お父さま。
お父さまが思い込ませようとなさるとおりに、それがたやすいことで
ありさえすれば、わたしはいつでも浮き浮きご機嫌でいますのに……
「いいよ薔薇水晶…もっと僕の上で揺れて」
「はいお父さま……あっ、あっ」
わたしにはかわいい穴があって、お父さまには簡単に操作できますわ
わたしはお父さまのお人形、犯されるために出頭いたします
「っあ!ああっ、あっ、あっ、あっ、あうぅ…おとうさま…ぁ…」
「ああ薔薇水晶、僕の人形。そんな声を出して、気持ちいいんだね。
もっともっと乱れていいんだよ。もっともっと激しくしてあげよう」
わたしにはどうしたものかわかりませんの
でも でも わたしをいじめてくださいな おとうさまが欲しがるうちは
「あーっ!んあっ!きぁうっ!お、とうさま、ああっ!」
お父さま、わたしはだれなのでございましょう
わたしにはどうしたものかわかりませんの
でも でも あなたがわたしを欲しがるうちは
「きゃうっ!ああうっ!あーっ!ああーっ!あーーーっ!」
「ああっ、出すよ薔薇水晶、君の中に!」
「あっ、ああっ!あっ……あ……はぁ…はぁ…」
そしてあなたから渡ってくるのは熱くて白いぎらぎら
わたしの中も外も染め上げてしまいましたわ
ええでも構いませんの
わたしはお父さまのお人形ですもの
わたしをかわいかわいしてくれているのですもの
「ああ薔薇水晶、僕の人形。僕だけの人形。ずっと僕の人形でいてくれるね。
ずっとずっと」
でも でも わたしにはどうしたものかわかりませんの
お父さまの目には粉々硝子 あなたから渡ってくるのは熱くて白いぎらぎら
ええ ええ わたしは皆々様のおっしゃるとおり すてきで陽気な夜の代物
「はいお父さま、わたしはお父さまとご一緒できるなら、いついつまでも」
お父さま。
お父さま、わたしはだれなのでございましょう。
あなたにとって何かを詰め込む時の隙間のひとつだったのでしょうか。
お父さま、なぜわたしを置いてゆかれたのですか。
わたしのことをおきらいでしたか。
なぜわたしをおつくりになられたのですか。
お父さま。
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自分を作り上げた人形師は、常に完璧を求めていた。
不完全な人形はジャンクにされ、完璧な人形だけが愛された。
自分は彼が作り上げた最高傑作だった。
少なくとも彼はそう言っていたし、自分もそう信じた。
「いい子だ」と囁きかけられ髪を梳かれ、身を抱かれるのは自分が完璧であるからだ。
自分は愛されている。そう思っていたかった。
だが……
「……おい、ドレスできた。ほら、破れてたとこ繕っといたから。着てろよ」
ベッドの側に腰掛けている少女に声を掛けても、反応はなかった。
あの戦いから二日。半ば強制的に家に連れてきたのだが、ずっとこんな調子だ。
俯いて、一言も話さない。
連れて行こうとした時はそれは大変で、どこにそんな力が残っているのか、泣き喚き暴れそれは
閉口したものだったが、これはこれで調子が悪い。
あまり大人しすぎるものだから、もしや暴れすぎて螺子が切れたのではと心配したほどだ。
「お互いもう戦う理由もないだろ?僕らは別に恨んじゃいない。なんかお前も色々あるんだろ、蒼星石
みたいに。性悪人形も金糸雀のチビも戻ってきたんだ。もう誰も傷ついてほしくない。お前でもだ」
壊れてしまった人形達のうち、翠星石と金糸雀は自身の創造主の手により蘇ることができた。
だが戻ってこない者達もいる。蒼星石と雛苺。彼女達はもう二度と動くことはない。
だから、かつての敵であっても、もう傷つけあってほしくはなかった。
「下にメシできてる。食えるんだろ?……待ってるから」
それだけ言い残し、桜田ジュンは部屋を出た。
階段を下りながら、彼はあの時の事を思い出していた。
アリスゲームと呼ばれる人形達の戦い。それはあの薔薇の屋敷において一応の幕となった。
彼は一人残された少女を家に迎えることを決心し、彼の所有する二体の人形達も一応の意義を
唱えつつもそれを承諾した。
そのうちの一体、真紅という名のドールは、少女との戦いの末勝利し、一度はとどめをさそうとも
したのだが、「もうやめろ」という彼の願いを聞き届け、この戦いを終わらせたのだ。
だが、それが少女―薔薇水晶と呼ばれるドール―にとってよい事であったのかは彼にはわからない。
彼女の作り手であり、父親である人形師。待って、見捨てないでと哀願し縋り付く彼女に対し、
一顧だにせず男は消えた。
彼女は帰る場所を失い、それ故彼が連れ帰った。
自分の行いは間違ってはいないはずだ。放っておいたら何をするかわからない。
そう思うほどその時の彼女は荒れていた。だが今になって、もしかするとあのまま真紅に
とどめをさされていた方がよかったのかもしれない、とも思う。愛する父親に捨て置かれ、
今の彼女はまるで抜け殻のようだ。それは丁度かつて彼と彼の人形達とともに居た二体の
人形を思わせた。生きているのに死んでいるのと同じなら、いっそあの時……そんな思いがよぎる。
(……何考えてるんだ)
そうだ、考えても仕方がない。もう戻ってこないあの二人とは違い、彼女はとにかく生きているのだ。
彼は頭を振って、そのような思考は閉め出すことにした。
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リビングでは彼の姉が夕食を並べていた。
「あ、ジュン君…薔薇水晶ちゃんは…」
姉に尋ねられたが、良い手応えもなにもなかったのだ。彼は首を振る。
「そう……」
のりという名の、この姉にジュンは心から感謝していた。
薔薇水晶を連れ帰ったとき、のりは何も聞かずに彼女を家族に迎えてくれた。自分が学校に行かなくなり、
部屋で無為な毎日を送るようになった時も、のりはずっと自分を支え励まそうとしてくれた。
そんな姉を彼は疎ましく思ったこともあった。邪険に扱い傷つけて、泣かせてしまったこともあった。
だが、本当のところ自分は姉のそんな愛情に甘えていたのだ。彼女がくれる、都合の良い、心地よい状況。
彼はそこに引きこもり、煩わしい外界から目を背けてきた。それに気づかせてくれたのも、また姉だ。
弱い者、不完全な者、いやそんな者こそ、彼女は全て受け入れ愛してしまう。
単に能天気でお人よしなだけかもしれないが。
「わたし達ローゼンメイデンは食べなくても死ぬことはないです。同じドールである以上、
あのへたれ人形も同じはずですが……」
ジュンが所有するドールの内の一体、翠星石が声を出す。ジュンが薔薇水晶を家に迎えると言った時、
最も反発したのは彼女だった。だがジュンには口で言うほど彼女が薔薇水晶を拒絶しているわけではない
ことはわかっていた。彼女は彼女なりに薔薇水晶に同情していることが、その表情や口ぶりから十分に
伺うことができたからだ。
「…それでもちゃんと食べなきゃ出るもんも出ねーですよ……」
心から心配そうに言う。ジュンの説得もあり、今ではもう薔薇水晶を家族の一員と認めてくれているようだ。
「え……? 出るもんって、お姉ちゃんてっきりみんなはおトイレ行かないものだとばっかり……」
のりが間の抜けたことを言い出した。おいおい出るって元気のことだろうが。
姉の毎度の天然ぶりに少し呆れた。
「ど!? 何勘違いこいてやがるですかぁ!」
顔を真赤にして翠星石が暴れだす。いつもの光景。ジュンは少し表情を緩ませた。
「今はまだそっとしておいた方が良いのかもしれないのだわ」
真紅。一度は薔薇水晶にとどめをさそうとした彼女も、薔薇水晶のことを気遣っていた。
『同じドールなんだろ!?』『お前までそんなことしたら一緒じゃないか!』ジュンは真紅にそう言った。
寸での所で踏みとどまってくれた。誰しもつい、忘れてしまうのだ。
断ち切らなければ、憎しみは巡り続ける。ぐるぐる、ぐるぐると。
「そのうち元気になるさ」
ジュンはそう言うと、自分の席についた。こういったことは自分も度々経験があるのだ。
何度も姉を困らせてきた。でも、自分を待つ人が居てくれれば、そのうち戻る。彼女もきっと。
今日は鮭のムニエルだ。
階下が騒がしい。食事のようだ。そういえばお腹がすいたようにも思う。
自分をここに無理矢理連れてきたあの彼は、自分を待っていると言った。
でも今はなんだか食べたくない。
薔薇水晶は欠損した自らの腕を見つめる。金糸雀という、ローゼンメイデン第2ドール。
彼女の攻撃により、自分の腕は千切れとんだ。甘く見た、そう思う。弱々しく臆病で、自分の敵ではないと。
だが、彼女の内にあった強さ。勇気。仲間を救うため自分の前に立ちはだかった。美しい決意。
認めたくない。自分はあんな人形にも劣るのだ。
傷つくことは怖くない。父の愛を受ける中で、身が千切れそうになることも幾度かあった。
その度に父は謝り、一層の愛を込めて傷を直してくれた。謝ることなどないのに。
これは自分が父に愛されている証なのだから……。そう、父に愛されるのなら、自分の身などどうでもいい。
何度だって捨ててやる。そう思ってきた。
(捨ててやる……)
身震いが起きる。空っぽのはずの胸がきしむ。
(お父さま、貴方はなぜ……)
必要のない涙があふれ、不規則に呼吸がはずみ、滞る。
(……捨てるのなら、要らないのなら…なぜわたしをお作りになられたのですか……?)
嗚咽が止まらない。止めようとしても、どうにもならない。
ふ、と何かが視界に止まる。淡い紫色の生地。あの彼が置いていった、自分のドレスだ。
手にとって、顔を埋めて泣きじゃくる。父がくれたものだった。
風呂からあがり自室に戻ると、薔薇水晶はまだ暗い部屋の中ベッドの側にうずくまったままだった。
先程と違うのは、自分が繕ったドレスを着てくれているところだ。
修繕の間貸していたフード付きのジャケットは、綺麗にたたんでカーペットに置いてある。
気に入ってくれているだろうか?少し気になる。だが、あまり余計なことは聞かない方が
いいかもしれない。自分はかつて彼女の敵で、そのドレスを繕ったのはその敵なのだ。
心ならずも仕方なく着ているだけかもしれない。
「……寝た方がいいぞ。お前も真紅達みたいに眠れるんだろ?全然寝てないじゃないか」
声を掛けたが、やはり反応はない。
「腹減ってんなら、姉ちゃんがお前の分の晩メシ残しといてくれてるから、冷蔵庫に…」
……鮭のムニエルとかなんとかが入ってるから、レンジで温めて食え。そう言おうとしたところだった。
「……ありがとう」
「え?」
はじめは誰の声なのかわからなかった。真紅達は薔薇水晶を気遣い、今はのりの部屋で寝ている。
自分も勉強の道具を取ったらリビングに引き返すつもりだったのだ。
その声は目の前にいる人形が発したものだった。
「…ドレス」
「あ……ああ。いや別に…なんてこともないよ」
少し焦りながらも言葉を返す。色々な思考が混じってしまいどうにも心がまとまらない。やっと話してくれた、
もう平気なのか、ドレスを気に入ってくれたのか、メシはやはり自分が温めてやったほうがいいのか……
いつも些細な事で混乱してしまう自分が情けない。
「凄く上手…あなたは職人なのですか」
「いや、違うよ。昔ちょっとやってたんだ。別にうまくもないさ」
自分のこの特技を褒められると、彼は決まってこういう。
謙遜しているわけではなく、彼にとっては呼吸するように、あまりに自然なことだからだ。
ついこの間のことだが、これで大金を稼いでしまったこともある。
「上手です。まるでお父さまみたい……」
お父さま、という単語に彼は少し言葉に詰まる。
彼女から言葉にしている以上、少し突っ込んでしまってもいいのか。
あんな奴のことなんて忘れろ、あいつは最低だ。言ってやりたいことは山ほどある。
「…もう寝ろよ。僕はまだ起きてるから、寝づらかったら姉ちゃんの部屋行っていいからさ……
あ、鞄がなきゃ眠れないのか?」
だが、まだそんな度胸はもてなかった。現実的な話題に逃げてやり過ごす。
だが、本当に気になることでもあった。なぜ気が付かなかったのか。鞄は睡眠を取る上で彼女達にとって
とても重要なものであるはずだ。少なくともローゼンメイデンには。
「わたしは鞄は要らないのです」
「そっか、そりゃ良かった。コーヒー飲むけど、どうだ?」
「わたしコーヒー大好き」
「じゃあ淹れてくるから。待ってろよ」
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「わたしは鞄は要らないのです」
「そっか、そりゃ良かった。コーヒー飲むけど、どうだ?」
本当によかった。通販の品物が入っていた空きダンボール箱ならいくらでもあるが、
まさかそれに寝させるわけにもいかない。
「わたしコーヒー大好き」
「じゃあ淹れてくるから。待ってろよ」
人形がカフェインで眠れなくなるなんてこともないだろう。
ジュンはベッドから掛け布団をはがしてリビングに向かった。
ジュンはリビングのソファーに寝支度を整えながら、濾紙を通る湯の音を聞いていた。
コポコポ。
今まで貝のように押し黙っていたが、ともあれ口を利いてくれた。
これはいい兆候かもしれない。コーヒーを飲みながら、少し話でもしてみよう。
勉強は、まあ明日でもいい。
コポコポ。
「この音好き」
「わっ!」
すぐ後ろから掛けられた声に彼は飛び上がった。
振り向くと、薔薇水晶が背伸びしてコーヒーメーカーに溜まっていく黒い液体を凝視していた。
いつの間に降りてきたのか。
「びっくりしたっ……居るなら居るって言えよな」
「ごめんなさい」
リビングには月の光がさしこんでいた。
コーヒーメーカーに黄色のランプが点る。
「……できたな。座れよ」
ジュンがソファーを指すと、薔薇水晶は素直にその通りにした。
彼はかつて雛苺が使っていたおままごと用の小さなカップにコーヒーを注ぐと、彼女の前に置く。
これはセラミック製で軽いので、片手でも心配ないだろう。落としてしまっても、そのくらいで
割れる心配もない。長く持っていても熱くならないし、都合がいいのだ。
「ほら、要るなら使え」
砂糖とミルクの瓶を、蓋をとって彼女の前に置いた。回して開ける蓋は固く、湿気を寄せづらいが、
片手で、それも人形の小さな手で開けるのはちょっと面倒だ。
「ありがとう」
彼女は砂糖を一杯、ミルクを二杯入れた。どうやら味覚は真っ当であるようだ。
雛苺のように妙な偏食癖でも持っているのではないかと、実は少し案じていた。
雛苺は砂糖もミルクも仏壇に供えるかのように盛るのだ。
ジュンはミルクだけ二杯入れた。常は砂糖も入れるのだが、どうせ眠気を飛ばすのが目的だ。
しかしミルクは入れなければ、ブラックでは腹を下すかもしれない。自分の胃は弱いのだ。
「おいしいです」
熱そうなそぶりも見せずに彼女は飲む。
「そりゃ結構」
ジュンも一口啜る。久しぶりのコーヒーだ。苦いが、香りはいい。
彼はコーヒー党なのだが、最近は紅茶を飲むことが多かった。真紅が紅茶を馬鹿のように飲むので、
紅茶を淹れることが多くなったからだ。翠星石もやはり紅茶の方を好む。
薔薇水晶が紅茶よりコーヒーを好むなら、これからはコーヒーを飲める機会も増えそうだ。
ひとしきり、コーヒーを啜る音だけが響く。
さて。
とりあえず、もう大丈夫かと聞いてみたい。
できるだけなんでもない風にしていたが、実のところ随分心配した。
それとも何も聞かない方がいいのか。ただ受け入れる姿勢を見せるだけのほうがいいのかもしれない。
ポーカー・フェイス(のつもりだがどうにも苦々しい表情が出ている。コーヒーのせいだけとは言い切れない)で
色々と案じていると、薔薇水晶が先に声を出した。
「なぜわたしを連れてきたのですか?」
……まいった。至極もっともな疑問だが、ある意味一番聞きたくない質問だ。彼女の表情は変わらず、
非難する口ぶりでもないが、半ば無理矢理さらってきたのは否定できないし、何のためにそんなことを
したのかも説明できない。あの時はとにかく自分の心の赴くままに行動しただけなのだ。
「……別に。理由なんかないよ。でも、帰るとこないんだろ。うちで一緒に暮らしたほうがいいと思ったんだ」
こんなことしか言えない。無論これで彼女が納得するとも思っていない。
「でも、ここに置いていただくわけにもまいりません」
まあそう言うんだろうな、とは思った。しかし、それならばどこに行くというのか。
nのフィールドにでもこもるのか。部屋にこもっていた自分のように。
「気にすんなって言ったろ、今までのことは…。もういいんだ。全部終わったんだから」
困った。彼女が自分のフィールドにこもろうがそれは彼女の勝手だが、それでは自分の気が済まない。
リビングに差し込む月の光が強くなる。覆っていた雲が晴れたようだ。
ジュンは何か言おうとするが、気の利いた台詞が浮かばない。彼女も無言だ。沈黙が降りる。
ふと気づくと、彼女のカップは既に空だった。
「もう一杯飲むか?」
そう言って彼女のカップを取る。
これ幸い、彼はとりあえずコーヒーにかこつけて今の状況を保留することにした。
「わたしの命は正しくなかったのです」
浮かしかけた腰が止まる。
「なんだって?」
「お父さまのお望みを、わたしは叶えることができませんでした。捨てられても、仕方ないのです。
わたしはそのために作られたのですから……目的がなければ、わたしは生まれませんでした」
ローゼンメイデンを倒し、完璧な少女になる。
それが彼女の父親が彼女に課した使命であり、彼女の存在理由だった。。
千切れた右腕を押さえて、彼女は続ける。
「だから、もういいのです。もう……壊れて、いなくなってしまいたい」
----
「もう……壊れて、いなくなってしまっても」
要らないものは捨てられる。そういうものだ。それが当たり前。
「おい待てよ…何言ってんだ?」
「例えもう一度戦ったとしても、彼女には…真紅には勝てない。
いえ、もう戦えない。その力が、残っていないのです」
そう。今の自分には、戦う力もその気力も既にない。あの屋敷で、力尽きてしまった。
飛ぶことも、水晶の剣を操ることも、もうできない。
今一度彼女に挑んだところで、より無様な結果が待っているだけだ。
「でも、自分を壊すことは簡単です。人が自分で死ぬよりも、ずっと」
偽りの命。誰よりも脆いことを、彼女は知っている。
戦う力も父の愛も、何もかも失った今、生きようなどとは思わない。
「生きることは戦うこと。お父さまはそう仰いました。…敗けた者は、ジャンクになる」
人は日々戦いの中で生きている。原始の本能のもとに生きる獣のように。
生きた人形も、また同じ。……あの兎なら、どのように表現するだろう。
「お父さまはわたしを置いてゆかれました。わたしが生きている理由はもうありません」
鋭い月光が彼女の顔を照らし出す。その瞳は何の感情も写していない。
まるで夜の凪海のように、投げられた石は静かに沈んでいった。
「こんな身なんて……粉々に砕けてしまえばいい」
父の愛に届かなかった、あの粘土人形達のように。
「何なんだよ…」
小さな呟きだった。彼は頭を振り、立ち上がった。
テーブルにセラミックのカップが転がる。
「何なんだよ…お父さまなんてもう関係ないだろ!あんな奴の言うことなんて聞く耳持つな!
生きることは戦うこと?その通りさ。でもどっちがが壊れるまで戦うっていうんなら、
そんなの絶対間違ってる!」
彼は叫んだ。アリスゲームのあとは、必ず誰かがいなくなる。もう何も失いたくない。
だから、わたしはもう戦わない。真紅はそう言った。だが、結局は戦わないために
戦わざるをえなかった。生きることは、戦うこと。だが、それは相手の命を奪うこととは違う。
戦い続けることが、生きることなのだ。
「何が壊れてもいい、だ!お前は逃げてるだけじゃないか!
戦ってなんかない!ただの根性なしだ!」
学校から逃げた、自分と同じだ。
「……だってお父さまが…」
そうだ、自分は父に捨てられた。
生き続ける意味など、戦い続ける理由など、もうどこにも無い。
「お父さまお父さまって、お前はどうしたいんだ!? お前の話をしてるんだ!
お前の事を聞いてるんだ! お前はお前だろ! あんな奴関係ない!」
「……!」
一息にそれだけ叫ぶと、彼は肩を落とした。……やはり長台詞は疲れる。やるもんじゃない。
まったく、なんで自分はすぐに熱くなるんだ。ふぅ、とため息をつき、気を落ち着けた。
再び静寂が満ちる。
「…怒鳴って悪い……飲むだろ? もう一杯」
彼は転がしてしまった彼女のカップを持って立ち上がり、コーヒーのビーカーを取った。
黒い汁を注ぎながら彼女を伺うと、月に照らされた右頬に雨垂れのような雫がこぼれ落ちていた。
「うっ……うう…ひっ…ひくっ…ふっ…」
びっくりして手に少しこぼしてしまう。
「ひっ…ひっ…だって…だってっ…うううっ……」
「お、おい、泣くなよ…」
彼はコーヒーを保留して彼女に駆け寄った。
「悪かったよ、言いすぎた……おい、勘弁してくれよ」
彼女は自分の肩を抱きしめる。寒いのかもしれない。
「ほら、掛けてろ」
彼は持ってきた掛け布団を彼女に巻きつけた。……なんだか、雛人形のようだ。
側のティッシュの箱を引き寄せ何枚も抜き取ると、彼女の顔をごしごしと拭う。
彼女は小さな子供のようにされるがままだ。
「参ったな……おいほら、ぬいぐるみだぞ。ワニだぞ」
彼女は上目遣いに彼を睨目上げる。なお涙があふれ続ける右目と目が合った。
(…見るなよそんな目で…)
なんでこんな事してるんだ。馬鹿丸出しだ…。そう思いながら、彼は彼女の頬を拭い続けた。
……その戯れを、静かに見つめる者がいた。強い月光に照らされた樹上から。
「生きることは戦うこと。偽りには少々重過ぎる……。楽しき戯れの時間は、まだ続いているようです」
それはそう呟くと右手を挙げ、闇夜を裂くように引き下ろした。
空間に現れた三日月状の裂け目に身を沈めていく。
「七番目のお嬢さんが短気を起こす前に、わたしはわたしで
事を終わらせると致しましょう……くくくくく…」
体が完全に飲み込まれると、裂け目は失せ、藍色の夜空が戻った。
しかし、その暗い笑い声だけはいつまでも残っているようだった。
燕尾服を纏い、シルクハットを頭に乗せた、兎の化生。
彼は、ラプラスの魔と呼ばれていた。
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「さっさと起きるですチビ人間!」
「ぶふぉっ!?」
チビ人間こと桜田ジュンは、腹部に受けた強烈な衝撃により目覚めた。
「ようやく暮らしぶりを改めたと思ったらこれです! 翠星石がいねーと起きられもしねえですか。
とことんしょうがねえ野郎ですぅ」
どうやら寝坊してしまったようだ。彼が性悪人形と呼ぶ性悪な人形、もとい翠星石の罵詈が飛ぶ。
腹部への衝撃は、彼女の仕業らしい。起こしてくれるのは有難いが、もう少し
やりようがあるはずだと思う。いや彼女に限ってはないか……。まあ起きられなかった自分が悪いのだが。
……悪いのだろう、と思うのだが。
「真紅も薔薇水晶もとっくに下で待ってるですよ」
翠星石の甲高い怒号で、頭の中のどろどろの意識が少しづつ覚醒する。
「ぁんだって?」
二拍ほど遅れて問い返すが、眠気と先ほどの横隔膜への痛打のせいで、
それはどうにも間抜けな声になってしまう。
それに何故だか首の後ろも痛い。寝違えたのだろうか。そんな痛み方でもないが……。
ムクリと起き上がり、ぐしゃぐしゃに寝癖のついた後頭部を掻きむしる。
「ばらすぃ……? あれ、そういや昨日はどうしたっけ?いてて……」
「たく何寝ぼけてやがるですか。シャッキリ目ん玉開けてくるですよ」
そう言って彼女はようやくベッドから降りた。
「わーった…わーった…」
眼鏡を探り出し、レンズを点検して塵汚れが無いことを確認する。
翠星石はドアから出ようとする際にこちらに振り向き、にやりと笑ってこう言った。
「ち〜とぶきっちょでしたけど…チビ人間うまくやったですぅ」
彼はそれをぼんやり見つめながら考えた。うまくやった? 何が?
痛む首をさすりながらリビングに入る。まぶしい。今何時だろう?時計を見る。もうすぐ七時半だ。
怠惰な暮らしで乱れた生活リズムを正そうと、最近は六時半には起きるよう心掛けていたのだが。
ソファでは真紅が朝の紅茶を啜っている。よく朝から紅茶なんて飲めるな、と彼は思う。
彼にとって、紅茶は朝飲むものではない。
「おはようジュン。やっとお目覚めね。主人より遅くまで寝ているなんて少し弛んでいるのではなくて?
真紅に朝の紅茶を淹れるのは下僕であるあなたの仕事だと何度言ったら…」
「あーおはよう……」
挨拶だけ返し、その先は無視することにした。
「おはようございます……」
「あーおはよう…………ぅ?」
洗面所に向かおうとしたところ、彼の横を薔薇水晶がとことこと通り過ぎて行った。
布巾を持って椅子に乗り、片手でテーブルを拭こうとしている。懸命だが、中心あたりには届いていない。
「気をつけてねぇ、薔薇水晶ちゃん」
台所ではエプロンを掛けた姉が料理を盛り付けている。制服は着ていない。そういえば今日は日曜だった。
だがそんなことはどうでもいい。
「……おい姉ちゃん、なんだあれ」
彼は姉の側に寄り、耳打ちするように尋ねた。
「あらジュン君おはよぅ〜。ジュン君のおかげで、薔薇水晶ちゃんすっかり元気になったのよぅ。
朝ごはんの準備まで手伝ってくれてお姉ちゃん助かるわぁ」
薔薇水晶はクロスを換えたりナプキンを揃えたりてきぱきとテーブルを整えている。
片手での作業に若干戸惑いながらも、慣れない家で随分と手際がいい。
「そうね。貴方にしては、まずまずといったところかしら。ほら、いつまで持たせてるつもり?
重いじゃないの。ぼんやりしてないでさっさと紅茶を淹れてちょうだい」
真紅が紅茶のポットを突き出して立っていた。ジュンは反射的にポットを受け取る。
「へいへい……ってそうじゃない。何だ、さっきから何の話をしてるんだ。
僕が何だ。というか、あれはなんだ」
翠星石といい、彼女達が何を言っているのか今ひとつわからない。
黙々と働く薔薇水晶を指差してジュンは尋ねる……居ない。
「……取り皿は出しておいてもいいのですか」
「うわっ!」
薔薇水晶はいつの間にかジュンの後ろに立っていた。彼は昨夜に続きまたも驚いて飛び上がる。
気配を感じさせずに背後に立つのは、彼女の特技であるようだ。
見ると皿を持って突っ立っている。五皿程だが、カタカタと揺れて危なっかしい。
「あらあらいいのよぅ。それはわたしがやっておくから。片手じゃ大変でしょ?」
「平気です」
平気なのは三枚だけだ、とジュンは思った。既に二皿落ちそうなのだ。
テーブルは彼女の頭よりも高い。片手の人形一人だけでは無理な作業だ。
「ん〜じゃあわたしと一緒にやりましょ。あ、でもお料理どうしよう?」
まだ盛っていない料理を見て姉が思案する。
「わたしがやっておくわ、のり」
じゃあ僕が、とジュンが名乗りをあげる前に真紅が焜炉からフライパンを取り上げた。
彼女もいつのまにかある程度の家事を手伝うようになっていたのだ。
それは感心なのだが、まあお前が一番暇そうだしな、とジュンは思う。勿論口には出さないが。
「そう?じゃあお願いね真紅ちゃん」
「任せてちょうだい。ジュン、貴方は早く紅茶を淹れるのよ」
どうにも話を聞く間が取りづらい。
仕方ないので、彼はとりあえず紅茶と、それからコーヒーを淹れることにした。
「お庭にお水ま〜いたですぅ〜。あっ、チビ人間ちゃんと起きたですね。
まったく翠星石がいねーと駄目駄目で困るですぅ〜」
「あ、おい待て。何だよあれは。いきなりどうなってるんだ」
そのまま洗面所に向かおうとする彼女を呼び止めた。
「です? いきなりはおめーの方です。一体なんのことですぅ?」
「あいつだよ、薔薇水晶のことを聞いてるんだ」
彼は今度こそ薔薇水晶を指差した。翠星石はああ〜…と一拍置くと
「手を洗ってくるですから、それから聞かせてやるです」と言って洗面所に消えた。
「チビ人間の喝が効いたですよ。へたれ人形にはあのくらいがいい薬だったです」
翠星石から聞くところによると、どうやら昨夜のことは一部始終知れているらしい。
「…お前ら聞いてたのか」
いや、見ていたのかもしれない。いつから?というか、どこまで?
「筒抜けですぅ。あんな大声出しやがるもんだからみんな起きちまったですよ。ったくいい迷惑です。
でもチビ人間のアホ面が見ものでしたから終いまで観察させてもらったですぅ」
つまり全部だ。自分が薔薇水晶の涙におろおろしていたところもしっかり見られていたのだ。
「まだ心の中で引きずってはいるけれど、でもきっと大丈夫なのだわ。
あの後のりの部屋で彼女と色々話をしたの」
料理を運びながら真紅が言う。しかしあの後、とはどの後なのか。
そうだ、昨夜の記憶が、途中から全く無い。どうやって自分の部屋に戻ったのかすら思い出せない。
そして、なぜか首が痛い。
「そうですぅ。へたれ人形なりに少なくともチビ人間よりは根性があるです」
「おい、何で僕はその話知らないんだ。昨日お前ら何やってたんだ?」
微妙に見当が付く気もするが、しかし……
「やれやれチビ人間が大泣きさせたもんだからなだめるのに苦労したですぅ。
話がこじれるですからオマエにはちこっとこいつで眠ってもらったわけなんですぅ〜おほほほ」
そう言って愛用の如雨露を見せられた。金属製の頑丈な品だ。その為に作られているわけではないだろうが、
十二分に凶器になり得る。アリスゲームにおいても活躍してきた代物だ。
……やはりか。それで延髄が痛むわけか。よくわかった。
苦味を堪えて摂取したカフェインも、無駄だったというわけだ。
「お前なぁぁ……」
「峰打ちですぅ。この程度でくたばりゃしねーですよ」
「こっ……この性悪人形っ!」
峰打ちも糞もあるか、と彼は怒鳴る。一体どういう神経をしているのだ。
眠らせるにしても彼女の人工精霊を使えばいいのだ。その方がはるかに安全で簡単で確実だ。
どう頑張っても悪意しか感じられない。
「何言ってやがるです! 誰がベッドまで運んでやったと思ってるですか!
そもそもチビ人間が泣かせるのがいけねーんです! 天バチだと思えです!」
お前が失神させたんだろうがと言いたくなったが、泣かせたと言われて言葉に詰まる。
だがそれとこれとは別だろう。やり口が一々汚い。
「まったくレディを泣かせるなんて、紳士として失格だわ。
この真紅の下僕に相応しい行いとは言えなくてよ。どうしてホーリエは貴方なんかを選んだのかしら」
「お前まで何言ってんだ! 僕は……いや泣かせたのは事実だけど、そんなつもりは……!」
うまい言い訳が見つからない。自分が泣かせたのは確かだ。
しかし気絶させられた上汚名ばかり着せられてはたまらない。
どうにか弁解しようと言葉を探していたら……真紅が、微笑んでいた。
「よくやったわね、ジュン……」
「……」
こいつもだ。どいつもこいつも卑怯だ。いつもこちらが何も言えなくなるよう仕向けるのだ。
「ふふふ、みんなお待たせぇ〜」
ぐうの音も出ないでいると、いつの間にか何処かに消えていた姉と薔薇水晶が戻ってきた。
こいつら聞いていたんじゃないのか、と思う。薔薇水晶を見ると、露骨に顔を背けられてしまった。
どいつもこいつも何なんだ。悪気があったわけではないのだ。
なぜ朝からこんなにムカつかなければならないのだ。
「朝食にするのだわ。ジュン、早く顔を洗ってきなさいな」
「チビ人間昨日コーヒー飲んだ後歯も磨いてねーはずです。フケツですぅ」
真紅が運んできた料理を見る。人形達が箸を使えないので、食事は洋食が中心だ。
それに関しては別に不満もない。何という料理なのかわからないが美味そうだ。
まあいい。とにかく食おう。今日は図書館に行かなければならない。