「誇り高き我が名前、真紅にかけて誓う。 貴方をここで。 処刑するわ。」
「ヒナねぇ、こんな気持ちになったの初めて。 これからすっごくすごく酷い事するつもりなのに。
……ちっとも可哀想に思えないの。」
「お前のボキャブラリーなんてタカが知れてますけどぉ、命乞いするだけしてみたらどうですかぁ?
ひょっとしたら気が変わっちゃうかもしれないですよぉ。 に・ん・げ・ん。」
クスクスと笑う声に総毛立つ。 愛らしい声。 だが、その双眸には情なんて一かけらも見当たらない。
憎悪。 そうだ。 人形達の瞳が秘めたもの。 それは、憎悪と……殺意だった。
恐ろしい。 心の底から恐ろしい。
もし人間だったら、これほどまでの憎悪を抱えていても、なお笑えるものなのだろうか。
少なくとも僕にとっては、笑いは喜びの発露だった。
これは何なんだ? 夢なら、夢なら今すぐ覚めてくれ。
いつもと同じように起きて、いつもと同じように過ごした日。 いつもお馴染みの桜田家で。
僕はいま、命を落とそうとしている。
何なんだ、この状況は。 本当にここは、あの憩いの桜田家なのか。
逃げる。 動かないに等しい頭に、その単語が浮かんだ。
そうだ、逃げなくては。 ここから、この状況から、逃げなくては。
「はっ……ひは……」
なのに。 走ろうとすると膝に力が入らない。 何か言おうとすると言葉にならない。
ただただ怖い。 恐怖という感情がこれほどのものだなんて、知らなかった。
それでも、生きてこれたのだ。 今日までは。
シンクが静かに動いた。 瞳がそれを認識した瞬間。 僕は弾かれたように走り出した。
でも、それでは遅く。
明確な殺意を持った拳が、僕の顔面に叩き込まれた。
「えふぁ……!」
顔面を襲う衝撃。 僕は「痛い」という単語が浮かぶ間もなく吹き飛んだ。
あっけなく床に転がる僕。 慌てて立ち上がろうともがく。
だが、焦れば焦るほど、直ぐに立てない。 早く! 早くしないと!
痛いっ。 手に何か刺さった。 何かの破片だ。
横を見ると、僕がぶつかったせいなのか、花瓶が割れて辺りが水浸しだ。
……化物だ。 改めて思い知った。 理性で考えまいとしても、絶望感が押し寄せる。
人は殴られたくらいじゃ、何メートルも吹き飛んだりしない。
それを、あんな小さな人形が。
喋る。 動く。 人を…殺す。
あいつらは、あの人形は紛れも無く化け物なのだ。
周りを見回す。 ここはリビングを出て直ぐの場所だ。
そしてまだ、人形たちはリビングから出て来ない。
生存本能がなんとか僕を立たせた。 …玄関はすぐそこだ。 外に出さえすれば…!
一歩。 二歩。 三歩。 駆け出すと、体に力が湧いてきたような気がする。
やった、追いつかれてない! 何とかなる……!
はずだった。
「え……?」
玄関など無かった。
いや、あったはずなのだ。 あったはずのものが 消 え た 。
「ジュン……」
背中から声。 正しいかどうか、考えもしなかった。 そんな余裕は無かったのだ。
僕は立ち止まって、後ろを振り返ってしまった。
シンクがいた。
近い。 5メートルも離れてない。 死ぬ。 殺される。
死を予感する自暴自棄な気持ちと、最後まで生を諦めきれない気持ち。
感情が僕の口をついて出た。
「なんでこんな事するんだ!? 一体、僕が何をしたって言うんだ!!」
「理由なんて無いわ。」
シンクはさらりと即答した。
は?
僕の頭の中が真っ白になる。 無い。 理由なんて無いって言ったのか。
怪奇現象には理由がある。 その原因を解消すれば、命は助かる。 恐怖映画でお馴染みのパターン。
その可能性にすがっていた。 助かりたかった。
でも。 一縷の望みは、今、ゼロになったと宣告されたのだ。
「理由が無くてはこんな事をしてはいけない?
あなたがいるのが気に入らないの。 同じ空気を吸うなんて耐えられないの。 ただ、それだけ。」
「痛くないわ。」
一歩、近付かれた。
「それは、とても甘美な眠り。 起こす者も無く。 もう誰も貴方を傷つけない。」
そしてまた一歩。
動けない。 すくんだままの僕に、最期の時が迫る。 助けて……助けて…!
前後も分からない、この奇妙な空間。 それを見つけたのは偶然だった。
学校の上履き。 頼りない筆跡で書かれた「JUM」。 学校。 そうだ。 こんな所で、終われない…!
瞬間、金縛りが解ける。 僕は弾かれたように体を翻し、この場から遠ざかろうと走り出した。
「翠星石。 そちらに行ったわ。 始末して頂戴。」
背中から聞こえてきた言葉は最悪なものだったが、止まる訳にはいかなかった。
鼻の周りが腫れぼったい。
感覚が鈍くなっていて、痛いのかどうかも、鼻があるのかすら分からない。
おかげで口だけで息をしなければならない。 それがどうにも辛い。 肺に余計な負担が掛かっている。
喉が痛い。 服が重い。 こんな事なら、もっとラフな格好をしておくんだった。
「止まるです。」
正面に小さな影。 スイセイセキだ。 誰が止まるか!
ガクッ。 !? 心とは裏腹に、僕はもんどりうって倒れた。
あ、足が! 足が誰かに掴まれてる! ……いや、これは……草?
「うふふふ……ヒナもいるのよ♪ ふ、ふ。 ふふふ。 ヒナがやったの。 ヒナがやったのぉ〜♪」
やられた! 正面は囮だったのだ。 無邪気に、楽しそうに笑いながら。 ヒナが暗がりから、僕の顔を覗きこんでいた。
神経を直接掴まれたような足の痛み。 元凶である彼女の笑みは、怖いくらいに無垢。
狂っている。 この人形達は狂っている。
「無様な成りですねぇ。 n のフィールドで私達から逃げきるなんて、最初から不可能なのです。」
止まってしまった事で、走り続けてきた疲労が一気に押し寄せて来る。
あぁ……もう駄目だ。 恐怖、後悔、悲しみ。 絶望感に、僕は怨嗟を吐き出さずにはいられなかった。
「……どうして。 どうしてこんな事するんだ。 ……理由も、無いなん、て。 じゃあなんで。 なんで僕なんだ……」
溢れてきた嗚咽が、視覚と直結して引っ込んだ。 スイセイセキ。 彼女の顔が、憤怒で、歪んでいた。
恐怖と……美。 動けない。 動く人形と、動けない人間。 なんという悪夢だろう。
「どうして? 理由が無い? ……お前が、言うですか。 …………よくも、抜け抜けと……!」
「……おやめなさいな。 言って聞かせたって駄目。 自分で気付かせなければ、なんの意味も無いのよ。」
理由? 理由がある、のか。 理由って何だ? どんな理由か知らないけれど、こんなの非道いじゃないか。
私刑。 自分の尺度で善悪を決めて。 それを僕に押し付けてるだけじゃないか……。
でも、もうどうでもいい。 もうどうしようもないのだ。 真紅の手が迫り、激痛。 僕の意識が失われていく。
「何してるんだ君たちは!!」
闇を払い。 失われた僕の意識を呼び戻した、その声。 なぜだか僕はその声を酷く懐かしいと思った……。
「あっとゆーま♪ あっとゆーま♪」
うるさいな、まったく……日曜日くらいゆっくり寝させてくれよ。
まぁ、日曜日以外もゆっくり寝てるけど。
ふわぁ〜と伸びをして眼鏡をかける。 んむ、09:20。 ……そう早くもないか。
「ジューン! 凄いのよー! 今日は朝からプリンなのー!」
失われた僕の意識を呼び戻した、その声。 苺の奴はいつも通りエンジン全開だ。
子供って、何でこんなにエネルギーが余ってるんだろう。
「にっちようびー♪ にっちようびー♪ きょうはいっしょぉー♪
ジュンものりもずっといっしょぉー♪ にちようび、だぁ〜いすき!」
……ったく。 何だよその歌は。 ……僕は顔を赤くなんてしないぞ。 しないったらしない。
「ほらほらチビチビ! くんくんが始まっちゃうですよ! ダッシュダッシュですぅー。」
性悪人形ご登場。 くんくんと聞いて、雛苺はスーパーダッシュで部屋から出て行った。
それを目で追った後、こちらに目をやってくる翠星石。 悪戯っぽく微笑むと、いつもの軽口を叩いてきた。
「んー、相変わらずジュンは寝坊助ですねぇー。 このまま永眠しちまうかと思ったですぅー。」
言葉は相変わらずだけど、いつもみたいな含みのある笑顔ではなくて。
なんだか純粋に……。 まだ半分寝惚けた頭で、そんな事を考えながらぼんやり彼女を見つめていると。
「な、何ですか、ジュン……そんなにじっと見て。 言いたい事があるなら、男らしくハッキリ言いやがれですぅ!」
「え? いや、なんか可愛いなって。」
っておい!! 何言ってんだ僕!! 思わず返答してしまったが、もう遅い。
あぁあ、赤い。 翠星石は今や完全にユデダコと化していた。 やばいやばいやばいヤバイやばい!
「と、突然何を言うですか! こ、心の準備ってものが…じゃなくて! ま、真っ赤な顔して、いきなり変なこと言うなですぅー!」
「こ、言葉のアヤって奴だよ! いつもと比べたらっつぅか……そもそもお前の顔の方が絶対に赤い!」
「ジュンの方が赤いですぅー! もうにんじん同然です! トマトです! パプリカです! 真紅よりも真紅ですぅー!」
「真紅って言う奴が真紅だ! アイデンティティの崩壊だ! 人気投票を怖れてももう遅いわ!」
「誰が私ですって?」
戸口を見ると、そこには仁王立ちの真紅。 顔は笑っているが、目はマジだ。
「誰の人気が何ですって?」
「い……いえ……真紅様のミリキを得票数で計ろうとする馬鹿どもの愚を力説していた所で……」
「そう……良かったわ、ジュン。 惨劇には似つかわしくない朝だものね……。」
どうやら生存ルートに入れたようだ。
朝っぱらから人生を綱渡りしてしまった。 たぶん残機も1機減った。
「す、翠星石はもう行くですぅー。」
う。 翠星石が顔を伏せたまま、小走りに立ち去った。
まだビミョーに気まずい気はするが、なんとか有耶無耶になってくれたか。
なんか危ないムードだったよな、さっきのは……。
くいくい。 ん? 気付けば真紅が服の裾を引っ張っている。
……心なしか、顔がムスッとしている…ような?
「いつまでボケッとしているの、気の利かない下僕ね。
……下まで抱っこして頂戴。 それで、先刻の無礼は忘れてあげるから。」
苦笑する僕。 かなわないな、こいつには。
「はいはい。 これでいいですか、お姫様。」
「はい、は一回よ。 ……よろしい。」
真紅を抱き上げると、甘えるように頭をもたせ掛けてきた。
こいつのこういう仕草には、いつまでたってもドキッとさせられる。
それに、なんだろう、今日はみんな……やけに、優しい、ような気がする。
何だか恥ずかしくって、取り繕うように言葉を紡ぐ。
「まったく……ひょっとして僕は自分から憑り殺されようとしてるんじゃないだろうな。」
それに対する真紅の返答には……なぜだろう。 妙に真剣な響きがあった。
「馬鹿な事を言わないで。 私達が貴方を傷つける事なんて無いわ。 絶対に。」
「貴方はもう、私達にとってかけがえの無い人間なのよ。
私も、雛苺も、翠星石も、みんな貴方のことを大切に思ってる。」
「貴方がミーディアムだから、なんて理由ではないわ。
知っているから。 貴方の強さを。 包みたいから。 貴方の弱さも。
寄り添っていたいから。 貴方の優しさに。 …桜田ジュンを知ったから。 いま、私達は此処にいる。」
「貴方の喜びは私達の喜び。 貴方を喜ばせるもの全てに接吻て回りたいくらい。
貴方の敵は私達の敵。 百の夜を越えて必ず償いをさせるわ。
貴方の未来は私達の未来。 できるなら……これからも共にありたい。」
「ねぇ、ジュン。 こんな事を言うのは恥ずかしいけれど、私達は当世の常識に欠けているわよね。
だから、たまにやり過ぎる事があると思う。 でも、それは真心の裏返し。
それだけは、分かってほしいのだわ。 …………せめて、貴方には。」
……真紅は、真剣だ。 罪のない嘘をつく事はあっても。 冗談でこんな事を言うような奴じゃない。
胸が熱くなる。 こんな気持ち、言葉なんかで表せるはずがない。
それなら。 言葉になんか、しなくてもいい。 僕と真紅。 言葉が無くても、きっと。 「伝わる」気がするから。
だから居間に入った時、僕は何度も目をこすった。 ごし、ごし。 ごしごしごしごしごし!!
……梅岡。 うん、梅岡先生だ。 パンツ一丁で手足を縛られ、ボコボコにされてる点を除けば、不審な点は全く無い。
そう言えば昨日来るとかなんとか、柏葉が教えてくれてたし。
教師の癖に約束破ってんじゃねーよとか思ってたけど、来なかったんじゃなくて来れなかったんだね、先生。
あぁ、なるほどね。 さっきの熱弁はこれの予防線だったのね。 凄い力説だったよね。 うんうん。
真紅、これはアウト。
「……分かってほしいのだわ。 …………だめなの?」
真紅がどんなにかわいこぶった所で、目の前の梅岡が無かった事になるわけでもなく。
僕はあらん限りの声で叫んだ。
「何してるんだキミタチはぁァァァーーーーーーー!!!」
「うっうぅぅ……本当なんだよ、桜田さん……。 人形が僕を襲ってきたんだよ……」
「きっと疲れて悪夢でも見たんですよぅ〜。 先生、いつも一所懸命でいらっしゃるからぁ…。」
苦しい言い訳をしながら、姉ちゃんが梅岡を送りに行った。 苦手極まりない人だが、こうなると哀れだ。
「だって泥棒さんかと思ったの……」
スーツ姿で堂々と玄関から入ってくる泥棒などいない。
「気絶させてひっ捕えたんですけど、そしたら丁度おやつの時間になって……てへ☆ 今朝まで忘れてたですぅ〜。」
含みのありすぎる笑顔が炸裂した。 おやつ>>>梅岡なのか。
「何より、対・水銀燈用に編み出した新必殺技『絆クロー』の威力を試したかったのだわ……」
そう言いながらアイアンクローでリンゴを軽々粉砕する真紅。 試すまでもないだろ、それ!
「…でも、お前らはこういう事しないと思ってた。 いくらなんでも、やり過ぎ…だろ?」
「…………だって。」
だっても何もあるかよ、と言おうとした刹那。
「だって、あの男。 以前ジュンを苦しめた人間に、似ていた、から。」
とか言うもんだから。 僕は二の句が継げなくなった。
似ていたも何も、本人なのだが……だから、許せなかった? …………僕の、ため?
見回して、気付く。 ………あぁ、そうなんだ。 雛苺も、翠星石も。 真紅と同じ理由なんだ。
薔薇乙女の矜持に触れても。 ……僕を、守ってくれようとしたんだ。 ……僕の心を、風がひとつ吹き抜けた。
「……分かったよ。 別に、責めたりしない。 ……って言うか、その……」
僕はくるりと背を向けて、小さな声で呟いた。 ありがとう。
恥ずかしくて、顔なんて見られたくない。 今、真紅たちがどんな顔をしてるかなんて知りたくもない。
でも、言葉には。 カタチにはしておきたかった。 だって分かったんだ。
真紅達が僕を想ってくれるように、僕も真紅達を想いたいから。
いつだって彼女達には曇りの無い笑顔でいてほしいから。
梅岡とかどうでもいいから。
おわり