桜田ジュンは進級して(形式上のことだが)間もないある日、妙なダイレクトメールを受け取った。 『巻きますか? 巻きませんか?』 大して疑いもせず、彼は肯定に丸をつけた。どうせヘンなオカルト信者の世迷言だ。精々楽しませてもらおう。 翌日、彼が目を覚ますと、立派なカバンが絨毯の上に鎮座していた。ジュンは眼鏡をかけてじっくりそれを見てから、恐る恐る蓋を開ける。 姉が部屋に入ってまでここにおいておくわけがない。 そこにあったのは、一体の人形。 蒼を基調にした、可愛らしい人形だ。ジュンはそれを抱き上げ、しげしげと眺めた。 「呪いの人形か? それにしても、よくできてるなぁ」 ずり落ちそうなシルクハットを支えつつ、ベットに立てかける。思春期真っ盛りの少年は、周囲に首を巡らせてから、ズボンを下ろした。 「女、か」 他に何かないのかと、ジュンはカバンを見直す。すると、細かな細工を施された螺子があった。 ――『巻きますか? 巻きませんか?』 「これのことか?」 人形の体を無造作に調べると、背中にそれらしき穴を見つけ、彼は差し込み、まわした。まあ、古そうなつくりからして、ギクシャクした動きを見せる程度だろう。 しかし、からくり人形とは斬新だな。高級なアンティークを送りつけて、高額な支配金を取ろうという魂胆だろうか。 ジュンの目の前で人形が微動し、目を開けた。よくできているなぁとジュンが感心していると、その人形は口を開き、こう言った。 「あなたが螺子を巻いてくれたんですか?」 ジュンは驚いた。呪いの人形は今までたくさん見てきたが、こんな風に行動する人形は見たことがない。 「な、なんだよこれ!」 「ああ、そうか。先に名乗っておくべきでした。僕は蒼星石。ローゼンメイデン、第四ドール」 礼儀正しく一礼。そんなことを聞いたジュンは、さらに混乱し、落ち着いて話を聞き入るまで、数分を要した。 「それでその、『アリス』を目指すために、姉妹で競っているわけか?」 「はい。アリスとは至高の少女。最後に残った一人が、その高みに到達できるんです」 「それに勝ち抜くために、契約者を探していると」 「はい。……なっていただけますか?」 説明をすべて聞き終えたジュンは、どんよりした瞳に蒼星石を映すのを止めて、パソコンを立ち上げた。 「いやだね。何で僕がそんなことをしてやらきゃいけないんだ」 ただでさえ、自分は外出できない身の上なのだ。そんな争いに巻き込まれたくはない。 「そうですか……」 会話が膠着状態になったところで、姉の桜田のりが部屋の扉を開いた。彼女のその後発言により、これからのことは有耶無耶になったまま、会話は終了。 なし崩し的に、蒼星石という人形は桜田家にその身を置くことになった。なにせ、下手に動けばミーディアムなしで戦う羽目になる上、人目につくと面倒なのだ。 蒼星石がこの生活に順応するのに、それほど時間はかからなかった。部活で忙しいのりのために、家事などを積極的に手伝い、姉を敬遠しているジュンのパイプ役になったりと、 徐々に重要な存在へと変わっていく。 「もう止めろよ」 そんなある日、とうとうジュンは口にした。鬱屈した精神をもつこの少年には、人の優しさはつらく感じていたのだろう。 「僕は契約しないって言ってるだろ!」 「それでも、いいんです」 怒鳴るジュンに向かって、蒼星石は答えた。 「あなたは僕の螺子を巻いてくれました。僕はそれに報いる義務がある」 彼には理解できなかった。自分の周りには、こんな奴いただろうか。ここまで他人を優先し、自分を犠牲にする奴が。学校には利己的で、馬鹿な奴しかいなかった。 彼女がいたら、自分の人生はいい方向に変わっていっただろう。ジュンはそう思った。 植えつけられた恐怖と猜疑。だけど、この人形なら信じてもいいんじゃないか? どうせ誰にも必要とされない僕だ。 この命、くれてやる。 「どうすればいい」 「え?」 「してやるよ、契約」 蒼星石は初めて笑った。そんな顔もできるんだな、とジュンは顔が熱くなっていく。 「この指輪に、口付けを」 促されるままに、ジュンは唇を差し出された指輪に落とした。その瞬間、指の一本に焼きつくような痛みと、眩しい光が放たれる。 「改めてよろしく――マスター」 一方そのころ、とある住居では―― 「おじじ。私が頼んだのは紅茶よ。日本茶じゃないわ」 「こらあ真紅! おじじを少しは労わるですぅ!」 赤い服と緑の服の人形が畳の上で喋っていた。一体は真紅、もう一体は翠星石。どちらもローゼンメイデンシリーズのドールである。なんの因果か、二人は同じ場所に降り立っていた。とても奇怪な光景である。 「ははは。いいんじゃよ、翠星石。すまんのう。紅茶など飲まなくてな。ティーパックもないわい」 「なら買ってきなさい」 「真紅!」 ぎゃあぎゃあ言い始めた二体の人形を穏やかに見つつ、老人――柴崎元治は病床に伏した妻を思った。 (マツ、早く起きてくれんと……わしに女の子二人は荷が重過ぎるわい) 柴崎は色あせた写真を手に取り、ほこりを払った。過ぎた年月をあらわすように積もったほこりは、ぱらぱらと舞う。 (お前もそう思うだろ?) 「おじじ! お前もなんか言ってやるですぅ!」 柴崎は微笑を浮かべて、写真を元に戻した。その写真には、彼の今は亡き息子が写っている。 力をフルに使うことが可能になった蒼星石は、nのフィールドを放浪していた。目的は心の樹の成長妨げる雑草の伐採。 契約はしてもらったが、いたずらに戦闘をけしかけて彼の命を酷使するわけにはいかない。 扉の一つを潜ると、大きな木にもっさりと雑草が生えていた。鋏を取り出し、ほいさほいさと切り落とす。 いい仕事したと蒼星石が額の汗を拭い、別の場所へ旅立った。 「ぶるぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!」 おばばこと柴崎マツ、ここに復活である。CVは決してあいつではない。念のため。 そこで茶を楽しんでいた二体と一人、ドン引き。片腕をつきあげて直立した妻を見て、夫は首をぶんぶん振った。 たしかに起きてくれとは頼んだが、もっと感動的に起きてほしかった。 人形二人は、抱き合って子ウサギのようにぶるぶる震えている。自分たちが一般的恐怖の対象であることなど、どこ吹く風だ。 「す、翠星石。何とかなさい!」 「いやですぅ、怖いですぅ!」 真紅は「行くあてを間違えた」と激しく後悔し、「こんなとき妹がいてくれたら」と切望した。原因がその妹だと知らずに。 「ま、マツ。大丈夫か……? その、色んな意味で……」 「あたぼうよ」 全然大丈夫ではない。あの慎みある妻はどこいった。あのおしとやかな大和撫子は幻影だったのか? 「うおうおう! ちっとばかし寝ちまってる間にきゃわいいお譲ちゃんが二人もいるじゃねえか!」 逃亡を図ろうと鏡台へそろりそろりと移動していた二人が固まった。運が悪い。その間に、マツは二人を抱き上げた。 どちらも暴れたが、それがじゃれていると解釈されたらしく、機嫌をそこねることはないようだ。 「HAHAHAHA。元気があってよろしい!」 そのあと、阿鼻叫喚といっても差し支えないほどの悲鳴が周囲を騒がせたが、ご近所はただならぬものを感じ、見て見ぬふりを決めた。 感情とは、蓄積するものである。その積み重なりをせき止めていた雑草が排除されたことにより、爆発したのだ。 「どこ行ってたんだ?」 「前に話したnのフィールドだよ」 勤めを終え、物置部屋の姿見から蒼星石は帰ってきた。契約した際に、『敬語は止めろ』と言われたので、最初よりいくらか砕けた話し方をしている。 「ふぅん。まあ、ほどほどにな」 契約してからというもの、ジュンは部屋に篭らなくなった。パソコンはするが、ブラウジングの程度にとどまっている。 回復の兆しだとのりと蒼星石は喜んだが、ただの自暴自棄である。死ぬことを念頭に置くと、大抵のことはどうでもよくなる。 それを覚悟と呼ぶかどうかは、ジュンには分からなかった。 「昔に比べて、雑草がよく生えてるんだ。皆病んでるんだよ。ジュン君だって……」 「僕のことはどうだっていい」 ひょいっとジュンは蒼星石を抱え上げた。前に教わった抱っこだ。 「え?」 「散歩に行こう」 「でも君は」 「いいんだ、別に」 そうどうだっていい。世間体も、級友の嘲りも、どうでもいい。吠えたければ吠えていろ。 目を白黒させる姉を尻目に、ジュンは外出した。昔は当たり前に通っていた道が新鮮に感じる。 「いいの?」 「なにが」 「誰かに会ったら、辛いんじゃないかな」 「そう思うなら、静かにしていろ」 抱き寄せられた蒼星石は、戸惑いつつも、その胸に身体を預けた。 「あ……桜田君」 曲がり角に、柏葉巴が立っていた。制服姿に、竹刀袋を肩に掛けている。 「柏葉か」 「出歩いてもいいの?」 「歩いちゃダメなのか?」 「そんなこと言っていないよ……」 伏し目がちになった彼女にジュンは何も思わなかった。幼馴染とはいえ、もはやその記憶は風化している。 今だって、委員長だからプリントを配りにきているだけだ。会話どころか挨拶もしていない。 「これ、渡すつもりだったプリント……」 「そうか。悪いな」 片手で無造作にたたんで、ポケットに押し込む。ジュンは巴が蒼星石を凝視しているのに気づいた。 「なんだよ。男が人形持ち歩いてちゃ悪いか?」 「ううん。うちにも似たような人形があるから……」 巴は口に手を寄せる。ジュンはその指にはめられた指輪が、自分のと形状がよく似ていると感じた。 かまをかけてみるか。 「委員長が指輪していいのかよ」 「違うの。どうしても外せないの」 間違いない。こいつも契約者だ。ジュンは踵を返し、家に帰ることにした。 「桜田君、学校に来るんだよね!?」 追いかけてきた巴の問いにジュンは振り向き、 「行かないよ」 永遠に、という言葉を飲み込んだのは、隠蔽か、それとも躊躇か。 「本当にいいの?」 姿見の前で蒼星石はオッドアイを怪訝で滲ませる。 「アリスになりたくないのか?」 その問いに、蒼星石は抗えない。ジュンはそれをよく知っていた。 「後悔、しないでね」 鏡が光だし、二人は溶け込んでいく。ヘンな浮遊感を感じながら、ジュンは蒼星石の跡を追う。 扉の先は、和室だった。ジュンはここを知っている。巴の部屋だ。昔はよく遊んだ。このカビくさいにおいも、今は遠い過去を呼び起こすにはいたらないが。 「蒼星石なの〜」 とことこと寄ってきたピンクのドール。蒼星石はその人形に鋏を突きつけた。 「雛苺、アリスゲームだ」 ――――――――――――――――――――――――― 雛苺とよばれたドールは、大したことはなかった。蔦を伸ばしたところで切り裂かれ、傀儡は避けられる。その度に力を行使されることに対して、ジュンは喜んでいた。 喰らえ。もっと俺の命を持っていけ。 自殺を考えたことは一度や二度の話ではない。その度に、意気地のない自分が阻止した。死にたくても死に切れず、毎日を下らないことに費やしていたところに、彼女は現れた。 容姿端麗、品行方正の彼女の役に立てる上、自分の生命を削り取ってくれる。一石二鳥だ。こんな命が、あの子の役に立てるなら、これからも捧げよう。 「やめて!」 巴が雛苺の前に立ちふさがる。ジュンは舌打ちをした。雛苺がnのフィールドにいることを知られる前に、ケリをつけたかったがしかたない。 「蒼星石、斬れ!」 蒼星石がジュンを見る。その目には、疑念と困惑が混じっていた。ジュンは顔をしかめる。 「どうした蒼星石、アリスになるんじゃないのか!」 ここで柏葉諸共斬り捨てても、僕はなんとも思わないだろう。もはや、蒼星石以外は路傍の石なのだ。目の前で死のうと、間接的に殺そうと、興味はない。 蒼星石は鋏を振り上げ、斬り裂いた。 真横のぬいぐるみを。 「ジュン君。たとえここで二人を斬っても、僕はアリスになれないと思う」 鋏が雲散霧消する。ジュンを見据えるその瞳には、強い意志が根付いている。 「穢れなき少女が、人を殺めることはない」 それきり蒼星石は何も言わず、ジュンを元の物置へ連れて行った。 「怒ってるの?」 カバンに入ろうとした蒼星石は、ジュンにベッドの上で組み敷かれていた。 「僕がマスターである君の命令に従わなかったこと」 「僕もよくわからない」 蒼星石の顔に、涙が落ち、濡らしていく。 「怒りなのか、悲しいのか……」 ジュンは蒼星石の胸に崩れる。 「ごめん、お前を人殺しにするところだった。自分のことばっかり考えていた」 「いいんだよ。僕も自分勝手なんだ。こんなことにジュン君を巻き込んじゃった……」 あやすように、蒼星石は頭を撫でる。嗚咽が漏れ出したジュンを、彼女は慈しみ、眠ってしまうまで語りかけた。 同時刻、とある病室にて―― 「張り込みを続けてンか月……どうして天使さんは私のところに来ないのかしら」 長髪の少女――柿崎めぐは溜息をついた。その口元は紫がかっており、肌は死人のように青白い。 「このままでは醜く老けて逝ってしまうわ。それは願い下げ。ああ、どこかに……あら?」 ちょうどその時、めぐの眼下を飛翔するなにかがいた。 「どうしてヤクルトがどこにもないのよ。どっかのエセ健康番組の被害にでもあったのかしらぁ……」 ぶつくさと空を飛ぶのはローゼンメイデン第一ドール、水銀橙である。先ほどまで好物の乳酸菌飲料を探していたのだが、一本も見つからず、現在ねぐらにしている古い教会に戻るところである。 「あぁもう。空から降ってくれれば、言うことなしなのにぃ」 急に月光が遮られ、怪訝に水銀燈が上を向くと、 「まってぇぇぇえええええ!」 空から人が振ってきた。驚愕する水銀燈。 「!?」 悲鳴一つ上げられず、緩衝材にされる誇り高きローゼンメイデン。まさに言うことがなにもない。そのままきりもみし、老朽化した教会の屋根をぶち抜いた。いくら飛翔能力があっても、人間の重量と、加速度的にかかる重力の前ではあまりにも無力だった。 「かっ、は……!」 翼をクッションにしても、ダメージは多大なものだ。呻き、上に乗っかっている人間をどかそうとする。 「なんなのよぅ……」 「やっぱり天使さんだ」 上半身をむくりと起こして、めぐは笑った。 「うーん。ちょっと予想とは違うけど、贅沢は言えないわね」 「はぁ? あんた何言ってんのぅ?」 「あ、でも……うぐぅ」 眉を顰める水銀燈をよそに、突然顔色を悪くするめぐ。 「こんなときに、発作が……」 「ちょっと、吐くならよそでやってよぉ」 ぐいぐい押す水銀燈を意に介さず、土気色の少女は黒い天使の方を向いたままだ。 「もう、だめ……お――――(自主規制)――――!」 嫌な水音がした。 その協会にいたのは、神に身を捧げた少女でもなければ、天へ導く天使でもなく―― 出すもの出して意識を手放した重病人と、踏んだり蹴ったりのアンティークドールだった。 顔を合わせづらいとジュンは思った。 昨日の晩、人形相手に大泣きしたあげく、そのまま泣きつかれて眠ってしまうとは。 ああ、情けない。 「ジュン君お出かけ?」 「ああ。ちょっとな」 姉にそう答えたが、あてはなかった。ただ、蒼星石と会いたくないだけだ。 時刻は八時前。普通なら登校するところか。 逃避散歩を続けていると、ジュンは再び巴と鉢合わせになった。 冷めた視線と、怯えた視線が交差する。 先に動いたのは、巴だった。 竹刀を引き出し、構える。ジュンは笑った。 「いいぜ? 僕を殺してみろ」 願ったり叶ったりだと、ジュンは胸のうちでも笑う。 「どうして雛苺を……」 巴は俯きがちに言った。 「アリスゲームだからな。当たり前だろ」 「どうしてそんな風に割り切れるの? あんな小さな女の子なのに」 笑いが大きくなった。 「見た目に騙されるなよ。あいつらは僕たちより年上だ」 「それでも精神は少女のままよ!」 巴は顔を上げた。目に涙を溜め、頬は高潮している。 そんな幼馴染に、ジュンは苛立ちを覚え始めた。 知るかよ。文句なら僕じゃなくてローゼンに言えばいいだろ。 結局、自分ではどうにもならないから、他人に慈悲を乞うしかないんだ。 あの馬鹿どもと同じ考えか。 反吐が出る。 「大変タメになるご演説、ありがとうございましたぁ」 「桜田君!」 竹刀を突きつけられるが、ジュンはそれを払った。 「本当に殺したいなら、真剣でももってこいよ」 肩を震わせる巴をジュンは捨て置き、散歩を再開する。擦れ違いざまに、 「そうだ。学校に行っている間、雛苺がどうなろうと、どうしようもないよな」 ジュンは喜悦に酔い、巴は絶望に叩き落された。 「原因は精神的なものです」 禿頭の医師はめぐのカルテをじっと見ている。 「胸部疾患は自発回復を見せてもいいのですが、これはもう本人次第です。要するになにが言いたいかというと――」 カルテから目を上げ、じろりと患者ベッドでにこにこしているめぐを睨んだ。 「絶食ならまだしも、飛び降り自殺など……!」 「死んでないでしょー」 笑顔のまま、めぐは手元の人形を抱きしめた。その黒い衣装の人形は息苦しそうに揺れている……ように見える。 「同じです! 匿名の通報がなければ、あなたは死ぬかもしれなかったんですよ!?」 「はいはい。もう大丈夫だから」 医師はまだなにか言いたそうだったが、効果がないと悟ったらしく、退室した。 「…………。もういいよ」 めぐの胸に顔を埋めていた水銀燈がばっと離れて息継ぎする。 「し、死ぬかと思った……」 「天使さんも呼吸しないとダメなのね」 「だから違うって言ってるでしょ」 「水銀燈、だよね。そのアリスゲームに勝つためには、契約しなきゃいけないんでしょ?」 すでに水銀燈は誤解を解くために、ある程度の説明はしていたのだ。 「普通のドールの話しよ。わたしには必要ないわぁ」 「でも、命を吸ってくれるんでしょ?」 「ふんっ」 水銀燈は一瞥投げかけてから、飛び立とうする。 が、 「契約してよ」 めぐの腕の中に引き込まれる。 「離しなさいよぉ!」 そのままシーツを被せられ、めぐしか見えなくなった。 「ふふん。指輪はどこかしら?」 「だれが言うもんですか!」 「あ、そう」 ぐにゃりと水銀燈の胸がゆがんだ。 「ひゃっ……!」 息を吸おうとする口に、口付けをし、舌をねじ込む。 「んんっ!」 水銀燈はめぐの胸を叩くが、その力は弱々しい。めぐの舌は水銀燈の口中をあますところなく蹂躙し、逃げようとする舌にねっとり巻きついた。 「……はぁ、おいしい」 めぐが唇を離すと、二人の間に銀の橋が架かった。水銀燈はぐったりとして、めぐの胸にしなだれる。 「ふふふ。契約してくれるまで放してあーげない」 白い手が水銀燈の身体を這い回り、ドールの中では豊満に分類する乳房に行き着く。 「いやぁ……」 「あら、こんなに大きいのにノーブラなんて、いやらしい」 先端の突起をいじわるくつねると、水銀燈の身体ははねた。 「ああっ!」 「ふふ。気持ちいい?」 「だれがぁ……」 「そう」 左手がすじをなで上げる。 「ひゃあ!」 さらに充血した豆の皮をむき、押しつぶす。 「あああっ!」 水銀燈の身体が仰け反り。びくびくと震えた。 「あらら。イッちゃった」 上気した頬を撫でる。もう薔薇の指輪を見つけ出すのは造作もないことだが、めぐはもっと水銀燈の乱れを見ていたかった。 「さあ、ぬぎぬぎしましょうね」 淫水でべっとりのドレスを脱がされ、水銀燈はその白い肌をさらした。割れ目は開閉をくりかえし、乳首はその存在を主張している。 「もうやめて……」 「あら。ここはそう言ってないみたいだけど?」 股を開かせ、だらしなく涎を垂らす舌の口を舐める。それだけで水銀燈の懇願は喘ぎに変わった。 「あなたのジュース、おいしい。もっと頂戴」 じゅるじゅると音を立て、貪欲に愛液を貪る。水銀燈になす術はなく、ただ歓喜の声を上げるだけだった。 「ひあっ!? あはぁ……」 「気持ちいい?」 「いいわぁ……ふわあ。もう、だめぇ……!」 「いいよ。イッちゃって」 めぐはおもいきりクリトリスを吸い上げた。 「あひゃぁぁあああっ!!」 ぶしゅっと音がして、粘着質の液体がめぐに降りかかる。水銀燈は意識を手放し、まさに人形のようにだらりと身体を揺らせた。 「かわいいかわいいわたしの天使さん。いままでずっと待ってたんだから」 めぐは脱ぎ捨てられたドレスから指輪を取り出し、 「逃がさないよ」 それにキスをした。 「ジュンくん、どこに行ってたんだい? ダメじゃないか。ミーディアムだって狙われることはあるんだ。無用心に出歩いちゃいけないよ」 蒼星石が頬を膨らませて帰宅したジュンを咎める。 「ああ……ごめん」 結局、どんなに逃げようと家が同じなのだから、やはり会ってしまうのだ。 「まったく。……ああ、そうだ。ジュンくんの部屋を掃除していたら、こんな本を見つけたんだ」 小さな女の子の手には、ジュンが厳選したエロ本が握られていた。 「本棚にしまうわけにもいかないし、捨てるにしてものりさんに見つかってしまうから、処理に困って」 言い終わるより早く、ジュンはその本を取り上げた。 「勝手に掃除するなよ!」 「ごめん。まさかこんなものがあるとは思わなかったんだ」 ジュンは息巻いて、その裸身が惜しげもなく記載されている本を服の中に隠す。 「……やっぱり、胸が大きい方がいいの?」 「何の話だよ」 「いいんだ、べつに」 ジュンは怪訝に思ったが、思考する部分を新しい隠し場所の考案に費やしていたため、それ以上は考えなかった。 あらゆる行動にミスはつきものだ。巴はそれをよく理解している。 桜田ジュンの落第、梅岡の配慮、そして自分の不手際。 あの時桜田ジュンとなんらかのコンタクトを取っていたら? あの時自分が雛苺の螺子を巻かなければ? 折り重なったミスは桜田ジュンを歪ませ、その悪意が雛苺の破壊を狙っている。 (イヤな女ね、私って) 雛苺が危険なことは分かっているのに、結局登校し、授業を受けている。罪悪感はあっても、行動は伴わない。桜田ジュンに対してそうだったように。 (私はただ、善人でいたいだけなんだわ) 心配はしていたの。でも学校に行くことは大切なことなの。 そんな言い訳が巴の中で明滅を繰り返している。 だが、それで相手が救われたことはない。 自由がきく精神の中で、善人を演じ、自己満足。手を差し伸べているのは頭の中だけだ。 (学校で桜田君に一番近かったのは私なのに) 偽善者。自己保身の塊。 あんな小さな女の子すら、守れないのだろうか。 巴は雛苺が羨ましかった。両親や教師の言いなりになっている自分と比べて、彼女は天真爛漫だ。人形は私の方なのかもしれないと、たまに思う。 「柏葉、できたらでいいんだが、桜田に声をかけてやれないか?」 放課後の職員室で、担任の梅岡に巴はそう言われた。 「プリントを渡しに行くときに、ついでに一言言うだけでいいんだ」 巴はそのとき、一つの考えを閃いた。 そうだ。彼ならきっと…… 「はい、あーん」 「…………」 むすっとして水銀燈は頑なに口を閉じ、突きつけられた林檎を受け付けない。 「あーん」 ぐいぐい押し付けられても、やはり食べようとしなかった。 「もう。まだ怒ってるの?」 「当たり前で――」 「隙あり!」 「はぐぁ!?」 声を出すために口を開いた瞬間、林檎がねじ込まれた。めぐは遠慮会釈もなく、そのまま強引に顎を開閉させ、飲み込ませる。 「……うぁあ……」 「おいしかった?」 「いいかげんにしなさい!」 目に涙を溜めて、水銀燈は細い首に手をかける。めぐは微笑んだ。 「いいよ。このまま絞め殺しても。あなたなら」 柿崎めぐに脅しは通用しない。彼女もジュン同様、死への用意ができているからだ。 「あんた、本当に死にたいの?」 「ただ死ぬだけじゃだめなの。特別な死じゃなきゃ、意味がない」 病弱な少女は左手を掲げる。 「この指輪も、そのための一つ」 「ムカつくのよ。あんたみたいな死にたがり屋は」 「天使さんにはわからないよ、こんな私のことなんか」 手の力が弱まっていく。 「いいわ。だったら、脆弱なその身体でずっと生かしてあげる」 めぐの顔が驚愕に歪んだ。 「いやよ、そんなの。殺してよ」 「だめねぇ。言ったでしょぅ? あんたみたいな人間は嫌いよぅ」 黒い天使がいつもの調子に戻っていく。めぐの望む死には水銀燈の意思が必要不可欠なので、簡単に攻守逆転できる。 「じゃあねぇ」 黒翼を羽ばたかせ、水銀燈は夜空へ舞った。背中から追いかけてくるめぐの声を、彼女は振り切った。 死なせはしないんだから。 死ぬことを視野に入れてしまうと、今までの自分がなんともくだらない人間に思える。たかだか中学の入試で落ちたことにヘコんだり、裁縫を公言されてそれを恥じたり……。 くだらない。 「まあ、そう気づけただけでも、いい方なんだろうな」 実際、蒼星石がきてくれなければ、絶望と後悔の連鎖で鬱屈した毎日を送っていたことだろう。 そういう意味では、とても感謝している。 「ジュンくん、お風呂沸いたよ」 蒼星石が部屋に入ってきた。ジュンは伸びをして席を立ち、 「そういえば、お前って着替えたりしないのか?」 「人形だからね。関節の掃除くらいしか必要ないんだ」 「服、作ってやろうか?」 ジュンにはそれが可能なほどの能力があった。引きこもりを始めてから、そんなことは一切しなくなったが、転換のきっかけをくれた蒼星石のためなら、悪くはないとジュンは感じていた。 「悪いよ、そんな……ジュンくんはマスターなんだし……」 「いいんだ。好きでやるんだから。邪魔になったらn のフィールドのどっかにしまっとけばいいわけだし」 男装しているドールはもじもじさせて、やがて返事を出した。 「迷惑じゃ、なければ…………」 「よし、決まりだ」 彼女の後頭部を撫でて(シルクハットを被っているため)、階下へ降りた。 しばらく蒼星石が赤くなっていたことなど、ジュンにはしりようもなかった。 「真紅、生きてるですか……?」 「誇り高きローゼンメイデンが、こんなところで朽ちるわけないでしょ……」 二体のドールが、日向の窓辺で寄り添っている。二人に生気はなく、げっそりしていた。乙女というよりは、むしろ老婆のようだ。 「ああ……猫に怯えていた自分が馬鹿みたいだわ」 「ふふ。上には上がいるですよ……」 隣の部屋には、大いびきをかいて眠っているマツがいた。暴れるだけ暴れて、疲れ果てたら寝る――まさに暴君だ。 「私、思うのよ。ドールより厄介なのは、人間だって」 「真紅、きっとそれは間違ってねえですよ」 どちらも一陣の風で吹き飛びそうな、よろよろで会話をしている。 「今頃みんななにしてるのかしら……」 「蒼星石に会いてえですぅ……」 「几帳面なあの子のことよ……。きっと苦労してるわ」 「ちげえねぇですぅ」 「ジュンくん、似合ってる?」 「ああ。やっぱり僕の見立てどおり、ドレスも似合うな」 「こういうの、着たことないから恥ずかしいよ……なんだかスースーする」 ジュンが最初につくったのは、ドレス仕立てのナイトウェアだった。普段の男装姿のギャップから、とても可憐に見える。 「お前にもこういう一面があるんだな。可愛いぞ」 「僕が、かわいい?」 「そう言ってるだろ」 「僕が、かわいい……」 蒼星石は朱のさした顔ではにかんだ。ジュンはそんな彼女を見て、命が続くまでの間、これを続けようと決心する。 ――お前には、僕の分まで幸せになってほしい。 散在するnのフィールドの一部に、一体のドールと、人型のうさぎがいた。 紫を基調にしたドレスを纏う薔薇水晶と、タキシードに身を包むラプラスの魔である。 「ああ! イイッ! もっと、もっとぶってぇ!」 「……汚らしいうさぎめ……」 「なじって! もっとえげつなくぅううううう!」 時折悪罵を吐いて水晶でラプラスの魔をはたく薔薇水晶と、それに喜びを見出す変態ウサギがそこにいた。 「……見なかったことにしましょ」 偶然それを目撃してしまった水銀燈はそそくさと退散した。ヘンな人に会ったら関わらずにすぐ逃げる。そうすることが最良だと水銀燈は学んでいた。 「ローゼンメイデンにも色々いるのねぇ。でもあんなの相手にしてたら、ローザミスティカよりも大事なものなくしそうだわぁ。やっぱり会ったことのある真紅あたりを狙いましょ」 黒い翼を一層はためかせ、水銀燈は虚空を翔る。彼女が目覚めているかどうかは定かではないが、どちらにしろ、彼女には戻って薔薇水晶と対決する気は毛頭なかった。 「真紅、起きてるかしらぁ?」 「翠星石、私、眠くなってきたわ……まだ昼だと言うのに」 「奇遇ですねぇ。翠星石もおねむしたいですぅ……」 辛苦こと真紅は、まるで燃え尽きて真っ白な灰になったかのように、その場に釘付けになっていた。もはや動く気力はないらしい。 「でも、きっと寝たら起きないような気がするの」 「おじじのように、紅茶買いに行くふりしてトンズラこけばよかったですぅ」 隣に位置する翠星石も同様の状態である。まるで過酷な拷問を耐え抜いたかのようだ。 「そういえば帰ってこないわね」 「まんがきっさってところで寝泊りしてるらしいですぅ」 「もうそこへ逃げ込もうとさえ思えないわ」 「動きたくねえですぅ……」 二人は指一本動かすことさえ億劫になっていた。度重なるストレスで、精神が疲弊しているのだ。 「私、思うのよ。厄介なのは、人間だって……」 「その話は前にも聞いたですぅ」 「そう。もう覚えていないわ」 「そんなことより蒼星石に会いてえですぅ」 「それは前にも聞いたわ」 「そうですかぁ? 覚えてねえですぅ」 二人は話すことさえ疲れを感じるようになったらしく、そのまま眠りについた。 鬼神覚醒まで、あと一時間。 チャイムに呼び出されたジュンが扉を開けると、巴がそこにいた。 「アリスゲームか?」 ジュンは表情を崩さない。対照的に巴はおどおどしていて、なかなか用件を切り出さないでいた。 「言いたいことがあるなら早くしろよ」 「桜田君、お願い。雛苺を守って……」 玄関のタイルの上で、巴は跪いた。ジュンはここで初めて表情を変える。 怪訝、疑惑。 「何のつもりだ。隙を作るつもりか、それとも懐柔か」 「違うの。本当に、守ってほしいの……」 そこでジュンは気づいた。この女は自分ではドールを庇護できないから、自分以上の力量の相手にそれを委ねようとしているのだ。 だが、それは都合がいい。考えてもみろ。ここで快諾して雛苺を預かれば、いつだってローザミスティカを奪取できる。 「そうだな。それもいいかもしれない」 「待って、ジュンくん。そんなことをしたら……」 来訪者が巴だと知って、蒼星石が階段を降りてきた。 「いや、蒼星石、これはだな」 真意を言おうとしたが、巴がいるのでそれはできなかった。 「ともかく、柏葉、雛苺は僕たちが何とかするから、今日はもう帰れ」 「うん……お願いね」 巴が夜の街路に消えるのを確認してから、ジュンは盛大に溜息を吐いた。 「蒼星石、お前って奴は……」 「僕は悪くないからね」 頬を膨らませる蒼星石に愛らしさを感じつつ、ジュンは事の真相を説明した。 すると―― 「ジュンくん、それは卑怯だよ」 あからさまに嫌悪する蒼星石。 「正々堂々勝負するべきだ」 「そんなこと言われてもなあ。雛苺たちはもう戦いに応じないだろ」 蒼星石の望むスタイルでは、相手もそれに同意する必要がある。もう戦意のない雛苺と巴では、それに該当しない。 「むぅ……」 「むくれてもだめだ」 ひらひらのドレスを握っては開き、握っては開き……蒼星石は決断した。 「じゃあ、約束どおりに守ってあげようよ」 「それでいいのか? アリスになれないぞ?」 「今はまだその気になっていないだけだから。時がたてば、雛苺もその気になると思うんだ」 戦闘を行う蒼星石がそう言うのならしかたないと、ジュンは諦めた。 水銀燈の努力は実らず、まともなドールは一体も見つからなかった。 しかたなく教会に戻ると―― 教会は跡形もなく、荒野が広がっていた。 取り壊しがあるとは聞いていたが、まさか一日で終わらせるとは、さすがに水銀燈は予想していない。 いうまでもなく、彼女が眠りにつくためのカバンもなかった。 「お、お、お馬鹿さぁぁあああん!」 それは自分に言っているのか、悪態をついているのかは、本人でさえ分からなかった。 分かっているのは、ホームレスになったということだ。 腹いせにメイメイをしばき倒した後、さめざめと頬を濡らし、いくあてのない水銀燈が向かったのはミーディアムがいる病室だった。めぐは小さな寝息を立てて、眠っている。 「ほかに居場所がないからきたんだからね」 自分自身に言い聞かせるように語りかけ、水銀燈はシーツの中に潜り込んだ。 「ついに見つけたかしら」 黄色を主体にした衣服を着たドール、金糸雀が双眼鏡をしまう。 「真紅に翠星石。ちょっとげっそりしてたけど……好都合かしら」 彼女の人工妖精――ピチカートが明滅を繰り返す。 「え? 『行かないほうがいい』ってどういうことかしら? 『いやな予感がする』? このローゼンメイデン一の策士、金糸雀なら大丈夫かしら〜」 柴崎時計店に匍匐全身で潜入し、あっけなく真紅と翠星石の前に着いた。 「カナが失敗せずにここまでこれるなんて……奇跡かしら」 達成感に胸を震わせ、二人を揺さぶる。 「早く起きるかしら。一緒にみっちゃんのところに来るかしら」 金糸雀の目的はアリスゲームによるローザミスティカ剥奪ではなかった。彼女のミーディアム、草笛みつの願いをかなえるため、姉妹を服従させることを目的としている。 「ううん……? あなたはだれ?」 「わ、忘れたかしら!?」 「おめえのことなんかしらねえですう」 二人は口を揃えて言う。 「私はローゼンメイデン第二ドールの金糸雀かしら!」 金糸雀は泣きそうになりながらも、妹たちに自己紹介したのであった。 「そう。早く逃げなさい。ここは危険よ」 「翠星石たちはもう逃げる気力さえねえです。おめえだけでも逃げおおせるですぅ」 「なにを言ってるかしら?」 金糸雀の疑問に答えるかのように、部屋の襖ががらりと開いた。 鬼神柴崎マツ、推参。 「HAHAHAHA。騒がしいと思ったら増えてるぜこんちくしょう」 げらげら笑って、金糸雀を抱き上げる。いや、「抱く」という生易しいものではない。万力のごとく締めている。 「ぎやぁぁああああかしら〜!」 「フヒヒ。めんこいのう」 「ぎゃぁあああまさちゅねっちゅーー!」 金糸雀の頬から煙が上がっている。それをぼんやり眺めている妹が二人。 「だから言ったですぅ」 「無様ね」 二人はゆっくり目を閉じ、眠ることにした。なにかを気にかけるほど、二人は元気ではなかったのだ。 ――――――――――――――――――――――――― 蒼星石は朝食を作っていた。最初は手伝いだけだったが、忙しそうなのりを見て、蒼星石は家事全般を引き受けることにしたのだ。手伝いをしていたときにやり方は学んでいたので、一人でもスムーズにできる。 (アリスゲームが終わったら、ジュンくんともお別れか……) 前回だってそうだった。もう慣れている。 なのに―― (どうしてこんなに胸が苦しいんだろう) 蒼星石はいままで、ジュンのような人間にあったことはなかった。大抵、自己を確立している大人や老人がマスターとなることが多く、あんな未成熟で、情緒不安定な人間をマスターにしたことは、皆無だ。 泣き、笑い、怒り……色んな一面を見せる彼、いつの間にか自分に尽くしてくれる彼。 とき卵にしずくが降った。 (嫌だよ。お別れなんてしたくないよ……) 今回、アリスゲームを放棄することを考えたのは一度や二度ではない。何度も苦悩して、どちらも成立させることができないか悩んだ。 雛苺のことだってそうだ。たしかに自分はきちんと決着をつけることを信条としているが、それはアリスへの昇華の前では霞む。 ただ、ゲームを進ませたくなかっただけだ。進めば進むだけ、彼との別れが迫るから。 アリスになること――それは自分の存在意義、この世に生まれた理由。それを否定することは、自分の存在を根本から否定することになる。 だが、アリスになって、父親と再会して――その先になにがあるのだろうか。 究極の少女になったとする。お父様との再会を果たしたとする。 自分は、彼を見捨ててまでその栄光を勝ち取ったとして、喜べるのだろうか。 アリスになれば、もうジュンには会えないだろう。俗世間との接触は、究極の少女たるアリスには不適合だ。 アリスゲームを終わらせてしまえば、自分はまた深い眠りにつく。目覚めたころに、彼はきっといない。 (お父様、僕はどうしたら……) 蒼星石はしばらく、もうとっくに済んでいる撹拌を繰り返していた。 たまに思う。蒼星石がこなかったら、自分はどうなっていたのだろうか。 死ぬまで世間と隔絶し、自宅を徘徊していたかもしれない。家族に散々迷惑をかけて、罪悪感を感じているが、どうしようもなくて、苦しんで…… (ははは。ロクな人生じゃないや……) 胸のうちで力なく笑う。この生活がいままでよりどんなにいいものか、ジュンは身にしみた。 (こういう生活をして、幸せの中で死ねるなんて、最高だ) 蒼星石をアリスに押し上げ、自分は彼女の一部となる。それは、とても素晴らしいことのように思えた。 (いまは、できる限りのことをするだけだ) 彼女の衣服をコーディネートして、彼女を喜ばせよう。そうだ、姉ちゃんの服もこっそり作っておこう。恥ずかしいから、死ぬときにでも渡す。なんだかんだで、一番迷惑かけたな。 「ジュンくん、ご飯できたよ」 翠星石が扉から顔を出す。ジュンは彼女の異変に気づいた。 「目が赤いけど、どうかしたのか?」 「え? な、なんでもないよ」 「そうか」 嘘だとわかったが、ジュンはあえて触れないことにした。 「今日はね、和食にしたんだよ」 「ふぅん。まあ、お前の作ったものならなんでもいいよ」 「そ、そう……?」 「嘘言ってどうする」 蒼星石はジュン作のエプロンで顔を隠し、足早にリビングに向かった。その様相に、ジュンは首を傾げる。 余談だが、ジュンたちが食べた玉子焼きはしょっぱかった。 「な、なにするかしら!」 異常発熱した頬を押さえて、金糸雀はマツから距離をとる。 「かわいいから抱きしめただけさ。フヒヒ」 ほの暗いオーラを立ち上らせ、ゆらりゆらりと金糸雀に近づく鬼神。 「ピチカート!」 「ぐぉぉぉ!?」 呼ばれた黄色い光が、マツの前で光り、目くらましをする。 「さ、今のうちに逃げるかしら!」 動けないんだか動かないんだかわからない妹たちを抱えて、金糸雀は屋外へ跳躍する。 屋根を越えたあたりで、商店の垣根が吹き飛んだ。 「逃がさん!」 般若の顔立ちで屋根に飛び移るマツ。もはや初期の病弱設定は風化している。 「しつこいかしら!」 浮遊し、加速する金糸雀。しかし、屋根を跳んで移動するマツの方が早かった。 「ば、化け物かしら!?」 近くの樹木の上に二人を降ろして、へろへろになっているピチカートからヴァイオリンを受け取る。 「第1楽章、攻撃のワルツ!」 放たれた超音波がマツに襲い掛かる。しかし、マツの咆哮がそれを無効化した。 「そんな……!」 だが金糸雀はあきらめない。 「だけど、姉は妹を守るもの。だから、逃げないかしら!」 弦がすべり、新たなる旋律を奏でる。 「妹たちはカナが守るかしら!」 ――第2楽章、追撃のカノン! さらなる音波が向かうが、これもきかない。しかし、それは金糸雀も承知済みだった。 「いまよ、ピチカート!」 側頭部から現れた人口妖精に、マツは気づけなかった。獲物への異常な執着心のため、前方にしか意識が及んでいなかったのだ。 再び閃光がマツを襲う。目くらましにしかならないが、これで十分だった。 瞬間的な衝撃は人間の行動を抑制する。視覚によるものなら、なおさらだ。 飛び移ろうとしたマツが静止し、重力引っ張られ、アスファルトに激突。ぱらぱらと細かな破片が舞う。 「ふう。もうこないでほしいかしら」 次女は妹たちを抱き上げて、マスターのもとへ急いだ。 蒼星石は、nのフィールドを放浪していた。目的は心の樹の成長妨げる雑草の伐採。契約はしてもらったが、いたずらに戦闘をけしかけて彼の命を酷使するわけにはいかない。 扉の一つを潜ると、ひねくれた木にもっさりと雑草が生えていた。鋏を取り出し、ほいさほいさと切り落とす。いい仕事したと蒼星石が額の汗を拭い、別の場所へ旅立った。 「イィィィヤッフゥゥゥゥウウッッ!!」 「め、めぐ!?」 林檎を一緒に食べていた水銀燈は、彼女の変貌に後退る。業を煮やした医者がなにか妙なものを投薬したのだろうか。 「HEY! マイスイートエンジェル! いつまでもこんなクスリくせえとこいないでシャバに出ようぜ!」 「で、でも、あなた身体が……」 「ハッ! そんなもんじゃあたしはもうどうにもと・ま・ら・な・いッ!」 めぐは水銀燈を脇に抱え、病室を飛び出す。道中、あれほど嫌がっていた病院食を略奪。エコノミークラス症候群に苦しんでいた柴崎元治の楽しみを奪った。 「そうだ! 歌だ! ソングだ! 私はそれで世界を獲る! ウヒュウッ!」 「分かったからおろしてぇえええ!」 黒い天使の涙が、風に流れて飛んでいく。野生児よろしく裸足で大地を駆ける少女を見た人々は口を揃えて、『今思えば、彼女の伝説はここから始まったんです』と言うのであった。 感情とは、蓄積するものである。その積み重なりをせき止めていた雑草が排除されたことにより、爆発したのだ。 「あの頃のあなたに戻ってぇぇええええ!」 「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! ……ごほほ、げほほ。あ、水銀燈にちょっとかかっちゃった。ま、ノープロよね。ぐぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」 血みどろの水銀燈はこれからどうなるか心配になったが、将来を予見するのはイヤだったので、眠ることにした。現実逃避の方法は姉妹共通のようだ。 「ジュンくん、ただいま」 「いつも思うけど、他人の草刈なんてして面白いのか?」 「誰かを助けられる力があるなら、それを使わなきゃもったいないよ」 裏目にでていることを彼女は知らない。 「僕のところにも雑草はあるのか?」 「どうだろうね。一回もみたことがないから……」 それを聞いてジュンは胸中でほくそえんだ。これを口実にこっそり作ったあの服を着させよう。 「一回診てくれないか? やっぱりそういう診断は受けといた方がいいと思うんだ」 しかし蒼星石の方が一枚上手だった。 「ジュンくん。後ろのナース服、見えてるよ」 「え。あ、いや、これは……」 あたふたするジュンを見て、蒼星石はくすくす笑う。 「いいよ。着てあげる」 「そ、そうか。あははは……」 「カナ〜! どうしたのこの子たち!?」 金糸雀のミーディアムである草笛みつは、瀕死のローゼンメイデン二体を見て素っ頓狂な声を上げた。 「ぐったりしていたところを助けたの。ろくでもない目に遭ったみたいかしら」 「まあ……。ローゼンメイデンを虐待するなんて、罰当たりな人もいるのね」 「なかなか手強かったかしら」 「カナ、がんばったね」 「お姉さんなんだから当たり前かしら!」 「じゃあ、今日はたっぷり玉子焼きを作ろうかな」 「かしら〜!」 「やっぱりこういうのもなかなか……」 「ジュンくん、鼻の下を伸ばしすぎて別人みたいだよ」 夢の世界にジュンと蒼星石はいた。蒼星石は要望に応え、白いナース服を着ている。 「いやぁ。これだけのために来たみたいな」 「開き直るのもどうかと思うよ」 ジュンの世界には、腐敗物もなければ、廃棄物もなかった。きちんとせいりされた植木や、衣類が並んでいる。 諦念、高揚、美化。 「おお。予算がなくて作れなかった服がいっぱいだ」 「これ全部、僕が着るの……」 多種多彩な衣類。毎日一着と計算しても、数年はかるくかかる。 「こんなに作ったら、僕のサイズでも家に入りきらないだろうね……」 「nのフィールドに突っ込めばいいじゃん」 「nのフィールドは物置じゃないんだけど」 「まあ、細かいことは置いといて。今のうちに楽しもう」 ジュンが手近な服を掴み、引っ張ると、なにかがつられて一緒に出てきた。 「あ?」 「あ」 薄いピンク色のロングヘア。末っ子の雪華綺晶である。ちゃっかりジュンの作製したチャイナ服を着ている。 「お、お前はだれだ!?」 「わたしは、だぁれ……?」 「ジュンくん、多分この子もローゼンメイデンなんだよ……」 「お姉さま」 ぴと、と蒼星石に擦り寄る雪華綺晶。 「とりあえずその服を脱げ」 「いや」 「脱げ」 「いや」 「ぬ〜げ〜!」 「い〜や〜」 脱がそうとするが、力を入れすぎると服が傷むといけないので、ジュンはあまり力をだせない。 「いいじゃない。いっぱいあるんだから」 「お姉さま……」 「これはお前のために作ったんだぞ!?」 「ジュンくん、僕はこんなに着れないよ。アリスゲームだってあるんだし……」 「あ……」 そうだ。蒼星石とはアリスゲームが続いている間しかいられない…… 「アリスゲーム……」 「そう。君ともいずれ戦わなきゃいけない」 「戦いたいの?」 「そうじゃないよ。でも……」 「なら、そうしなければいい」 蒼星石が突然倒れた。 「蒼星石!?」 「あなたも」 ジュンは激しい頭痛に襲われた。雪華綺晶は、そんなジュンを見て告げる。 「大丈夫。これで二人とも幸福に……」 雪華綺晶は二人が気を失ったのを確かめ、うっすら笑った。 ――――――――――――――――――――――――― 雪華綺晶に幻を見せられた二人は、互いの願いがかなった夢を見て、幸せになった。 ありがとう雪華綺晶。がんばれ雪華綺晶。 THE END 皆さんのご声援のおかげで無事本作品を完結させることができました。 こちらも“堂々の最終回”を迎え、感無量です。 それでは。 青二才 ――――――――――――――――――――――――― 期待されたら書くしかないじゃいかーッ! というわけで、始まります。 ――――――――――――――――――――――――― 「蒼星石、おめでとう」 度重なる激闘の末、蒼星石は最後の一体になった。 すなわち、アリスになったのである。 「ありがとう。でも、もうお別れだね……」 「何言ってんだよ。そんなわけないだろ」 ジュンの身体が光りだし、成人男性の体つきになった。 「ローゼンは、僕だよ」 「じゃあずっと一緒にいられるの……?」 「当たり前だろ?」 「ジュンくん!」 泣きついた蒼星石を、ジュンは優しく包み込む。 「愛しているよ、蒼星石」 「ジュンくん、また学年一番だって?」 「まあね。まあ、どうでもいいよ」 蒼星石は一笑した。 「とか言って、嬉しいくせに」 「蒼星石がご褒美くれれば、嬉しいだけどなぁ」 私立中学の制服をかける蒼星石の手が止まった。 「ご褒美?」 「別にいいけどさ」 ジュンの唇と、蒼星石の唇が重なった。 「おめでとう。ジュンくん」 「……ありがとう」 「イヤな現実があるのなら、願望が成就する幻想に逃げればいい」 雪華綺晶は二人を並べる。意味はないが、離してしまうのは可哀想に思えたのだ。 「大丈夫。幻想は二人を引き裂かない」 その時、二人の指輪が光りだした。 「現実の二人が、幻想を拒絶している……?」 「どうしたんだい? 蒼星石」 「もう、いいんだ」 「なんのことだい?」 ローゼンは怪訝な顔をし、蒼星石が虚無的な笑みを浮かべる。 「夢を見る時間は終わったんだ。やっと気づいた。夢は目標なんだ。それを目指すことも、諦めることも、僕には選択する自由がある」 「なにを――」 庭師の鋏が、ローゼンを貫いた。 「お父様、この親不孝な娘をお許しください。蒼星石は、アリスを目指すことを放棄します」 「どうしたの? ジュンくん」 腕の中の蒼星石が首を傾げる。ジュンは悲しそうな顔をして、 「ずっと、こんな自分が嫌だったんだ。不器用で、意地っ張りで……」 蒼星石の髪を優しく撫でる。 「そんなとき、お前が来てくれた。自分が必要とされて、嬉しかった。こんな僕でも、誰かの役に立てることが嬉しかった」 彼女は何も言わなかった。真剣な目をジュンに向けている。 「でも、縋ってちゃだめなんだよな。ちゃんと、自分に立ち向かわなきゃいけない。蒼星石のように」 左手の指輪が輝き始める。二人のこれまでを刻んだ証。 「蒼星石が呼んでる。……わかった気がする。何かをしたい中で、何をすればいいのか」 「それは、この世界でも叶うよ」 夢の蒼星石の言葉に、ジュンは首を振った。 「現実じゃなきゃだめなんだ。どんなに苦しくてもがんばって、掴んだ結果だから嬉しいんだ」 「辛いよ?」 「大丈夫。蒼星石が一緒なら、どんなことでも立ち向かえる。アリスゲームにだって、ローゼンにだって。だから――」 指輪の光がすべてを包み込む。 「どうして……?」 雪華綺晶は理解できなかった。理想的な幻想を否定し、悲観的な現実を選択するなど、狂気の沙汰でしかない。なのに、どうして…… 「逃げてもしかたないからな」 「自分の生き方くらい、自分で決めるよ」 「おかしいよ、そんなの……」 その場にへたりこむ雪華綺晶。ジュンの世界は変貌を始め、ところ構わず草木が芽生えた。 希望の萌芽。 「君にはわからないかもしれない。これは、僕たちの答えだから」 「まあ、そういうことだ。お前のおかげで、色々気づけたよ」 「知らない! 知らない! 知らない!」 飛び立とうとする雪華綺晶を、ジュンがすんでのところで捕まえる。 「服返せこの野郎!」 「離してよ!」 「ジュンくん! そろそろ帰らないと!」 蒼星石がジュンを引っ張り、ジュンが雪華綺晶を引っ張って、夢の世界から去った。 ジュンの部屋に戻ると、雪華綺晶が姿はない。 「あいつどこいったんだ?」 「ジュンくんが乱暴するから……」 「なっ、僕は」 ジュンが反論しようとしたとき、棚のくんくん人形がぽとりと落ちた。そのまま動き出し、ジュンたちのいるベッドに登ろうとする。 「ま、まさか……」 「ロ、ローゼンメイデン第七ドール、雪華綺晶……」 「その格好で言われても……」 雪華綺晶は実体を持たないドールだ。それゆえ、現実世界で活動するためには媒介が必要になる。 「困った妹だ」 「くんくんが妹ってのは、なかなかシュールだな」 「やあ、くんくんだよ」 『…………』 空気が冷めた。 「わあ! くんくんなの〜」 「やあ、くんくんだよ」 「…………」 「黙られると、困る……」 しゅんとするくんくんこと雪華綺晶。雛苺はどう反応すればいいのかわからず、とりあえず慌てる。 ジュンたちは巴の家を訪れていた。もともと雛苺を守護する約束はあったし、これからのことも話したかったのだ。 「桜田君、今日はどうしたの?」 「復学しようと思う」 巴が茶を運ぶ手を止めた。 「そう。よかった……」 「柏葉?」 涙ぐむ巴にジュンは怪訝を示す。 「ごめんね、桜田君。ごめんね……」 「どうしてお前が謝るんだ?」 「ううん、気にしないで。言いたかっただけ」 涙を拭って、「よかった」と巴は笑う。 「それから、これは蒼星石のことなんだけど……」 今度は巴が怪訝な顔した。 「アリスゲームを、降りることにした」 巴が反射的に蒼星石を見る。蒼星石は頷いた。 「うん。僕たちはもうアリスになるために競うことはないよ」 「どうして? だってあんなに……」 着物の蒼星石は微笑み、 「もう、アリスより尊いものを手に入れたから」 巴はこのとき、「この子は私より大人だ」という直感が脳裏を過ぎった。 「ジュン君、もう帰ろう」 「ああ」 ジュンが蒼星石をだっこし、暇を告げる。 「あの、桜田君……」 玄関にきたところで巴は口を開くが、言葉が続かない。 「守るから」 代わりにジュンが続けた。 「え?」 「お前も雛苺も、僕たちが責任を持って守る。約束だからな」 蒼星石は何も言わず笑っていた。彼は初めて会ったときより、たのもしくなっている。僕が言わなくても、ちゃんと分かっているんだ。 夜道を少し歩いたところで、くんくんが追いかけてきた。 「お前も来るか?」 くんくんは頷く。 「よし、一緒にこい」 ジュンの肩にくんくんは飛び乗る。奇妙な組み合わせの三人は、これまた奇妙な体勢で帰路についた。 (あ〜あ。ついに言えなかったな) 小さいころから胸に秘めていた、淡い恋心。引越しするとき勇気が出せず、そのままだったもの。今度こそ言おうと思ったが、もう彼には相応しい人がいたのだ。 彼を立ち直らせ、支えとなっているのは彼女。自分にできなかったことをやってのけたのは彼女…… 勝ち目など、どこにもないのだ。 「どうして、あなたみたいに動けないのかしらね」 巴は膝の上でイチゴ大福を頬張っている雛苺を撫でた。 「うゆ?」 「きっと、性分なのよ」 「トモエ、さっきからなにいってるの?」 「あなたが羨ましいってこと」 「ヒナはトモエが羨ましいの!」 「ふふふ。ありがとう」 汚れた口を拭ってやってから、巴は自分が笑っていることに気づいた。 (こんな風に自分を表現できたら、彼を救ってあげられたかな) そのとき巴は気づき、自嘲気味に笑った。 ――やっぱり私は、後悔しかできないのね。 「ジュンくん、起きてる?」 早速復学するために勉強をしていたジュンのもとに、蒼星石がやってきた。顔だけを扉からひょっこり出している。 「ああ。どうしたんだ? もう寝てると思ってたけど」 ジュンはカバンの中を調べることはない。だれかに部屋を覗かれたくはないだろうし、眠りを妨げることに関して、蒼星石は一角の嫌悪を示していたのだ。 「ちょっと、話がしたかったんだ」 蒼星石が部屋に入ってきて、その全貌が明らかになる。 先ほどまで着ていた和服ではなく、シルクハットに袖口の長い白いブラウス、青い肩掛けとニッカーボッカー風の半ズボン。最初に会ったときと同じ服装だ。 「僕はアリスゲームを放棄した。もうアリスを目指すことはない。だから――」 「その先は僕に言わせてくれ」 ジュンは蒼星石を制した。もう噴火寸前だった彼女の赤い顔が、さらに赤くなる。 「結婚しよう」 蒼星石は愛する人の胸に飛び込んだ。 衣擦れの音だけが部屋の中を占める。一枚脱がされる度に、蒼星石は子犬のように震えた。 「ひ、一人で脱げるから……」 「いやだね」 ジュンはぺろりとその白いうなじを舐める。 「ひゃっ」 キャミソールを取り去ると、なだらかな双丘が目に入る。 「あんまり見ないで……その、小さいから……」 「安心しろ。これから大きくしてやる」 ぐにぐにと感触を楽しみ、その桃色を口に入れ、嬲る。蒼星石は喘ぎ、乱れた。 最初は母乳を求める赤子のように。しだいに強く、吸っていく。 「ふわっ!? やぁ……!」 がら空きになっている股間に、ジュンの手が這う。蒼星石は一段と強く嬌声を上げる。 「はぁぁあんっ!?」 すでに下着は湿っており、もはや意味を成していなかった。それを抜き取られ、さらされる一本の筋。 「もう、いれても大丈夫そうだな」 ジュンは半身を取り出し、クレバスに突き刺そうとした。 「ま、待って」 それを蒼星石がとめる。ジュンは不安を心に宿した。やっぱり、まだ整理がついていないのか。 「僕にやらせて……」 ジュンと状態を逆転させ、彼女は恋人に馬乗りになる。 「これが、ジュンくんの……」 蒼星石が触れると、びくんと反応をしめすジュンの一部。その大きさと硬さ、そして熱さに蒼星石は心奪われる。 「これが、僕の中に……」 狙いを定めて、ゆっくり腰を下ろしていく。ジュンは手を出さず、その光景を見守っている。蒼星石になんらかの損傷が見られた場合、すぐに止めさせる気なのだ。 「んん……熱い……」 飲み込まれていく肉棒。ジュンのものが半分ちかく入ったところで、なにかに引っかかった。 純潔の証、乙女が純潔たる所以、そして彼女の操。 ここでさらに突き進めば、それを消失する。 「蒼星石?」 心配そうな顔をするジュン。しかし対照的に蒼星石は笑っていた。 「浮気したら、許さないから」 涙まじりの笑顔で、彼女は自身を貫く。 駆け抜ける激痛と、滴る血液。 しかし蒼星石は止まらず、奥まで進める。 壁に突き当たったとき、ジュンのすべては彼女の胎内に納まっていた。 「あはっ、ちゃんと入ったね」 「大丈夫なのか?」 「すっごく痛いよ。でもね、それ以上に嬉しいんだ。ジュンくんが受け入れてくれて、そのジュンくんを僕が受け入れることができて……うん、しあわせ」 蒼星石の腰が上下に動き、ジュンを締め上げる。 「うあ……」 「ふふふ。気持ちいい?」 振幅は広がり、水音を立て始める。 「ねえ、ジュンくん。ジュンくんの子ども欲しいな、僕。できるかな?」 「……できるさ。いままでだって、できないと思っていたことをできるようにしたじゃないか」 「そうだね。それじゃあがんばって、お父さん」 さらに激しく動く蒼星石によって、ジュンは限界に上り詰めようとしていた。 しかしジュンもこのままやられるわけではなかった。 蒼星石の赤い真珠を刺激する。それだけで、彼女は震えた。 「あぁぁ……ひどいよジュンくん。不意打ちなんて……」 ジュンは手を緩めるどころか、さらに胸の突端もせめる。男の尊厳がかかっているだけに、彼も必死である。 「蒼星石、もう……」 「出して! 僕の中に! ジュンくんのを……!」 ぶるりと震えて、蒼星石はジュンの胸に倒れた。イッたようだ。それに遅れて、ジュンも欲望を吐き出す。 どくっ、どくどくどく…… 「ふぅ。なんとか間に合った」 肩で息をする蒼星石を引き抜くと、どろりと粘液がこぼれおちていく。蒼星石の破瓜の血がまざり、ピンクのそれはシーツにしみをつくる。 「あ〜あ。先にイッちゃった」 「不満か?」 「だって、僕がジュンくんを満足させたかったんだもん」 頬を膨らませた彼女を、ジュンは優しく抱きしめるのであった。 僕のところに来てくれてよかった。 ――ありがとう、蒼星石。 「僕さ、自分が早く死ねばいいと思ってた。それくらい、自分が嫌だった」 行為のあと、まだきれいな部分で二人は横になっていた。 「お前と契約したのだって、自分が何もしなくても勝手に死ねるからってのが理由のひとつだった」 蒼星石は何も言わず、ただ話しに耳を傾ける。 「でも、もうそんな風に思わない。僕はお前と釣り合えるように、がんばるよ」 「そっか。僕もね、自分が嫌いだった。姉妹の中でも劣ってて、なにもないと思っていた。だからアリスを目指した。それしか僕にはなかったから」 今度はジュンが聞く番だった。 「だけど、ジュン君出会えて変われた。自分自身ときちんと向き合って、そこから道を見出した。君と一緒に僕はここで生きていく。ずっとね」 ジュンの手に蒼星石の手が重なる。 「僕は蒼星石。ローゼンメイデン第四ドール。君の人形であり、夫をこよなく愛する妻」 「結婚指輪はいらないな」 絡められた手には、二つの薔薇の指輪。蒼星石は微笑する。 「うん、そうだね」 誓いの口付けを交わす。指輪ではなく、愛する人の口元に―― Nのフィールドの深淵、『あらゆる事象を克明に記録する世界』の中で、ローゼンは驚いていた。 あの蒼星石がアリスゲームを放棄し、人間とつがいになるとは。 たしかに、蒼星石はもっともアリスに遠い存在であった。だからこそ蒼星石が今までアリスを求め続けたとも言える。 そこでローゼンは考えた。愛は生命を育み、昇華させる。だから自分の作り出した人形に愛を注ぎ込んだ。その集大成がアリスなのだと思っている。つまり、愛し愛される連鎖の形成こそが、アリス確立の道なのでは? そういう意味では、蒼星石が現在もっともアリスに近い。しかし、彼女は自分よりあの少年を選んだ。 (どちらにしろ、私はアリスを手にいれることはできない、か) ローゼンは自嘲する。なんたる皮肉であろう。求める者には届かず、求めぬ者には望まずして届くとは。 (その上、こんなことにあの仕掛けを使われるとは。あの二人にとっては僥倖に近いが……) ローゼンは娘をとられた父親の心境を味わいつつ、nのフィールドの片隅で泣いた。彼とて人の子。やはり、手塩にかけた娘が他人の男に渡るのは断腸の思いであった。 (浮気したらお父さんが成敗してあげるからね、蒼星石) 狂気の笑い声を上げるが、次第に嗚咽がのどから出てきて、やっぱり泣いた。 「金糸雀、紅茶を入れたわ。一緒に飲みましょう」 「スコーンもできたですぅ」 金糸雀と翠星石、そして真紅は、円卓を囲んでいた。紅茶の時間のようだ。あれからしばらく経ち、心に深い傷を負った二人は、みつと金糸雀の献身的な介護によって、昔ほどではなくても、日常生活に支障がない程度まで回復していた。 「二人ともおいしいかしら〜」 「当然よ」 「当然ですぅ」 胸を張る二人。あの頃の姿がまるで嘘のようだと、金糸雀は思った。 「それにしても。あなたは運がいいわ。人間にはハズレしかないと思ってたけど、こんなすばらしい人間がいたなんて……」 「あそこまでハズレの人間はそうそういないと思うけど……」 人生の終焉を見たような遠い目をする二人。 「そうだわ。私たちがこうなってるってことは、ほかの姉妹たちも危ないわ」 「そういえばそうですぅ」 真紅は鏡台を操作し、姉妹とコンタクトを取る。もはやアリスゲームどころではない。ヘタしたら、姉妹の大半が再起不能になってしまう。 最初に返事が返ってきたのは、水銀燈だった。 「なぁに?」 サングラスをかけた水銀燈が首だけ出して真紅たちを見る。 「水銀燈。あなた、大丈夫なの?」 「言いたいことはそれだけぇ?」 迷惑顔の水銀燈に真紅は動じず、さらに話を続ける。 「もし危険な状態なら、はやく逃げるのよ。私たちが――」 「ああもう! あなたのおかげで今ピンチなのよ! あなたが呼び出すからなんだと思えば私の心配? ふざけるんじゃないわよ! 今レコーディングの真っ最中なんだから!」 鏡の奥から、『銀ちゃん、はやくスタンバイして』とか聞こえる。 「どういうこと?」 「説明する時間がもったいないわ! テレビつけなさい! ケツカッチンなのよ!」 怒鳴り散らされる真紅の後ろで二人が、「『けつかっちん』ってなんです?」「『ぎょーかいようご』ってやつよ」と会話している。 「じゃあね! オフはこっちから出向くから、それでいいでしょ!?」 答えを聞かずに、水銀燈は鏡の世界から離脱した。ぽかんとしていた真紅は言われたとおり、とりあえずテレビをつける。 いくつかチャンネルをまわすと、なるほど、水銀燈が映っていた。綺麗な女性と一緒に歌っているその姿は、まさに妖精。 「すごいかしら……」 「翠星石たちが苦しんでる間、水銀燈は栄光の階段駆け上がってたですか……」 真紅は膝をつき、絶句する。私がいなければ歩けもしなかったあの子が、今はもう遠い存在になっていたとは…… 『はい、今月の一位のお二人でした〜。二人は世界進出を目指しているようです。がんばってほしいですね。さて続きましては』 真紅がテレビをぶつりと消して、二人へ振り向いた。 「まだよ。まだ蒼星石がいるわ!」 「まるで不幸せであってほしいかのような物言いですぅ……」 「自分と翠星石だけ不幸なのが癪なのよ」 紅茶とスコーンを楽しむ二人を尻目に、真紅は血走った目で蒼星石を探す。そうよ。生真面目なあの子が苦労していないはずはない。水銀燈は上手く立ち回ったようだが、不器用な蒼星石はそうはいくまい。 しばらくすると、蒼星石へようやく繋がった。今度は逃がさないように、真紅のほうから進入する。 そこは物置のようだった。ほこりっぽい上に暗く、真紅は不安になった。怖いので嫌がる翠星石をむりやり連れ立たせる。 「嫌です! まだお茶を楽しむですぅ!」 「つ、つべこべ言うんじゃないの! 双子の姉でしょ!?」 出口わからぬままぐだぐだやっていると、扉が開かれた。 「あ、真紅に翠星石じゃないか。どうしたの?」 蒼星石だった。 「そ、蒼星石! 探してたのよ? 大丈夫? 人間に酷い扱いを受けなかった? なにかされたわよね? ね、そうでしょ? そうよね? そうだと言ってちょうだい!」 「う〜ん。残念だけど真紅、そんなことはないよ」 蒼星石がパネルを押して、電灯をつける。真紅は、蒼星石が何かを抱えているのに気づいた。 「蒼星石、それはなに?」 「ああ、この子? 最近産まれたばっかりなんだ」 彼女の淡い青のワンピースを握って眠っている赤ん坊を見せる。 「ふふふ。これで六人目」 『ろ、ろくにんめ……?』 二人の疑問に答えるかのように、どたどたと物置に人が流れ込んだ。 「母様だれかきてるの?」 「だれこのひと?」 「幸薄そう」 「しっ、聞こえるよ」 「もう手遅れ」 オッドアイを宿した少女たち。蒼星石は彼女たちへ口を尖らせた。 「こら。ちゃんとおばさんたちに挨拶しなさい」 『おばさんこんにちは〜!』 「お、おば……!?」 「まあ、そうなるですぅ」 真紅は白い灰と化し、翠星石は何かを悟った顔つきで明後日の方向を見る。 「みんな〜くんくんが始まるよ〜」 『わーい!』 雪華綺晶の呼ぶ声に、子どもたちは一斉に反応し、ばたばたと去っていった。 「それで、何か用があるの?」 「なんでもないです。気にするなです」 動かない真紅を引きずって、翠星石は鏡に入っていく。 「蒼星石は、幸せですか?」 帰る直前、翠星石は問う。 「うん、とってもね」 笑顔で答える妹を見て、双子の姉はそれ以上尋ねようとはしなかった。 「チビたちが騒いでたけど、だれか来てたのか?」 「うん、僕の姉妹だよ」 ジュンの部屋で、蒼星石とジュンはお茶を楽しんでいた。そこへふらふらになったくんくんが入ってくる。 「元気がありすぎよ。あの子たち……」 べたっと床に倒れるくんくんを、ジュンは抱き上げる。 「悪いな。子守り頼んで」 「でも、楽しいから……いい……」 ジュンは蒼星石から雪華綺晶の分の紅茶を受け取る。彼女の手には、人形の特徴的な間接が見受けられなかった。あの夜から一夜明けると、彼女は人間に近づいていたのだ。 ローゼンは人形を作る過程で、それを人間にできないか考えた。しかしいたずらに人間にしても、大成しない。そこでローゼンは誤作動が起きないような場所にスイッチを設けた。それが人間で言う処女膜であった。 それがジュンと蒼星石によって破られ、発動。サイズこそ違うものの、蒼星石は人間と大差ない身体を手に入れたのだ。 「さて、もう少しがんばるか。柏葉にもらったプリント、片付けなきゃな」 くんくんを座らせ、机に向かうジュン。その姿を蒼星石は微笑んで見つめる。 「ねえ、あなた」 ジュンを呼ぶそれは、まだぎこちない。 「な、なんだ?」 反応する方も慣れていないようだ。 「螺子を巻いてくれてありがとう」 「どうしたんだ? いきなり」 「なんとなく」 「なんとなく、ね」 下が騒がしくなってきた。『くんくん探偵』が終わったのだろう。 「……雛苺が遊びにくるまで遊んでやるか」 このままでは集中できず、どちらにしろ勉強はできない。 「がんばって、お父さん」 「がんばるよ、お母さん」 くんくんを肩に乗せ、桜田ジュンは階下へ降りた。 ――――――――――――――――――――――――― ひょんなことから始まったこの作品も、“本当に”終わりを迎えました。 エチーを書いた経験が乏しく、取材と表して保管庫を覗いて息子がえらいことになったりと、 色んなことがありましたが、皆さんに喜んでいただき、嬉しい限りです。 余裕やリクエストがあれば、番外編や別のifも書こうかと思っています。 もっとも、しばらくは燃え尽きているでしょうけど。 ぐだぐだやってると長くなりそうなので、今回はこれで失礼させていただきます。 あ、ちなみに蒼い子はもちろんのこと、ばらしーも好きです、はい。 それでは。 青二才