多数の世界、可能性が混在するnのフィールド。その世界のひとつにそれは存在した。
常に暗く陰湿な空気が漂う世界。西洋風の建物の隙間を抜ける風は、どこからともなく恨めしそうな重低音を響かせる。
通りをあてもなく走るジュンにもその音は嫌でも聞こえていた。
「はぁ…はぁ…いつまで走ればいいんだよ!」
 ジュンは脇に抱えた真紅を睨み付けながらも、顔は前を向いている。
「あら、運動不足を解消するにはちょうど良くなくて?」
「はァ!?」
 突然、背後から風切り音がした。
「お前なぁ…!」
「黙って」
 真紅は静かに言葉を割って、首を後ろに傾けた。
「ジュン、来るわ」
視界の隅に黒い物体が映った瞬間、ジュンは真紅の言葉を全て理解した。
途端、直ぐ隣の建物の窓が割れたかと思うと、続けざまに今度はジュンの足元に黒い羽根が突き刺さった。
逃げる暇などない。ジュンが思わず足を止めた瞬間には、どこからともなく飛来した無数の羽根にあっというまに囲まれて、進路も退路も簡単に塞がれてしまった。
「くっ……どうするんだ、真紅!」
「私に聞かないで。 まったく……もとはといえば貴方の足が遅いからこんなことになったのよ。 ほんと使えない下僕ね」
「だ、誰が下僕だ!誰が! 第一、僕のせいじゃなくてお前が重いかグハァ!?」
 ジュンのわき腹に小さなエルボーが抉りこむように入る。
小さな体のどこにそんな力が……、そんな疑問を吹っ飛ばしてくれるほどの衝撃がジュンの全身に伝わった。
これが乙女に対する禁句を言ってしまった者の哀れな末路である。
「レディに失礼なのだわ」
 ジュンの腕から抜け出した真紅は、悶え苦しむ彼を尻目に薄く曇った月が浮かぶ中空を見上げた。
「うふふ…ふふふ…」
 月を背に広げられた二対の羽がはためき、羽根がヒラヒラと辺りを舞う。
もう一度大きく羽をはためかせると、すでに黒に身を包んだ人形は地に降り立っていた。
「もう鬼ごっこはおしまぁい、真紅?」
「水銀燈…」
青い瞳と赤い瞳が交錯する。
真紅の顔には嫌悪と焦りが浮かんでいるが、対する水銀燈はまったくの正反対で口元には

笑みさえ張り付いている。
「それとも諦めたのかしらぁ?」
「馬鹿なことを言わないで。 私は諦める気もローザミスティカを渡す気もないのだわ」
「うふふ……ほんと貴女ってお馬鹿さぁん」
 彼女が手の平を前に出すと、前後の羽根の壁が一気に崩れ去り、奔流となって真紅に襲いかかった。
しかし真紅の反応は思った以上に冷静であった。
すぐさま横に飛び退き、間を置かずに真紅は前へ出る。
しかし、数歩も進まないうちに予想以上の速さで追いついてきた羽根に首を絡めとられてしまった。足を止めたが最後、次から次に押し寄せる羽根の群れは途切れることなく飛んでくる。気がつけば、真紅の体はあっという間に黒に埋もれていた。
「あははははっ!! 真っ黒でとても素敵よぉ、真紅」
「真紅っ!」
 ジュンは慌てて真紅を助けに走る。
「主人も主人なら下僕も下僕ねぇ……せっかく楽しくなってきたのに、邪魔しちゃつまんなぁい」
「ジュ…ン…! くっ…逃げな…さい…!」
行く手を阻む羽根の乱舞に、彼はうまく前進することができない
だが、頬を掠めようが服が切り裂けようが、ジュンは何とか進もうと足を前へ出していく。
彼の瞳は一点、こちらに向かって逃げろと叫び続ける真紅だけを見ていた。
「真紅、手を!!」
 羽根の猛攻を切り抜けたジュンが手を伸ばした。
「…ジュ…ン…!」
 真紅は呆れたように微笑んだ後、ジュンの手を掴もうと精一杯手を伸ばす。が、指先が触れ合うだけで、あともう少しの距離で届かない。
「くそぉ……もうちょっとなのに……もうちょっとなんだ…!」
 歯をかみ締め、ジュンは再度手を伸ばす。
差し出された手を、傷だらけの手を今度こそ真紅がしっかりと掴んだ。
「やった!」
 ヒュッと小さな音がした。
「!? ジュン、危な―――」

とても暗く、深く、何も見えない。
冷たくて、淋しい、奇妙な感覚。
行き場のない思念が生まれては消えてゆく。
世界のどこでもありどこでもない空間。
確かに分かることは、ここにいるという観念。

『なら何故、貴方は迷子に?』

迷子…? ここは僕の居場所ではない…?
分からない。
僕は?
分からない。
僕は誰だ?

『それは貴方自身が探すことです、“     ”』

お前は誰だ?

『貴方は私。私は貴方。 いずれ分かる時が訪れます』

……?

『さぁ、時間です。 またお会いしましょう“     ”』

「う、う〜ん……」
 柔らかいベッドの上で、彼は目を覚ました。
窓から差し込む光は弱いが、起きたばかりの彼には眩しすぎる明るさだ。
上半身だけを起こし、彼は大きく伸びをする。半覚醒から抜け切れていない頭を小さく振りながら、彼はなんとなしに辺りを見渡してみた。
壁沿いに隙間なく置かれた本棚、反対側に首を傾けると工具のようなものが散乱した木製の机が一つ、ポツンと置かれていた。
それ以外にはこれといった家具はなく、全体的に殺風景な部屋である。
ふと正面を視線を戻すと、締め切られた扉の横にかけられた大きな鏡が目に入った。
眼鏡をかけた年相応の可愛らしい少年が、そこには映っていた。数秒間、彼は目を開けた
まま固まっていた。それが自分自身の姿だと気づくにはさらに時間を要した。
「えっ……」
 全身から血の気が引いていく。
「あれ……? 僕は……えっと…」
 掌で頭を押さえ、記憶を思い出そうと思考する。
だが、まるで頭の中を白いペンキで上塗りされたように、思い出そうとするたびに真っ白な空間が浮かび上がるだけでまったく過去の記憶を探ることができない。
「僕は…誰だ?」
 混乱しきってパニックになりそうになった瞬間、タイミングよくノックの音が部屋の中に大きく響いた。
しばらく考えた後、彼は戸惑いながらも『どうぞ』と言った。
きしみ音をたてながら、ゆっくりと扉が開かれていく。
「お、お、おはようですぅ、お父様……」
 声の張本人は、扉から半分だけを体を出していた。
緊張しているのか、顔はどこか赤く、色違いの目も伏せられたままでこちらを見ていない。
しかし、そんなことは今はどうでもよかった。
それより気になったことは、
「お父…さま?」
 彼の顔がさらに青白くなった。

つづく

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