「はーいごはんなのっ、ヒナジュンあーんするのっ」
「僕の名前を勝手に付けるな、勝手に呼ぶな!」
初夏の日差しの中、雛苺はまだ小さなヒナ鳥に食事を与えていた。
自分を見てヒヨヒヨと鳴くヒナ鳥の顔を、楽しそうに見つめている。
それは3日前の出来事だった。庭の木に巣を作っていた小鳥が突如姿を消した。
多分カラスか何かに襲われたのだろう。
戻らない小鳥を心配して様子を見に行った雛苺が、庭の木の傍で巣から落ちたヒナを見つけたのだ。
一応、ヒナを巣に戻して親鳥の帰りを待ち続けてみたものの、何時まで経っても親鳥は戻って来ない。
「小鳥さんのパパとママ、帰って来ないの、死んじゃうのー!」
雛苺はどうして良いのか分からずに、泣きながらヒナ鳥をジュンの所に持ってきた。
だが、鳥の飼育などした事が無いジュン達には、どうしようもない問題だった。
元の巣に返しておく事が一番良い事だと主張する真紅。
しかし雛苺は自分が育てようと決心していた。
「絶対、絶対、育てるのー!」
雛苺がヒナ鳥の面倒を見るのは無理な事だと説くジュンや真紅の言葉に、主張を変えない雛苺は耳を貸さない。
そんな雛苺を庇ったのは翠星石だった。
「そんな事、やってみない事にはわからねーです、いっちょやらせてみるです」
雛苺はお姉さんになりたかったのだろう、翠星石は雛苺の気持ちを何となく理解していた。
それから雛苺の鳥の子育てが始まった。
「ヒナがこの子に名前をつけるのっ!この子の名前はヒナジュンにするのー!」
「ぷぷぷ!センスゼロですぅ!〜まぁチビっちゃい鳥には、チビチビ苺とチビ人間の名前をくっつければ丁度良い名前かもしれないですぅ!」
「その名前はヤメロー!」
若干一人の反対があったものの、こうやってヒナ鳥の名前が決まったのだった。
のりが鳥類飼育の本を買ってきて雛苺に教えると、雛苺は一生懸命にヒナ鳥の面倒を見はじめた。
翠星石は、彼女なりに心配をしながら横からちょっかいを出す。
「この鳥は大人になったらきっと凶暴になるですぅ、雛苺なんか頭からムシャラムシャラと食べられてしまうですぅ〜」
という言葉で雛苺はパニックになったり、
「虫って言うのは、泣き虫とか弱虫とか、雛苺みたいなのを言うです。いつか噛み付かれてしまうですぅ、きっと痛いですぅー」
という言葉に怯えながらも、成鳥が虫を捕食する事を知って、
大きくなったら食べさせようとダンゴ虫等を箱に入れて集めたり、
それを知らずに真紅が蓋を開けて悲鳴が轟き渡ったりする生活が演じられた。
しかし、雛苺の努力も空しく、そんな日々は長く続かなかった。
「医者に見せてきたよ…でも、助からないって…」
ジュンは今日、日に日に弱って行くヒナ鳥を病院に連れて行き、そこで宣告された事を、
雛苺に聞かれないように気をつけながら、真紅と翠星石、のりに伝えた。
雛苺がヒナ鳥を持ってきたあの日から、ヒナ鳥の運命は定められていた。
ヒナ鳥は、巣から落ちた衝撃で内臓を壊していた。
少しずつ出血を重ねながら、内臓の壊疽を起こしていたらしい。
それでもヒナ鳥は、今も雛苺を見るとヒヨヒヨと弱々しく鳴いている。
生きようとする命の姿を、どうして良いのか解からずに雛苺は見つめている。
夜が更けても、雛苺はヒナ鳥の傍を離れようとしなかった。
「もう遅いから、ヒナちゃんはおやすみなさい。後は私たちで看病するから…」
そうのりに急かされて、心配しながらも眠りに就く。
誰も事実を雛苺に知らせる事ができなかった。
その夜、雛苺は夢を見た。
大きくなったヒナジュンが、雛苺を乗せて夜空を翔け巡っていた。
勉強しているジュンや、本を読んでいるのり、音楽を聴いている巴…
そんな景色を見下ろしながら、夜の街を一緒に飛びまわった。
やがて空が紫に変わる頃、他の鳥達が空に群れを成し始めると、
地上に雛苺を降ろしたヒナジュンは、その群れに合流しようとする。
「いっちゃうの?」
その問いに答えるかのように、雛苺に顔を摺り寄せる。
『バイバイ…』そう心の中で声が聞こえたような気がした。
そして力強くはばたき、ふり返らずにはるかな空へ飛び去って行った。
鳥達は音もなく静かにはばたいて、遠く空の向こうを目指している。
「うん、バイバイ、また一緒にあそぼうなのー!」
雛苺は、いつまでもいつまでも笑顔で手を振りつづける。
楽しい夢の筈なのに雛苺は泣いていた。その涙の理由は自分でも解からない。
静かな朝の気配に目を覚ます雛苺。
「うゆ?なんで涙がでたのかな…」
庭の木の下にジュンがヒナ鳥の埋めている。
リビングで真紅と翠星石がその様子を見つめながら会話を交わしている。
「こうなる事は最初から分かっていた事だわ。だから無茶だって…」
「でも、チビ苺だって一生懸命やったです、立派にやったです、チビ苺の所為じゃねーです…」
ジュンがヒナ鳥の埋葬を終えて戻って来たと同時に、雛苺はみんなの前に現れた。
「ジュン、真紅、翠星石、おはようなのー…あれ?ヒナジュンがいないの」
昨日までヒナ鳥がいた場所が、今日は無くなっている事に気が付き、
きょろきょろと周囲を見渡した後、その訳をみんなに求めた。
しかし、誰もその問いに答えようとはしなかった。沈黙の時間だけが流れて行く。
本当の事を言葉にすれば、雛苺はどれだけ傷つくのだろうか。
意を決した真紅が、ようやく重い口を開いた。
「雛苺…あの子は…」
そう言いかけた真紅の言葉を、翠星石は無言で制止した。
そして、いつもの調子で笑いながら雛苺の問いに応じた。
「あ〜!あのチビ鳥は元気になって、どっかへ飛んでいってしまったです!
雛苺の事なんかすーっかり忘れて、もう帰ってこねーですぅ〜」
「翠星石…」
こんな風にしか表現できない翠星石の思いやりの心。
その言葉の中に染み渡る優しさを、真紅は良く知っている。
その言葉を疑いもせずに信じ、急な別れを知って涙目になった雛苺は、状況を理解しようと更に尋ねる。
「ヒナジュン…どっかいっちゃったの?」
「そうでーすぅ、飛べるようになったらさっさとチビ苺に愛想尽かして逃げてったですぅ〜」
本当のことを知らない雛苺は、そんな目で自分とヒナ鳥の関係を見られた事が悔しくて、翠星石に反論する。
「ちがうもん、ちゃんとさよならしたもん、夢の中でヒナにありがとうっていったもん!」
雛苺の頑ななまでの瞳は、自分達の悪口を決して許さないという決意を秘めていた。
それは皆にとって、少し意外な事だった。
ほんのちょっとの間に、雛苺はほんのちょっとだけ強くなっていた。
「…今頃どこの空を飛んでるのかな、いつかまた帰ってくるのかな…」
飛び去ったヒナ鳥の影を追うように、窓を開いて身を乗り出し高い空を見上げる。
そんな雛苺の背中を抱きながら、真紅は静かに語りかける。
「いつか、帰ってくるといいわね…」
「うん」
雛苺は無邪気に返事をする。流れ込む微風が白いカーテンを揺らしている。
優しい心というのは、きっとこうやって育っていくものなのだろう。
青い空を見上げる雛苺の髪をなびかせて、初夏の風が抜けて行く。
少女は今日も元気に笑えるだろう。
まばゆい陽の中で、さわさわと音を立てて揺れる木の葉。
その枝先で、見えない小鳥が羽を休めて大空を夢見ている。
そして、名前の無い小さな墓は、風でゆらめく木陰の下に静かに佇んでいた。