「お願いかしらー!」
そう金糸雀が週末の桜田家を訪れたのは昼のこと。
その日の昼はよく晴れていて、開いた庭の窓から入る風も涼しく、とてもいい天気だった。
ジュンとノリ、そして真紅と翠星石は食後のお茶を飲みながら、ゆったりとした時間を楽しんでいた。
何度言っても玄関からやってこない、困った訪問者にももう慣れたのか、
椅子から腰をあげることなく、四人は開かれた庭の窓の先へと視線を送る。
「またアンタですか、金糸雀……今日はなんの用なんですぅ?」
また面倒ごとが起こるのだろうと予想している翠星石の表情は、早くも迷惑そうな色を浮かべている。
こほん、と小さく咳払いする金糸雀。
そして右腕を高々と上げた後、真紅に視線を向けてびしっと指を差す。
「今日は真紅にお願いがあってきたのかしらー!」
差し向けられた金糸雀の右指に、真紅は口まで運んでいたティーカップをソーサーの上に置く。
そして今日は私なのね、といわんばかりに溜息を零したのだった。
金糸雀の話はこうだった。
彼女のミーディアムで無類のドールマニアであるみっちゃん。
そのみっちゃんが週末の休日を利用して、
明日開かれるドールイベントに参加するのだという。
自分の作品として写真を展示する予定なのだが、
イベントはかなり大規模なもので、撮影する写真も力を入れたものにしたいらしい。
そこで真紅をモデルに写真を撮りたがっているのだという。
「今日はカナの家に来て、みっちゃんを手伝ってあげて欲しいのかしら!」
一晩、我が家にきて写真の撮影を手伝って欲しい。
ねだる金糸雀に、嫌よとお茶を飲みながら真紅は目もくれなかったのだが……。
放っておけば、金糸雀もしばらくすれば諦めるだろうと真紅は思っていた。
だが、今日の彼女はいつも以上に根気があって手強い。
その理由にはミーディアムであるみっちゃんを思う、金糸雀の気持ちの強さにあった。
彼女は先日の夜、明日のイベントにみっちゃんが持っていくつもりだったドールの衣装を、
ちょっとしたことからがゴミ箱送りにしてしまっていた。
彼女はそのお詫びをしたかったのだった。
「カナー、衣装のことは気にしないでね。それよりも貴方に怪我がなくてよかったわ」
そう言って申し訳なさそうにする自分を慰めてくれる、みっちゃんを金糸雀は思い出す。
大切なドールの衣装を台無しにしてしまった金糸雀を、
みっちゃんは責めるようなことはしなかった。
それに彼女自身は真紅の写真を撮りたがってはいたものの、
わざわざ我が家に来てまで、写真撮影の協力をして貰いたいとは思っていなかった。
それでも金糸雀は桜田家へとやってきた。
自分が彼女へできることをするために。
金糸雀はみっちゃんが大好きなのだ。
だからこそ、今日の金糸雀は簡単には引き下がらなかった。
大事なドレスに縋りつかれて、最後には泣きだされそうになりながら、
そんな話を金糸雀から聞かされる真紅。
だが、ミーディアムを思うその気持ちは真紅も同じだった。
だからほんの少しだけ……。
少しだけ真紅は金糸雀を放ってはおけない気持ちになったのだった。
「はぁ……仕方ないわね。……一晩だけよ」
「ほ、本当かしら!?」
「聞いてもいない貴方の身の上話をされても困るのだけど……それを放っておくほど、姉妹に無関心でいたくはないわ」
「あ、ありがとうなのかしらー!!これでみっちゃんも喜んでくれるかしらー!!」
涙で目を潤ませ、両手を上げて金糸雀が喜ぶ。
その姿を見て少しだけ、真紅が微笑んだ。
金糸雀のミーディアムへの純粋な思いが伝わってきたからだ。
事の成り行きを黙って見守っていたジュンに、真紅は視線を送る。
ジュンも真紅の視線に気づくと、言葉に迷いながら言う。
「……真紅の好きすればいいだろ」
ぶっきらぼうで素っ気のない言葉だったが、
それが否定的な意味を持っていない言葉であることは、真紅にはすぐわかった。
真紅にとってミーディアムであるジュンの存在は、
もはやただの従者や力の供給源といったものではない。
水銀燈との戦いで、失った右腕に心が折れかけた真紅を守ったのはジュンだった。
7体目のドールとの出会いに、戸惑う真紅を見守っていたのもジュンだった。
共に過ごし、戦い、絆を深め合ったジュンは、今では真紅にとってかけがえのない存在になっていた。
あのとき……ジュンが止めてくれなかったら、私は今をこうしてはいられなかった。
穏やかな日常を過ごす中で真紅はそう思う。
怒りに囚われてあの手を振り下ろしていたら……きっと今の自分とは違った自分がいただろう……。
自らに勝利し、光の中に消えたというドールと人形師を思い出すと少しだけ真紅に虚しさが過ぎった。
鞄の中で眠る二人の姉妹……。
多くの大事なものを失った戦いだった。
だがそれも、ジュンと一緒なら取り戻せると真紅は心のとても深い場所から強く思う。
「……一応、参考に聞いておきたいわ。そのイベントとやらの名前を教えて頂戴」
「えーと、トーホーなんとかーっていうイベントだって、みっちゃんは言っていたかしら?」
願い叶って機嫌よく返事をする金糸雀に対して、はぁ……と、真紅は溜息を零したのだった。
日が傾き、空が赤く染まりはじめた頃。
「では少し出掛けてくるわ。ジュン」
「あぁ」
もうすぐ金糸雀が迎えに来る約束の時間だった。
読書をしていた真紅は読みかけの本を閉じる。
『Kinds of Minds』というタイトルの英語の本だ。
真紅が持つ本はドイツ語の本ばかり。
少し違った本も読みはじめたいと、ジュンに図書館から借りてきて貰ったものだった。
真紅はそれを自分の鞄の中へとしまうと、金糸雀の家で一晩を過ごす準備をはじめた。
「この子も連れて行くわ」
「……お前、それ……」
持って行くのか、と言いかけてジュンは言葉に詰まる。その表情は何故かゆるんでいる。
真紅が自分の棚から取り出したものは、彼女が愛してやまない、くんくんの人形だった。
「何か言いたいことでもあるの、ジュン?」
「う……い、いや……」
ナイフのように鋭い視線をジュンに向けた後、真紅は大事そうにくんくん人形を鞄の中へと入れた。
その姿をみていた翠星石が、得意そうな顔をして真紅をからかう。
「真紅は一人になるのが寂しいのです。まったく、真紅もまだまだお子ちゃまですぅ」
「……口の利き方に気をつけなさい、翠星石。……貴方のような悪戯が過ぎる子の側に、
くんくんを一人にしてしまうのが心配だから連れて行くのよ」
落ち着いて真紅がそう返すと、逆にからかった本人である翠星石の方が顔赤くしてムキになる。
「す、翠星石のどこに、くんくんの心配をしないといけなくなるようなところがあるんですぅ!」
「……いけない。もう時間よ」
荒ぶる翠星石を無視して真紅がジュンの部屋を出る。向かう先は物置にある鏡だ。
「キィーッ!翠星石を無視するなですぅ!!」
そう言って真紅の後へと翠星石も続く。
まったく……、と呟くとジュンもそれを追うような形で自分の部屋を出た。
一分、二分。約束の時間を刻々と時計の針が過ぎる。
しばらくすると物置に置かれた鏡が、青白い光を放ち出した。
青白い光と共に波立つ鏡。
その中から小さな人影がゆっくりと姿を現しだす。
「迎えに来たのかしらー!」
鏡から青の白光がおさまると、そこに現れたのは金糸雀だった。
笑顔で右手を振って現れた金糸雀。
「ふぅ……」
一つ小さな溜息をついた後、その金糸雀に向かって真紅がゆっくりと近づいていく。
無言で迫る真紅に、金糸雀がきょとんとした顔をする。
「んぅ……?」
顔かしげる金糸雀の目の前に立った真紅は、軽く頭を左右に振った。
すると、その背丈よりも長いツインテールがムチのようにしなり、
パシンと軽快な音を立てて金糸雀の左頬を叩いた。
「あぅっ!!……い、いたた……な、何するかしらー!!」
「約束の時間を3分も過ぎているわ」
「そ、それくら……あぅっ!」
いい訳を許さない真紅のツインテールが今度は金糸雀の右頬を叩く。
悲惨な金糸雀の姿に、真紅の背後で翠星石とジュンの顔も軽く引きつる。
「では……いくわよ。金糸雀」
「うぅーっ」
右手に自分の鞄を持って、鏡の前に立つ真紅。
金糸雀も両目に涙を溜めながら、真紅の横に立った。
「真紅……本当に行くのですぅ?」
ジュンの横にいた翠星石が一歩前へでて、あらためて真紅に問う。
真紅への心配からか、寂しさからか、問いかける翠星石の声のほうが少し弱々しい。
逆に真紅はまるで迷いなどないかのように、ハッキリとした口調で翠星石にこたえる。
「……不本意だけど、一晩だけという話よ。もしそれで金糸雀を放っておいて、
また前のように騒々しい演奏をされてはたまらないわ」
「んむぅ!カナはもうそんなことしないかしら!」
以前の事件を持ち出され、金糸雀がぷくぅっと頬を膨らませる。
金糸雀は今回と同じように、真紅たちを我が家へと連れて行こうとしたことがあった。
以前は金糸雀がローゼンメイデンとしての力を使い、
強引な手段で真紅たちを連れ帰ろうとしたため、
桜田家がボロボロになるという惨事を招いた。
今回はそんなことはないんだとばかりに金糸雀が弁解する。
「……そんなこともあったですね」
あの頃の桜田家には、ローゼンメイデンの姉妹がもう二人いた。
今はこの場にいない、眠っている姉妹たちを思い出したのか、翠星石の表情が少し陰る。
「真紅がいないと翠星石は一人でチビ人間の面倒をみてやらないといけないですぅ……」
呟く翠星石の横で、何でボクがお前なんかに面倒みてもらわなきゃいけないんだ、とジュンが反論するが、
翠星石のいつもの減らず口がジュンへと返ってはこない。
「……ふん」
予想していたものと違った反応に、肩透かしされたジュン。
沈黙しかける物置の中、翠星石をじっと見ていた真紅が口を開いた。
「……そう?のりもいるし、なにも大変なことはないと思うけど。
……それに口で言っているほど嫌そうには見えないわね。ジュンと二人だけで話せる良い機会だと思うわ」
真紅の言葉に、途端に翠星石が両手を上下に振りながら慌てふためく。
「な、ななななにを言っているのです!真紅の目もとんだ節穴ですぅ!あ、穴が開いてるなら入りやがれですぅ!」
言いたい放題に喋りだした翠星石をみると、真紅は穏やかな表情を浮かべた。
「……じゃあ、二人ともまた明日会いましょう」
だいたい翠星石はジュンに話すこともないですし、一緒にいたってちーっとも嬉しくないんですぅ!
と早口に捲くし立てている翠星石を残し、真紅は金糸雀と鏡の中へと入っていった。
「あ!真紅待つですぅ!」
気恥ずかしさを向ける矛先がいなくなり、あうあうと途方に暮れる翠星石。
「みっちゃんは料理が上手だから今日の晩御飯は期待していいのかしらー!」
「はぁ……希望はそれだけね……」
鏡の奥から木霊する声は、次第に小さくなって最後には何も聞こえなくなった。
静かになった物置で顔を赤くしながら、翠星石は横目でジュンを見る。
「なんだよ」
「……しゃ、しゃーねーなーですぅ!今日は翠星石がジュンと一緒にいてやるです」
「まったく……勝手に言ってろ」
何故か偉そうにする翠星石。
でもそんな姿を見ても、ジュンも悪い気にはならなかった。
こうして、ジュンが真紅と出会い、翠星石たちと出会ってから、はじめての真紅不在の桜田家の夜が訪れるはずだったのだが……。
「ごめんねぇー、ジュン君。お姉ちゃん今日ね、これから部活の用事でちょっと出かけなきゃいけないの」
「ふーん……」
「それでね、たぶん今日は帰ってこれないと思うの。今日はお友達の家に泊まってくるわぁ」
桜田家の夕食の時間に差し掛かった頃、のりの予想外の発言に翠星石は目を丸くする。
「帰ってこれないのか……わかったよ。明日には帰ってくるんだろ?」
「うん。明日の朝には帰ってくるわ。だから、心配しなくても大丈夫よ」
なにごともないように会話を続けるジュンやのりと対照的に、
しばらくするとのりの言葉の意味を理解したのか、翠星石が戸惑いの声を上げだした。
「ちょ、ちょーっと待つです、のり!のりがいないと、ほ、本当に翠星石はチビ人間と二人っきりになってしまうですぅ!」
「大丈夫よー。ジュン君は頼りになるわ。紅茶も私よりもおいしく入れられると思うし、
翠星石ちゃんが夜にお腹を空かしても、きっとお夜食くらいは作ってくれると思うの。」
「そ、そういうことではなくて……」
「……あぁ!でも……もし泥棒さんが家に入ってきたら、ジュン君一人でも大丈夫かしら……?
心配だわぁ……お犬さんでも飼っていればよかったかしら。戸締りだけはしっかりしてね。ジュン君」
「そんなこと心配しなくても大丈夫だって……」
慌てる翠星石を残し、のりはそう言って夕食の用意だけをして出かけてしまったのだった。
食事を終えるとジュンと翠星石は部屋に戻った。
しばらくの間、二人は思い思いの行動をしていたのだが……。
「ジュンー、何してるですぅ?」
「見ればわかるだろ」
ベッドの上に座っている翠星石が問いかける。
ジュンが自分の机の前に座ってから既に一時間ほど経過していた。
部屋からは長い間ジュンが鉛筆でテキストと格闘する音しか聞こえない。
「ジュンは勉強してるのですぅ?」
「だからそうだって……」
翠星石は先ほどから同じようなことばかり聞いていた。
いい加減ジュンも対応に面倒になってきたのか、数学の参考書を見たまま御座なりに応える。
「す、翠星石はまたお茶が飲みたいのですぅ」
「……またか?お茶ならさっき飲んだだろ。あんまり飲み過ぎるとお腹を壊すぞ」
ほんの30分ほど前にジュンは勉強を中断して、翠星石にお茶を入れてあげたばかりだった。
「そ、そうですけど……」
「もう少ししたら入れてやるよ」
そう言って勉強を続けるジュン。
カリカリと鉛筆の音だけが部屋に鳴り響く。
どれくらいの時間が流れただろうか。
翠星石はずっと何か言いたそうな顔をして、ベットの上からジュンの横顔を眺めていた。
「ジュン……」
黙っていた翠星石の口から、再びジュンの名前が零れた。
意識した呼びかけではなかった。
自然と口から零れた呟きだった。
「……なんだよ」
「えっ!あ、え、えーと……」
思わず口から出てしまった言葉に、翠星石が慌てる。
続ける言葉が思い浮かばない。
「……ひ、暇……ですぅ」
「っ……!あー、もう!さっきからうるさいぞ!勉強に集中できないだろう!」
我慢の限界に達したのか、ジュンはテキストとの格闘を中断して翠星石に向き直る。
「邪魔したいのか!お前!いい加減にしろよ!」
「ち、違うです!そ、そんなことないのです!ただ翠星石はジュンと……」
話がしたいだけなのですぅ、と言いかけて淀む翠星石。
邪魔をしてしまった自分に対して怒るジュンを前に、何も言えなくなってしまった。
ジュンも怒鳴る自分に対して、何故か弱々しく黙る翠星石にバツが悪そうになる。
てっきり自分の邪魔がしたいだけかとジュンは思ったが、どうもそうではなかったらしい。
まったく……なんなんだよ……。
翠星石の声もジュンの声も、鉛筆が紙を走る音さえも部屋から聞こえなくなってしまった。
重苦しい時間が流れる。
沈黙を破ったのはジュンが先だった。
「……お茶」
「え……」
「飲みたいんだろ?入れてきてやるよ。……ちょっと待ってろ」
そう言ってジュンは部屋を出て二階を降りる。
数分後、紅茶の入ったポットとティーカップを二つトレイに乗せてジュンは部屋に戻ってきた。
トレイを片手で持ったまま、ジュンは自分の机の勉強道具を器用に片付ける。
それなりのスペースができたことを確認すると、
ジュンは机の上に一度トレイを置き、ポットから紅茶をティーカップへ注ぐ。
コポコポと温かく弾む音が部屋に響くと、
それまであった暗く重い空気も和らぐようだった。
翠星石の分、そして自分の分。
ポットから二つのティーカップへ紅茶を注ぎ終えると、
ベッドの上に座っている翠星石へそれをジュンが一つ手渡す。
「……ほら」
「あ、ありがとです」
翠星石が紅茶に口をつけるのを見届けると、ジュンも椅子に座って紅茶を啜った。
紅茶の香りと温かさが、ジュンと翠星石の二人に伝う。
「……さっきは怒鳴って……悪かった」
「す、翠星石も邪魔して……その……悪かったですぅ」
気まずそうにしながらもお互いに謝り合う二人。
わだかまりもとけたのかジュンと翠星石はぎこちなく微笑む。
「それで……お前、結局何がしたかったんだ?」
「そ、それは……」
何故自分の邪魔をするような真似をしていたのかを問うジュンに、
翠星石が頬を赤くして言い淀む。
「……ジュンと話がしたかったんですぅ」
「話?話ってボクと何を話すっていうんだ?」
「そ、それは……」
話たいことはたくさんあったはずなのに、いざ目の前の少年から問われると言葉がでない。
整理しきれない気持ちが、翠星石の本心とはまったく違う言葉として口から出てしまう。。
「え、えーと……ジ、ジュンはやっぱり真紅がいないと寂しいです?」
ひぃー!こ、こんなこと聞きたいわけじゃねーのですぅ!!
「はぁ?いきなり何を言ってるんだよ……。そんなこと……あるわけないだろ」
そう答えるジュンに、少しだけ翠星石頬がゆるむ。
しかしジュンはしばらく考え込んだ後に、言葉を続けた。
「……いや……そうかも……しれない……」
実際に、例えば真紅が今どうしているのかとか、
そういったことが気にならないといえば嘘になる。
ずっと今まで一緒だったし、いくら夜はお互い寝ていたとはいえ、
やはりいないといるとでは全然違う……。
そう思うってことは、やはり少しは寂しいのかもしれない。
ジュンはそう思った。
「うぅっ!」
予想外のジュンの言葉に、翠星石が呻き声を漏らす。
「……じゃ、じゃあ……翠星石がいなくなったらジュンは寂しいですか?」
「……別に」
たぶん……いや、寂しいに決まっている。
真紅もそうだが、翠星石がいるこの日常も今ではジュンにとって当たり前になっていた。
翠星石と契約する以前、真紅に同じことを聞かれたことがあった。
今ならはっきりと、翠星石がいなくなることは寂しいと思える。
だが目の前にいる本人にそれを言うのも癪だったので、ジュンはそう言わなかった。
「なっ、なっ!……むうう……!」
爆発しそうになる怒りを寸でのところで抑える翠星石。
「フ、フン!……チビ人間は、本当に真紅が大好きなのです!そーんなに真紅が大事なのですかぁ?」
「なっ!いきなり何を言ってるんだお前は!」
いきなり真紅が好きだなどと言われ、顔を赤くしてうろたえるジュン。
な、なんですぅ!?その反応はぁー!!……き、気にいらねぇーですぅ!!
「……でも!」
自分を落ち着かせるようにジュンはわざと少し強い口調で声を出した。
「確かに……そうだよ。真紅はボクにとって……」
大切な存在だ。
「ボクはもう真紅に戦って欲しくないと思ってる。
……もし、水銀燈なんかがまだアリスゲームに拘って、あいつに戦いを挑んでくるようなら……ボクは……」
ボクは……。
ボクに何ができる……?
それは目の前で真紅のローザミスティカを奪われたあの時から、ずっとジュンが探していることだった。
止められなかったアリスゲーム。
大事なものを目の前で壊されていくのを、
ジュンはただ黙ってみていることしかできなかった。
途方もなく無力だった。
―――ネジを巻いただけの少年。
そう言って去る、真紅たちを玩具にしていたアイツの姿をジュンは忘れられない。
ジュンはあの時から自分にできる何かを探し始めていた。
そして自分の最も近くにあったことが、学ぶこと、知ることだった。
学校の勉強の合間に、巴と二人でジュンはドイツ語を学び始めた。
暇があれば図書館へ行き、
人形の歴史や技術、それにまつわる文化、風習などを調べ、ローゼンの足跡を探した。
それは何の役にも立たないことかもしれない。
でも何もしないよりはマシだと思ったからだ。
何も知らず、何もできないままで終わるのが嫌だったから。
「ボクは……真紅を守ってやりたい。もちろん……」
お前だって守ってやりたいんだと、言葉を続けようとするジュンの足に、翠星石の右足が勢いよく蹴り込まれる。
「ぐぅあっ!!な、なにするんだよっ!」
「し、知らねぇーです!」
突然の思わぬ翠星石の攻撃に、ジュンの頭が熱くなった。
左足の脛から鈍い痛みが響く。
「こ、この性悪人形がぁ!!」
「チビ人間が翠星石を敬わないからいけないんですぅ!!」
「なんでボクがお前なんかを敬わないといけないんだ!!」
自分から話しかけてきておいて、いきなり怒り出す翠星石に困惑しながらも、ジュンは沸きあがる怒りを抑えられない。
「だいたいお前!いつもだったらとっくに寝てる時間じゃないか!とっとと寝ろよ!」
時刻はもうとっくに夜の9時を過ぎていた。
ローゼンメイデンのドールたちは何故か睡眠の時間に忠実で、毎日決まって夜の9時に眠る。
いつもなら翠星石ももう寝ている時間のはずだった。
「う、うるさいですぅ!このチビ眼鏡のオタク小僧!!」
「な、なにをぉーっ!」
怒りに任せて翠星石に掴みかかろうとするが、
ふと目に入った翠星石の顔にジュンは違和感を覚える。
このような喧嘩はいつもあることで、これまでに何度も経験してきたことだった。
だが、ジュンには何かがいつもと違ってみえた。
「……お前……泣いて……?」
「……っ!な、泣いてなんてっ!」
感じた違和感の正体。
翠星石の両目が涙を湛えていることにジュンは気づく。
掴みかかろうとしていた両手が標的を見失い、虚空を彷徨った。
「お、おい……」
腕で涙を拭いながら、翠星石がうつむく。
そして震える声でジュンに向かって叫んだ。
「……そんなに……そんなに真紅が好きなら二人で一生いやがれですぅ!!」
翠星石は自らの鞄を手にとって開けると、その中へと入り込む。
そして勢いをつけて部屋の窓ガラスへ向かって突進した。
「あ、馬鹿!待てっ!!」
ジュンの制止も空しく、窓ガラスが大きな音を立ててバラバラに割れる。
この窓のガラスが割れるのはこれで何度目になるのだろうか。
そのまま翠星石はあっという間に夜の闇へと消えていった。
再びジュンの部屋に静寂が訪れる。
割れた窓ガラスから夜の冷たい風が入り込んだ。
「あ、あいつ……こんな時間に……何考えてるんだよっ」
いつもなら勝手にしろ、と言ってまた勉強に戻れたかもしれない。
しかし今のジュンにはそれができなかった。
翠星石の泣いた顔が脳裏から離れない。
気分を落ち着かせようと、
先ほどまで飲んでいた紅茶に口をつけるが、
温かかったお茶はもうぬるい。
「くそっ」
そう吐き捨てると、ジュンは上着を羽織り、二階を降りて行ったのだった。
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前編終わり。
先週全話見終わった勢いで、暇な日曜使って書いた。
翠星石虐待したかったけど、前半で力尽きた。
今週の日曜に続き書こうと思う。
後半翠星石をちょっと苛めちゃうから、
だめな人はタイトル見てスルーしてください。
外は危険がいっぱいよ!