物事の発端は二日前に遡る。
ジュンの提案でピチカートを他のドール達の動きを見張らせることにしたのだ。
nのフィールドとは便利であり、アリスゲームにおいて自由に何処にでも移動できるそれは脅威だ。それゆえ、ドールが他のドールのローザミスティカを狙いに行く場合、便利なnのフィールドを通り道にしていく可能性が高い。
だからピチカートに見張らせていたのだ。
nのフィールドに入るためには必ず通る場所、9秒前の白を。
「さぁ、僕達も行くぞ、nのフィールドへ」
 ジュンは椅子から立ち上がると、大きく伸びをした。
「ふっふふ……ついにカナ達の本領発揮ね!」
 目を輝かせている金糸雀は、強く拳を握り締めた。
「楽してズルしていただきかしら!」

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扉が開かれたと同時に、二つの影が歩み出てきた。
先に雛苺、続いて彼女に手を引かれた巴がよろめきながらでてくる。
彼女達を最初に迎えたのは周囲に広がる非現実的な光景。
そこはまるで、子供の妄想を具現化したかのようなメルヘンチックな世界だった。
「ここが……nのフィールド……」
「ねっ、とってもステキでしょう? ここにはたくさんステキなものがあるのよ!」
 雛苺は嬉々としながら床に置かれた大きなテディベアを抱え上げると、いまだ目を瞬かせている巴に差し出した。
「見て、トモエ! 可愛い熊さん!」
 テディベアの丸く愛らしい瞳が巴の顔を見上げた。
最初は戸惑っていたトモエも、テディベアの横から満面の笑顔で覗き込んでいる雛苺に、やがて口元が綻ぶ。
「うん、可愛い熊さんだね」
「この子、トモエにあげるの!」
「私に?」
 雛苺は小さく頷く。
「雛達、二人きりだけじゃ淋しいもの。 だから、この子が雛達の新しいお友達!」
「新しい、友達……」
 呟いて、巴はテディベアを見つめる。
もともと彼女には友人と呼べるべき者は少なく、彼女自身もあまり他者と関わりを持つことを好まなかった。
それゆえこの少々変わった新しい友達に喜んで良いのか反応に困った。
「トモエも淋しかったんでしょう?」
 突然の問いに、巴の思考は遮られた。
雛苺に目を向けると、彼女は独りでテディベアの腕を上下に動かしている。そんな彼女の顔にはどこか暗い影が落ちていた。

「雛もね、ずっとずっと一人だったからわかるのよ。 一人きりなのは、とても怖くてつらいことだものね」
 一呼吸したあと、再度テディベアをトモエの前に差し出した。
「だけどもう心配しないで。 もしも雛がいなくなっても、この子はずっとトモエのお友達だから淋しがらないで」
 雛苺は首を傾けて笑う。それが無理に作られた笑みなのは容易に見抜くことができる。
巴に彼女の心情は察することはできない。それはとても複雑な事情なのだろうから。
「ありがとう、雛苺」
 テディベアを受け取り、短い感謝の言葉を口にした。
「でも、あなたを一人にはしない。 私も何処にもいかない」
「えっ……?」
 雛苺は目を見開いた。その目には微かな不安が映りこんでいる。
これ以上話し続けるべきか少し躊躇ったが、それでも話を続けてみた。
「だから、そんなに気を張らなくてもいいの。 あなたはもう独りではないのだから」
「……嘘よ」
「嘘じゃないよ」
「Non!!」
 雛苺は声を張り上げ、首を横に振った。
彼女が大声をあげたのは、怒ったからではない。大きな声を出さなければ、顔が悲しみと涙で歪んでしまいそうだったからだ。
もう泣かない。泣いても無駄だから。それは孤独に苛まれた鞄の中で悟ったこと。

「嘘よ! 嘘なのよ! きっとトモエも、最後は私を置いて行ってしまうのでしょう!?」
「いいえ、あなたを一人置いていったりはしないわ」
「嘘よ! 嘘よ! 嘘よ! ぜったいに、嘘に違いないんだからッ! ぜったいに……嘘に……」
 そこまで言って、すぐに下を向いて黙ってしまった雛苺の後頭部を、巴は優しげに見下ろした。
これほど自分の本心を向きだしたのは、久しぶりだったのだろう。雛苺は肩を上下させ、自らのドレスの裾を握り締めている。
そんな彼女の突然の激昂に、巴はそう驚きはしなかった。彼女は俯いている雛苺の頭を軽く撫でてやる。
「私はずっと雛苺の友達だよ。 これからも、ずっと」
 巴の言葉が静かに流れて行った。
お互いに数十秒ほど黙って向かい合っていたが、やがてゆっくりと雛苺が口を開く。
「……本当?」
 巴は微笑んで答える。
「ええ。 私と雛苺……いえ、この子も――」
 小さな風切り音がした。
目の前の雛苺に意識を集中していた巴は、手の中のテディベアに起きた異変に気づくのが遅れてしまった。
視界を覆ったのは、いくつもの白い綿が優雅に舞う光景だった。すでに抱えているテディベアの首にはついてあるはずのものがなく、ただ無残に綿が飛び出している。
現状が理解できず、巴は困惑を隠せずにいた。雛苺に目を向けると、何故か険しい顔つきで自分の肩越しに何か見つめている。それにつられるよう、巴も視線を後方へと向けた。

その先に、見覚えのある少年と、見たこともない少女がいた。
「あ……」
 思わず声を漏らした巴が、二、三歩後退する。
「久しぶりだな、柏葉」
 彼が誰かを巴は知っている。だが、その事実を受け入れるには時間を要した。
「まさか同級生がミーディアムだったなんて……正直驚いたよ」
 陰鬱とした笑み浮かべ、眼鏡越しにこちらを睨みつけてくる。
憎悪に満ちた光を宿したその鋭い目は、彼があの時、最後にクラスメイト達にみせたものと似ていた。
巴は首のないテディベアを強く握り締めながら、恐る恐る彼に尋ねた。

「桜田……くん……?」

彼は、答えなかった。

つづく

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