてくる。
少女の眼球がその何者かを捉えようとぎこちなく動くが、その必要はなくなった。
「その器はもはや限界でしょう? 何故そうまでして、その器にしがみつく必要があるのでしょうか? 森の奥でお菓子の家に巡り得たヘンデルとグレーテルのように、迷いは時には思いもしない物をもたらします」
ククッと笑い、「彼らの場合、悪い魔女に捕らわれましたが」と肩をすくませながら付け加える。
この独特の口調と道化的な言動には聞き覚えがあった。
ラプラスの魔。nのフィールドを自由に闊歩することができる唯一無二の存在。
歯をかみ締めて睨みつけている薔薇水晶に気づいていないのか、それとも眼中にすらないのか、人型の白ウサギは平然と頭上のシルクハットを持ち上げた。
「お久しぶりで、精巧に作られた贋物のお嬢さん。 狭間での幽閉はさすがに堪えましたかね?」
薔薇水晶が目を剥く。
やはりこの空間の干渉を断ち、閉鎖したのはこの道化の仕業だったようだ。だとすれば、お父様が動かなくなったのもラプラスの魔の所為に違いない。
事実がどうであれ、もはや薔薇水晶の双眸は眼前の憎き敵しか捉えていなかった。怒りで顔が歪み、頬を走る亀裂が大きさを増しても、少女の視線はただ一点に注がれ続けた。
「そう怖い顔をなさらずに。 美しい顔が歪むのは、私としても気分が良いものではありません」
ギシギシと軋む球体間接を無理矢理動かし、緩慢ながらも残った片腕で上半身を支え上げる。
「ほぉ……」
ラプラスの魔から感嘆の声が洩れた。
「人を突き動かすには憎悪と怨恨が最適だといいますが……失礼、貴女は人ではありませんでしたね」
細い両足がしっかりと地を踏みしめる。安定はしていなかったが、薔薇水晶は確かに立ち上がっていた。それは彼女にとって数年ぶりの直立だったが、nのフィールドは少女の時間感覚を完全に狂わせていた。
「いやはや、素晴らしい。 あのお方がここにいないのが心残りなぐらい、実に素晴らしい」
―――うるさい。
「よほど私が気に食わないご様子で。 いえ、貴女が本当に嫌いなのは五番目のお嬢さんでしょうか? それならご安心を、すでに彼女は―――」
―――うるさいッ!!
紫の光が、空間に走った。
辺り一面に突き出した水晶は、瞬く間に空間を埋め尽くしていく。止まることなく増え続ける水晶の群れは意思を持っているかのごとく、ラプラスの魔をグルリと囲い込んだ。
殺風景な空間が、紫水晶に彩られていく様は幻想的である。
「……美しい」
ラプラスの魔が陶酔した声で呟いた。
たとえその水晶が攻撃手段だったとしても、誰もがその光景には目を奪われてしまうだろう。気づいた瞬間に、貫かれていたとしても。
途端、一際大きな水晶が地を這った。ラプラスの魔の瞳は自分めがけて迫る水晶を捉えていたが、動こうとはしなかった。
薔薇水晶の脳裏に疑念がよぎる。しかし、すぐさま頭から振り払う。
もはや少女の頭の中には、眼前の道化を壊す目的だけで占められていたのだ。
だから彼女は気がつかなかった。
背後から音もなく忍び寄る影に。
―――え……?
背中から胸に突き抜けるような衝撃が伝わった。
状況が飲み込めず泳ぐ瞳は、無傷のラプラスの魔へと向けられる。
「恐れることはありません。 ドールに死という概念はあらず、故に終焉はなく、言うならば眠りにつくのと同じです」
その言葉を合図に、遅れて違和感が滲みわたった。
自らの体に起きている事態を把握できないまま足から力が抜けていく。
ゆっくりと地に崩れ落ちた薔薇水晶は、ふと顔を伏せた。
そして見た。
胸から突き出した一本の白い茨を。
少女の表情は驚愕、次いで絶望へと変化していった。
辺り一面に広がっていた水晶が、甲高い音をたてて砕け散る。それは薔薇水晶の終わりを意味していたのだろう。
不意に、ラプラスの魔ではない、透き通った声が響いた。
「それはしばしの眠り。 いつかは覚める泡沫の夢」
背後から伸びた繊細な指先がひび割れた頬に触れた。
その手が誰のものかはわからない。でも、優しく撫でられる度にこの心を満たすような温かいモノは何なのか。大切なモノが頭の中から零れ落ちていく、この感覚は何なのだろうか。
朦朧とした意識の中、薔薇水晶は、耳元で囁く心地よい声を聞いた。
「だから今はお休みなさい。 深い眠りを、楽しい夢を」
夢を見た。
眼鏡をかけた黒髪の少年が泣いている。
肩を小さく震わせながら、その弱々しい背中を丸め、嗚咽を繰り返す。
そんな彼の腕の中には、可愛らしい西洋人形が見えた。ところどころが破損しているのが痛々しいが、その精巧な作りの前では少々の破損でも見劣りしない。
この少年は、人形が壊れてしまって泣いているのだろうか。
それほど大切な人形だったのだろうか。
どんな理由であれど、これほどまでに少年に思われている人形は、幸せだったに違いない。
夢はそこで途切れた。
続く