それは不幸な時代だった。
気まぐれに立寄った小さな修道院で、水銀燈はとある神父に興味を惹かれた。
その街は、隣国によって占領された灰色の街だった。
彼は崩壊寸前の修道院で、戦災を逃れた人々と慎ましくも、それでいて荒廃した人の心に希望を灯すために、小さな冊子を書いていた。
このような時代に、彼の冊子など読まれよう筈も無かったが、それでも彼は毎日小冊子を作り続けては、道行く人に配り続けた。
ほんの些細な事であったのだが、それが彼女の心を捉えて離さない。
そしてある夜、水銀燈は彼に声をかけて見る事にした。
「そんな無駄な事をして、一体何が楽しいのよぉ」
鏡の中から現れ出た彼女に、神父は少し驚きの表情を見せたが、やがてその小さな訪問者に向かい静かに語りかけた。
「もし、言葉によって救われる魂があるのなら、私にとってそれ以上の喜びはないですから…」
「ふぅーん、おかしな人間…」
その日から、水銀燈は夜の祈りの時間に現れ、神父の話を聞くことを日課とした。
「Te decet hymnus,Deus,in Sion,et tibi reddetur votum in Jerusalem…」
耳に心地好く響く彼の声を聞きながら、彼の務めが終るのを静かに待ち、
ささやかな食事と、彼の言葉に批判じみた意見を交えながら、嫌いではない彼の話に耳を傾けた。
神父も同様に彼女が生み出された後、果てしなく続く時間の中で戦われたアリスゲームの物語に耳を傾けた。
「あなたは奇跡の様な存在なのでしょう。あなたの成す事が、未来へ続く灯火であって欲しいと思いますよ」
そんなある日、水銀燈は神父に礼拝を勧められた。
「よしてよ、そんなの私の趣味じゃないわ」
そう嫌がる水銀燈に、神父は微笑みながら一つの提案を促した。
「いつか私が、あなたのために祝福の祈りを捧げましょう」
「…ほんと、ばっかじゃないのぉ」
「あなたの心にも、いつの日か平安が訪れる事を祈ってますよ」
「ふん、勝手にすればいいわ」
水銀燈は、彼の生き方を否定しながらも、その揺るぎない信念の持ち主に徐々に心を開いていった。
それは、彼女が初めて感じた魂の安らぎだったのだろう。
やがて季節が変わる頃、彼は占領軍によって逮捕された。政治活動をしていた訳ではなかったが、当局は彼を危険人物とみなし、逮捕に踏み切ったのだった。
「心配しなくても私は必ず戻りますよ。またいつかお会いしましょう」
去り際にそう言い残し、皆に別れを告げた後、神父は収容所へと送られていった。
その一部始終を見ながら、水銀燈は呆然と屋根の上から神父を見送っていた。
『また会うべき運命にあるならば、その時にあなたにも神の祝福を…』
水銀燈は必ず戻るという彼の言葉を信じて帰りを待った。
「そう言えば、名前…聞かなかったわ…」
そんな名目で待つ事を決めた彼女だったが、正直、会ったからと言って何をする訳でもない。
しかし、何故かもう一度あの神父に会いという思いを棄てる事が出来なかった。
やがて春が過ぎ、季節は夏を迎えた。それでも彼女はそこに居た。彼女を引き留めたもの、それは何だったのだろうか。
「やれやれ…らしくも無い事を…」
いつの間にかラプラスの魔が、屋根の上で神父の帰りを待つ水銀燈の後ろに立っていた。
その言葉に耳を貸さず、目を静かに閉じた水銀燈は、神父の去った方向に膝を抱えて座っている。
「いくら待っても無駄ですよ。あの男は死にましたから」
その言葉に水銀燈の肩がビクッと震える。
「連行された収容所での過酷な労働の中で、見せしめの為の餓死刑になったそうです」
「餓死刑?」
「なんでも、脱走した囚人の連帯責任で刑死する男のために、進んで身代わりを申し出たそうです。
いやはや、人と言う生き物の行動は、私たちの理解の域を越えますな」
彼は、多くの人が狂い死ぬ一滴の水さえ与えられない餓死監房のなかで、他の囚人達の慰めとなり、
仲間の臨終を見送りながら苦しみを供にし、最期まで死に往く人たちの友人であり続けたという。
ラプラスの言葉を聴き終わった水銀燈は、閉じていた目をゆっくり開いた。
こみ上げるやるせない気持を吐き出すように、怒りと悲しみに震えた声が水銀燈の口から自然に迸った。
「あんな馬鹿な人間!……ばかな人間は初めてみたわよ。こんな目に合うなんて当たり前じゃない、だから私は…」
そう言いかけた彼女の唇は、何かを堪えるように固く結ばれていた。
それから彼女は思い出を語るかのように、静かに言葉を紡ぎ出した。
「あの神父は人の為に良かれと思って行動した…馬鹿よ、利用されるだけだって事知ってるくせに。
人なんかの良心を信じるなんて…本当に馬鹿よ、裏切られるのは当然じゃないの。
……そして自分の命を放棄して他人に自分の運命を委ねるなんて…それが最も大馬鹿よ…」
水銀燈はすっと立ち上がり、教会の屋根の上から行き交う人々を眺めた。
人々は神父の生死など関係なく、変わらない生活を送り続けている。
その街は相変わらず灰色で、戦争は未だ終る兆しさえも見せなかった。
「あなたは彼に何を見ていたのです?まさかローゼンの姿を重ねていた訳でもないのでしょう」
その言葉に一瞬、水銀燈は激しい憎悪をラプラスに向けた。
そしてゆっくりと空に舞い上がると、誰にも聞こえない様な小さな声で呟いた。
「さようなら…おばかさぁん」
彼女は、二度とその街をふり返ろうとはしなかった。
やがて長い歳月が流れ、水銀燈は小さな教会でメグと契約を交わす事となる。
『あなたの未来に祝福があらん事を…』
暗い教会の中でひっそりと行われた儀式の最期に、ふっと安らぎに満ちた声が自分を呼んだ様な気がして水銀燈はふり返る。
彼女はその懐かしい面影に気付く事は無かったが、
その教会の片隅では、一つの彫像が小さな友人に祝福を授けながら、彼女達の契約を静かに見守っていた。
それは、教会から聖人として列せられたあの時の神父の彫像だった。
彼は時を経て、彼女と再会の約束を果たすためにずっとこの場所で待っていた。
『あなたの心に、いつの日か平安が訪れる事を祈っています…』
台座に刻まれたその神父の名を、聖マキシミリアノ・コルベという。
おわり