nのフィールドに無数に広がる空間の一つ。
視界を埋め尽くすほどの薔薇に囲まれた世界で、ジュンはただ一人立ち尽くしていた。
風が吹くたびに悲しげに揺れる薔薇達。空へと舞い散っていく花びらは、まるでなにかを暗示しているかのようだ。
花びらを追って空を仰いだジュンだったが、彼方へと消えてしまったのを見て、視線を地上へと戻した。
その時、視界の隅に何かを捉えた。咲き乱れる薔薇の中、その紅い色彩に紛れ、横たわる何かを。
大きな鼓動とともに、ジュンの黒い瞳が大きく見開かれる。
「真紅……?」
震える口でなんとか声をかけると、地に横たわる金髪碧眼の人形はぎこちなく頭を動かした。
右手はコナゴナに潰されていて、左足は根元から引っこ抜かれている。頭部に関しては思わず目を背けたくなるほどに損傷が酷かった。
「真紅……! 真紅っ!」
ジュンは叫びながら駆寄り、半壊した彼女の体を抱え上げた。
その時、一人と一体の視線が合った。片方だけ残った青い瞳は何も映しておらず、呆然とジュンを見上げている。
「……あ……あぅ……ジュ……ジュ……」
意味のない文字の羅列を言葉にしながらも、彼女はジュンが来てくれたことを素直に喜んでいた。
ひび割れて、かなり歪んでしまった顔では、どんな表情をしていても変わりはなかった。
しかし、ジュンには理解できた。
彼女が自分に向かって微笑みかけていることを。
「なに……笑ってんだよ、真紅……」
ジュンはかすれた声で苦笑する。
自然と溢れ出す涙は、止まることはなかった。嗚咽も止まることはなかった。
腕の中で小さく震える真紅をただただ強く抱きしめて、彼女のために何もしてやれなかった自分を許せないがために、きつく下唇をかみ締めた。
そうやってどれくらいの時が流れただろう、心地よい腕の中で一時の安堵に浸った真紅は、やがて緩慢とした動作で左手を伸ばした。球体間接の一つでも動かすことさえ辛いはずなのに、そこまでして何故彼女は手を伸ばすのか。
何かを求めるように振られる手。それに触れようと手を伸ばすジュン。
彼は震える右手で真紅の左手をしっかりと握った。ただの人形に果てるのも時間の問題である彼女に、ジュンはそれしかしてやることができなかった。
「ぁ……」
真紅が嬉しそうに呻く。握り返すほどの握力はもう残っていないらしい。
また目と鼻の奥が熱くなった。あまりに非力で愚かで、大切な人さえ守れない自分が腹立たしくて。
「ジュ……ジュ…ン……」
真紅が自分を呼んでいることに気づいたジュンは彼女の口に耳を寄せた。
恐らくこれが彼女の最後の言葉になるのだろう。
ジュンは全神経を耳に傾け、真紅の言葉を待った。
「――わた……し…は、あ…なたの……幸せな…お人形」
真紅の口調は途切れ途切れだったが、それだけははっきりと聞こえた。
そして、それっきり。
左手が力なく地面に垂れ下がった。
風もないのに、薔薇が一斉に舞い散った。
真紅の最後の言葉が、罵倒ならどれだけ救われていただろう。
すくなくとも、今よりは楽になれていたはずだ。
それがただの自己満足だったとしても、ジュンにとってはその方が良かった。
(………)
もう二度うごくことのない真紅の頬の上に手を置く。
彼女の頬はひどく冷たかった。
「僕とお前は、ちっとも似てないんだ」
綺麗な金髪をそっと撫でる。
淑女たるもの髪の手入れも怠らない。そう何度も聞かされて、毎日彼女の髪を梳かされたものだ。
「僕は弱くて恐がりで、逃げてばかりの臆病者だ」
もう泣くつもりはなかったのに、自然と涙が溢れてくる。
それをジュンは拭おうとはしなかった。
「だから――」
顔を伏せて、身体を震わせる。
「お前がいないとダメなんだ……!」
叫びと嗚咽が混じったそれは、ジュンの心からの叫びだった。
その本心は、もはや真紅に届くことなく中空へと掻き消える。
だが、もう一体の人形には届いていた。
「ジュン……」
名前を呼ばれても、ジュンは振り返らなかった。
背後に立っているのが誰かは、聞き覚えのあるその声から容易に判別がつく。
何故彼女がここにいるのかは、今のジュンに考える余裕はなかったが。
「……僕のせいなんだ」
ジュンは腕で涙を拭い取ると、震えのない声で言った。
「僕が、真紅を壊したんだ。 僕がもっとはやくに気づいていれば、真紅は壊れずにすんだんだ」
「それは違うですよ、ジュン」
「なにが違うって言うんだよっ!!」
ジュンの怒声が響き渡る。その勢いで翠星石に振り返り、正面に立つ。そんなジュンの行動に、翠星石はたどたどしく視線を逸らした。
「僕はアイツのミーディアムなんだ! なのに、なのに僕はアイツに何もしてやれなかったんだ!」
「わたしの――」
ゆっくりと翠星石が視線をあげてジュンを見た。オッドアイの双眸には、押し殺せずにいる感情で溢れ返っている。
「わたしのミーディアムも、ジュンですよ」
ジュンは言葉を詰まらせた。
左手に視線を走らせる。
真紅の存在が大きすぎてすっかり忘れてしまっていた。そこには翠星石と契約を交わした時に大きくなった指輪が鈍く光っていた。
「ジュン、私じゃダメですか……?」
とても真剣で悲しげな表情。
「私は、大事な人を失った悲しみを知ってます……自分の半身を奪われた様に、それはとても辛く哀しいことです」
以前ローザミスティカを失った、正しくは奪われてしまった彼女の片割れのことが、ジュンの脳裏に浮かぶ。
立場は違えども、翠星石と自分は同じなのだ。互いに大切のものを失ってしまったのだ。
「ですけど、ジュン。 忘れちゃいけねぇですよ」
俯いたジュンの顔を小さな両手が包み込む。
彼女は人形のはずなのに、その掌はとても温かく、心地よかった。
「迷子になっても彼方から呼び出す声が届くように、どんなに辛いときや哀しいときでも、手を差し伸べてくれている人は必ずいるもんです」
笑って、翠星石は言葉を続けた。
「のりや、チビ苺が待ってるですよ。 早く帰らないと、チビチビに花丸ハンバーグを全部食われちまうです」
彼女は手を差し伸べて、微笑んだ。
「帰るですよ、ジュン」
ジュンはその手を振り払ったりはしなかった。
腕の中の真紅に目をやる。その表情はどこか、安らかそうだった。
彼女の体を優しく薔薇の群れの上へ降ろすと、もう一度その姿を脳裏に焼き付ける。
「さよなら、真紅……」
そして小さく、別れの言葉を告げた。
翠星石とジュンは並んで、この空間の出口へと歩き出していた。
彼らの背後には薔薇に囲まれた真紅が、瞼を閉じて穏やかな様子で横たわっている。
そんな真紅に、翠星石がほんの一瞬だけ視線を送った。
それはあまりに短い時間だったので、ジュンは気づかなかった。
(コナゴナにしたのは正解でしたね)
翠星石は微かに口元を歪めた。
中途半端に壊すと、自分のことがジュンに喋られてしまう。そんな恐れから、容赦なく破壊したのだが、どうやらそれが功を成したようだ。
(真紅、許してくださいね。 でも、真紅が悪いんですよ)
ジュンには少なからず特別な感情を抱いていたのは事実だ。
そしてそれは蒼星石の死という半身の損失により、異常なほどの依存へと変化した。
(真紅ばっかり、ジュンの気を惹くから……)
ジュンへの狂った感情は、抑えきれないほどの嫉妬を生むことになる。
態度をみなくても、ジュンが真紅のことを好いているのは翠星石には分かっていた。
その証拠に、指輪からはまったくジュンの意識は流れ込んでこなかった。
彼女にはそれが耐えがたく、許せなかった。
だから――
(まさか、真紅も。 私にやられるとは思わなかったもたいですね)
密かに回収した真紅のローザミスティカを手の中で握り締める。
もちろんこれはnのフィールドに捨てるつもりである。
(さて、あとは私とジュンが安心して暮らしていけるよう、アリスゲームを終わらせるだけです)
だが、水銀燈などの相手は自分一人では厳しいだろう。
だからといって真紅のローザミスティカを体に取り込みたくはない。
(仕方がないですね……)
彼女は手っ取り早く、身近からローザミスティカを手に入れる方法を思いついた。
「そういえば、ジュン」
「ん?」
「雛苺はトモエの家に行って、しばらく帰ってこないらしいです」
完