やわらかい、まやかしの

作品集: 最新 投稿日時: 2009/01/10 19:10:16 更新日時: 2009/01/10 19:10:16 評価: 12/13 POINT: 108 Rate: 1.90
 




 博麗霊夢は、なにものに対しても平等だった。
 普通に、適当に、半ばことなかれのような態度で、分け隔てなく接する。
 それが幻想郷が楽園の巫女、博麗霊夢に普段見られる、嘘偽りない姿である。




 -***




 巫女の朝は存外に早く、博麗神社を住まいとする霊夢もまたその例外ではなかった。起き抜けに大きく伸びをして、布団を畳み、朝食の準備に取りかかるために台所へとのそのそと歩いていく。その姿は凡そ凛々しさからは程遠く、要するにいつもと変わらない。

 冬晴れの、清々しい朝。この上なく純粋でつめたい空気が、彼女の肺を満たしている。けれどこれがどんよりとした曇天だろうが、さめざめと空が泣いていようが、こと博麗霊夢には関係ない。もしそのような天気だったとて、ああ鬱陶しいなあ、お布団も干せないし洗濯物も乾かないじゃない、と、感慨とはほど遠い言葉をぽつりと零してからは、特に何も気にもしない。普通に息をして、普通に生きる。ただ、それだけ。

 よくよく水洗いして土を落とした後、大根の葉っぱを適当に包丁でたんたんと切り、煮る。沸かした湯は、煮立たせ過ぎないように。あとは先日の宴会で残った赤かぶの漬物の切れ端と、そろそろ良い具合に香りを立たせてきた白米、朝食の中心には川魚を塩焼いて、すりおろした大根を添えたものを。独りで食べるのは気軽よね、作るのも簡単だし、と巫女は思う。おたまで味噌汁を掬い、味をみる。これなら良し、と盛り付けに入ろうとしたところで、ひゅうっと隙間風が通り過ぎた。霊夢はぶるりと身を震わせ、中綿が入って温い具合のどてらに首を縮こまらせる。晴れてはいても、冬は冬。透徹とした空気が、食欲をそそる香りと供に、台所に漂っていた。

 巫女が巫女の装束に身を包むのは、朝食を食べ終わってから。着替えると益々以て見た目寒々しい格好になるが、当の本人からすると、冬服はそれなりに温い、らしい。


 *


「いただきます」

 ちゃぶ台に朝食を並べ、緑茶の準備も万端、静かに眼を瞑り、博麗霊夢は手を合わせて言う。
 誰も聞いている訳ではなかったが、いつもこうするのは、この巫女の習慣だった。食べ始めはいただきます、食べ終わったらご馳走さま。特にそれが大事なことであると、意識していたわけではない。是非とも、この時間を邪魔をする輩が現れなければいい、と霊夢は呟く。
 あらこのお味噌汁上手に出来た、ご飯も美味しく炊けた、もう一杯くらいおかわりしよう、などという理由を適当に思い浮かべながら、その足で霊夢は台所へとぱたぱたと駆けていく。特に時間もかけず、また戻ってくる。

「……お腹空いてるんだわ」

 とすん、と座り、巫女は独りでまた呟いた。それから、膳に山盛りになったご飯の真ん中程に味噌汁をちょろちょろかけて、俗に猫まんまと呼ばれるそれにがっついた。




 *-** 




「掃き掃除終わり。次は洗濯」

 博麗霊夢は、普段知り合いからやれグータラだのやれ面倒くさがりだの言われているが、その実自身の送る生活は至極まともで健康的だった。口では幾度も「はぁ面倒」と零しながら溜息をついているために、彼女の友人たちに怠け者の印象を与えてしまっている。そしてまた、それを本人が否定しない。グータラも面倒くさがりもそれはそれで真実な話であったけれど、霊夢はなんやかんやと自身のことに言い訳を並べ立てるのがすきではなかった。普段の生活もそれこそ普通、当たり前のことであるからと、すすんで口を開いて伝えるようなことをしない。聞かれたら、適当に相槌を打ちながら適当に話す。それが大事なことだとは思っていなかったから。

 籠の中に入った汚れ物相手に、苦闘する時間。冬の水場はつめたく厳しい。が、そんなことも言ってられない。下着が無くなったらどうするの穿かないで過ごせってかありえないでしょ、そもそものところ着るものだってなくなっちゃうじゃない、と、巫女は少しだけ気合を入れて頑張ることにする。
 そして、紅白のめでたい色合いをした巫女装束をざぶざぶ洗いにかかる。普通に着ているだけで汗は存外出るものであることを、霊夢は存分に知っていた。汚れ物を着続けるのは、どうしたって気持ちがよくないもの。だから洗う。つめたくなる手を我慢しながら洗う。冬仕様の巫女服を洗い終わって、今度は下着にとりかかる。

 いつも身につけているドロワーズを広げて、霊夢はそれをまじまじと見やる。特にまた一言も発することもなく、勢いよく水に浸す。これでもか、という位に泡立てながら洗濯板に擦り付ける。洗濯用の香りたつ粉を手に入れられたのは、たまに顔を出す古道具屋の店主のおかげだった。それにちょっと感謝しつつ、今洗っているドロワーズが真っ白になってしまえば良い、と巫女は思う。おおっぴらに見せるものではないからこそ、普段から綺麗にしておかなければならない――その思考については、ちょっと大事なことかもしれない――と博麗霊夢は考えている。

 天気は相変わらず、上機嫌の様相だった。早朝はつめたかった風もこの頃にはやんでいて、冬にはあんまり似合わない陽気に包まれそうな空気だ、と巫女は予想する。まだそれは気配だけであって、実際に温い感触が肌に触れることはなかったけれど、悪くない、と霊夢は思う。寒いところで長く活動していると直ぐに身体が冷えてしまって、それでいて中々あたたまってくれないことを霊夢は自覚している。とどのつまり、冷え性。ただそれでも、冬は冬であるから。寒いのは当たり前、冬があんまりにも長く続くようなら異変と見なして空を飛び行き、さくさく解決して元の日常に戻ればよかったから。やっぱりただの冷たさだけでは、巫女の心は深く動かない。その中にほんの少しの暖かさが混ざったとて、ただ淡々と、生温い温度を保つ日常を過ごすだけ。
 死んだものよりつめたくなってしまったのではないか、と思えるような両の手に、はぁと息を吹きかける。それでも、霊夢はちっとも温もりを感じなかった。
 雪が降るのも、それはそれで悪くないけれど、と。あんまりにも過ぎてそれが降ったならまたぶちぶち文句を言うには違いなかったが、この時の霊夢はそう思うのだった。

 真っ白に、全てを覆い隠す雪。眺めている分には風情があって良いものだし、その雪の白さが、霊夢にとってはきらいなものではなかった。幻想郷では珍しく、年の瀬が近付いても、未だちらりとも雪は降っていない。

 ぱんっ、と洗濯物の水を切り。丁度やっと、最後の下着が一枚、干し終わったところ。

「お布団干しちゃおうかしら」

 これだけ晴れて、陽気も良くなりそうなら――そう霊夢は思って、自分の寝室へ足を向ける。
 その時、おーい、という聞きなれた声と共に、庭にひとつの影が降り立った。

「何だ霊夢、朝っぱらから精が出るな」
「洗濯物干してただけよ」
「あー、そうか。でも今日はやめといた方がいいぜ」
「何でよ?」

 帽子を直しながら、普通の魔法使い、霧雨魔理沙は言う。

「パチュリーの占いによるとな、今日は雪が降る」
「は? 占いってあんた、こんなに晴れてるじゃないの。そりゃあ、時期としちゃそろそろかなって思うけど」
「嘘じゃないって。あいつの占いは存外当たる。何しろ、七曜を司る魔女だからな。それだけじゃなくってな、私も、あとアリスも、おんなじように占ってみたんだ。そしたらどうだ、どうしたって、今日は雪が降ると出た」
「何してんだか。揃いも揃って」
「そんな言い草は酷いぜ。魔女と魔法使いが揃いも揃って、お前の洗濯物を心配してるってことだ。私はその伝言役」

 もっとマシな処で占いでもなんでもすれば良いのに、とまでは霊夢は言わない。
 そして、いくら助言されたとて、今更干し終わった洗濯物を部屋に移すのも、霊夢にとっては相当面倒くさかった。

「あー、忠告だけ聞いとくわ。雪が降ったらね、取り込むから」
「ああ、それで構わない。あともうひとつ、今日は言付けがあってだな」
「何よ?」
「今度三人で集まって、茶会でも開こうって話になったんだ。そこに霊夢も、ご招待ってな感じで」
「私は魔女でも魔法使いでもないわよ」
「ゲストだ、ゲスト。別段、変に気を張らなくったっていい」

 魔理沙は、本当にいつも通りの笑顔、いつも通りの言い方で、霊夢に語りかける。
 数少ない、幻想郷で力を持つ、人間。力と言っても、スペルカードルールという特別な条約を以て初めて成り立つものであるものかもしれなかったが。それでも、そんな魔理沙の存在は、気の置けない友人であると。そう、霊夢は認識していた。

「はぁ、別に良いけど。いつの話なの、それって」
「明日、夕方頃から、アリスの家で」
「急ね。それも夕方って。茶会じゃなくて宴会に成りそうなんだけど」
「それはそれだ。酒が入ったって、都合悪くなる訳じゃ無し」
「うーん……」

 博麗霊夢は、酒がきらいじゃない。どちらかと言うと、すきな部類に入る。何処ぞのタガの外れた鬼には及ばないにしろ、相当呑める口だった。霊夢が酔うと結構他人に絡むようになることを魔理沙は知っていたが、それはむしろ歓迎であると考えている。

「明日ね。覚えてたら行く」
「はは、まあ、待ってる」

 そんな言葉を残して、普通の魔法使いは庭を飛び立った。作戦会議だとか、飛びながら言っていたものの、それが一体なんの作戦であるのかと、霊夢が問うことは出来なかった。
 気を取り直して布団を干そうと、霊夢は寝室へ足を向ける。


 *


「で、なんであんたが今更此処に居る」

 寝室の障子を開け放ち、中の様子を見るやぴしゃりと閉め、とりあえずまたそっと開いてから霊夢は言った。巫女が寝ていた布団に包まっていたのは、幻想郷が大妖怪。

「ええ? いいじゃない。霊夢はお仕事中だったみたいだし、待ってる間に惰眠でも貪りたくなったの。それだけですわ」
「あんたしょっちゅう寝てるって聞くわよ。何か用なわけ?」
「霊夢に逢いたくて」
「帰れ」
「ああん。なんでそんなにつめたいの? お布団はこんなにもぬくぬく、それでも霊夢はとてもつめたいわ。ひえひえね、ひえひえー」
「いちいちうざい。ほらその布団干したいのよ、早く出てくれない」
「一緒に寝ましょうよ、一昨日みたいに。昨日は私も寝てしまったから、寂しかったの」
「寝てたんなら万事良しじゃないの……」

 言いながら、霊夢はどこか諦めた表情をして、はぁと溜息をひとつつく。そうして、軽言を訥々と零している相手、八雲紫の、深い色をした瞳を見つめる。どうでも良いような適当な会話でも、相手の眼をしっかりと見ながらやりとりをするというのが、巫女の癖だった。癖であるから、やっぱり霊夢自身は特に自覚があった訳ではない。けれど八雲紫は、それをとても好ましく思う。

「いいの。ほら、こっち来て。今日はもっともっと寒くなるの、雪が降るのよ」
「嘘。あったかくなるってば。小春日和になるって」

 あんたも魔理沙と同じこと言うの、と、霊夢は口に出さない。
 小春日和と呼ぶには、若干冬は深まりすぎていた。今は師走も終わりに近い頃合である。だけど巫女はその辺り適当だったので、己の中では勝手にその名をつけてしまう。

「時々の空気に、惑わされては駄目。見た目とは、常に何物をも騙す気配を隠し持っているの。特にそうね、お天道様が昇っていて誰もが安心する頃、きっと何物かが嘘をつく。光に紛れて、ひっそりと」
「明るいところで嘘をつくなんて、随分と大胆ね。闇に紛れる方がお似合い」
「光の下にあるからこそ、わかり辛くなるのよ。眼に見えているから、それを信じるから、そこに僅かな嘘があっても、見抜くことが難しい。ならばかえって嘘もつきやすい」
「今のあんたは嘘つきなわけ」
「まさかまさか。ああでも霊夢、これは知ってる? 昼どきに嘘をついた相手を、投げっぱなしに放っておいてはいけないの。また逢わなくては。必ず、顔を逢わせなければ。そうでないと、嘘はそのまま傷になる。鮮やかな、刃物で斬りつけたようなものではないわ。ぐじゅぐじゅと、いつまでも治らず痛むような傷が残るのよ。それが目的ならば、別に良いけれど」
「嘘、ねえ。嘘は相手に気付かれなければ、嘘に成り得ないんじゃないの」
「ごもっとも。でもね、何故か気付いてしまうの。陽の昇っている明るい刻に囁かれた言葉、昼はそのまま受け止めていた筈のそれが、嘘であると。暗闇は、誰かを疑わせる力を強めるのかもしれない」
「馬鹿馬鹿しいったら」
「そうね。でも、まあ。仮に嘘をついてしまって、それを傷として残したくないのであれば。また、その日の夜に逢えば良いのです。夜はやわらかい時間なのよ? 明るい時間に吐いた小さな嘘を、ぼんやりとやさしげな、まやかしに変えてくれるでしょう。疑いの心も、何もかも」

 布団の中に居るまま、やおら紫は手を中空に掲げ、ぶつぶつと呟いた。その後、ぱちん、という音と供に光が放たれる。

「結界? あんた」
「人払い」
「……」

 こんな昼も前から、と。その言葉を、霊夢は吐き出すことが出来なかった。

「下着」
「……あん?」
「また替えが出来たじゃないの」
「乾いてないわ、まだ洗ったばかり」
「なら穿かないでお過ごしなさいな」
「馬鹿なこと言ってんじゃ――」

 ――ない。言ってやろうとした言葉が終わる前に、霊夢の眼の前が急に暗くなる。

「……ちょっと。元に戻してくれない。見えないんだけど」

 捉えていた筈の紫の瞳が、霊夢には見えなくなっていた。
 正確には、たった今、昼前だった筈の明るさが、闇に成り代わっていた。この部屋だけ、夜の帳が落ちてしまったように。それは、まやかしの夜。

「もうこれ自体が嘘っぱちじゃないのよ」
「ただの気遣いというものですわ」
「戯言――わ」

 くぃ、と。暗闇から手を引っ張られて、霊夢はぼふんと布団に突っ伏す体勢になる。
 眼がまだ慣れず、巫女の視界は闇に包まれていた。先ほどまで布団の中に入っていた筈の紫がそこから居なくなっていることを、身体を起こしながら霊夢はその手触りで確かめる。

「こっち」

 直ぐ耳元から囁かれた言葉に、霊夢はびくんと身を震わせる。聞きなれた声。もう何度も聞いてきた声。薄く湿って、その耳をくすぐる様な声。
 背後から、すぅ、と手が伸びて、それが霊夢の身体を捕えた。

 決して、強い力が込められていたわけではない。でも、今身体に絡まっている手――左手は丁度お腹のあたり、右手は髪をくしゃりと握りこむように添えて――を、霊夢は解くことが出来ない。紫は、壊れ物を包み込むように抱きしめて、己の頬を相手の頬にぴったりと押し付ける。

「つめたいわ」
「冷え性だから……」
「じゃあ風邪を引かないように、あたためてあげましょう」
「……」

 耳元で静かに紡がれる声に対して、霊夢は借りてきた猫のように大人しい。

 博麗霊夢は、誰に対しても平等だった。分け隔てなく適当に、それなりに、接してきた。
 霊夢にとって八雲紫は、一度闘い、打ち破った相手。それが何の縁か、度々異変が起きる度に行動を供にして、それを解決していく程度の仲になった。体よく利用されているのだろう、という思い自体は、それとなく霊夢は心の隅に置いている。そしてそのまま、こうやって身体を近づけさせることを、許している。

『霊夢、あなたは平等すぎるの』

 紫の指が、初めて、霊夢の身体を這った日。紫は霊夢に、そう言った。
 そして思った。それの何処に、悪いことがあるのかと。
 ただ、ちょっとだけ心が動いて、己の身体に触れる手つきは何処までもやさしくて、怖くなかったことを霊夢は覚えている。もうこれより以前から、何度も、何度も何度も、霊夢は紫に身体を預けていた。その度に囁かれる言葉は、何であったか。霊夢は毎度、そればかりは聞くまで意識して忘れていて、聞く度に思い出して、全身から力が抜けるようになる。

「博麗が巫女、博麗霊夢。ねぇ」

 紫は甘い声を出す。その吐息が漏れるような微かな音に、巫女は、また少し、心を動かされる。

「これ、邪魔ね。とっちゃいましょう」

 霊夢がいつも頭につけている大きなリボン。その端をつまみ、するりと引っ張って解く。それと一緒に、結ばれていた髪も解かれる。

「今日はちょっと趣向を変えてみましょうか。あなたはいつも大人しいけど」
「えっ……」

 紫は、霊夢の両の手を、後ろ手にするよう促す。そしてそれを組ませ、たった今解いたリボンで、小器用にかたちの良い蝶結びをこしらえた。縛る、という表現を使うには、若干弱い具合だった。霊夢がそれなりに力を入れれば、簡単に解けてしまうくらいの。

「……ちょっと、なんなの……」
「いいの。外したければ、外せばいいわ」
「――ぁ」

 後ろから包み込まれながら、霊夢は眼の前にある闇を見つめていた。
 紫は霊夢の腕の自由を奪ってから、また同じ様に手を動かすことを再開する。そして、霊夢の腹を撫でていた手を、太腿の辺りに移動させる。

 もう何度も繰り返されてきたことだったが、紫の手つきは毎回同じ動きをするものと、毎回ちょっとずつ変わっていくものがあった。
 同じなのは、左手の動き。太腿から次第に股の付け根まで伸びる手は、いつも下着の上で体温を感じている。そしてやさしく、撫でるように動く。指先は、ぴんと伸ばしたまま。
 違ったのは、右手の動き。この日紫は、霊夢の髪を何度も何度も撫でてから、つぅ、と人差し指をうなじに伝わらせた。そうやって、人差し指で撫でたところ。はぁ、と、湿っぽく息を吐いて、後ろ髪をかきあげ、あらわになった真っ白なそこに、紫は唇を押し当てる。長く、長く押し当てる。

「んぅ」

 若干強めに吸われて、霊夢は思わず声を漏らす。紫は霊夢の肌に口を押し当てるとき、決して歯をたてない。その代わりに、はっきりと紅の痣をうなじに残した。鏡でも使わなければ、霊夢自身は見ることも叶わない。普段は髪に隠れているから、余程近付かなければ気付くことも出来ないような、そんな痣。すっと眼を細めて、紫はちょっと場所をずらし、また深く、吸う。紫の口に溜まっていた唾がそのまま首元を伝い、背中へ流れていく。
 霊夢は、不自由になった両手に力を入れようとする。

「はっ……」

 紫が髪を押さえていた右手を離すと、それがそのまま顔にかかる。艶やかな黒髪。霊夢の髪はどうしてこんなに芳しい香りがするのだろうかと、唇でうなじをついばみながら、紫は思う。

 右手はそのまま、腋にこれみよがしと空いている隙間に、差し入れられる。霊夢は見た目細身に見えるが、それなりに女性特有の丸みを帯びている。確かに、決して胸が大きいわけではない。それでも普段健康的な生活をしているせいもあってか、肌にも張りがあり、霊夢の乳房はふにふにと心地よい弾力を以て、紫の右手に感触を返していた。
 その先端に、紫の指は触れ始める。僅かな膨らみを下から掴みあげて、その人差し指でてっぺんの周りを、なぞる。それから、く、く、と、乳首を押し上げるように、擦る。
 紫はもう何度も見ていたから、知っている。霊夢のそれが、今どんな状態になっているのかを。
 そして、霊夢はもう何度も見られていたから、知っている。この暗闇の中でも、今自分がどんな状態になっているのかを、如何に相手に、悟られてしまっているか。

「上からのほうが、いい?」

 動きの変化は、ほんの僅かだった。乳首の下側に触れていた指を、上から少し引っかくように、しただけ。

「んっ!」

 霊夢には、見えていない。見えていないからこそ、身体の感触に、これ以上ないくらい敏感になっていた。後ろに組まされた両手の掌を、ぎゅうと握り締める。
 ずっと股の付け根を撫でていた左手は、湿り気を帯びていた霊夢のそこに、下着越しに触れて、擦り始めている。

「……紫」
「なぁに? 霊夢」
「なんで、……いっつも、下着の上から、さわるの」
「薄布一枚、大したことはありませんわ」
「洗う身にも、なってみて、ったら」
「いざとなったら穿かなければいいじゃないの」
「だからそんな馬鹿、なこと、っ」

 紫は全てわかったような素振りで、霊夢に接する。

 紫は布越しに、左手の指で、滑り気を感じている。あまりに早く其処に辿りつくのは良くなくて、じっくりと、存分に時間をかけて、その周りを撫でてから触ることを、紫は好んでする。焦らす、という行為を意識していたわけではなく、全ては、相手の反応を愉しみながら、する。霊夢が怖がってはいけないと、紫は細心の注意を払う。今は、霊夢のうなじに舌を這わせ、両の手は存分にその身体を弄っている。特に注意すべきは、左手。下着越しに、左手の中指で、敏感なその場所をなぞる。また霊夢の真っ白なドロワーズに、染みが出来てしまっている。また洗うの面倒になるじゃない、という言葉を、巫女はぐっとこらえた。

 紫は全てわかったような素振りで、霊夢に接する。

 急ぎすぎてはいけなかった。もう十分な潤みを持ったその場所へ、やわらかく、指を這わせ続ける。どこまでが気持ちよくて、どこからが恐れを抱かせてしまうのか。霊夢の身体のことは、まるっきりわかっているのよ、と。真っ暗で静謐な部屋の中で、言葉ではなく、その指を以て、紫は伝えようとする。くちゃっ、くちゃっ、と。いやらしい音、ことさらいやらしい音を立てながら、行為を続ける。もうその人差し指は、霊夢の身体の中へ、下着越しに第一関節くらいまでは差し入れられていた。濡れそぼった入り口を、ゆっくりと、擦る。

「ここ、よね? それとも、ここ? ねえ、もうこんなになって」
「……んっ、……しょうがない、でしょ」
「しょうがない? しょうがないって言うの? 何がしょうがないの? ねえ?」
「やめっ、紫、そこ、きたない」
「汚くなんてないですわ。霊夢、あなたは綺麗。身体の中に、ちゃんとした血と肉が詰まっている。なんてうつくしい、うつくして、」

 左手の人差し指が、縦に割れた入り口の上。霊夢はついぞ視覚しないが、紫は、存分に充血していたその僅かな突起を、くぃ、と擦る。霊夢は思わず、両足を強く閉じようとする。けれど、太腿を割るようにして、紫の左手が挟みこまれるばかりで、その指の動きは止まらない。
 直接触れては、霊夢にとってはただ痛いだけ。しかし今は、その突起を覆う皮の役目を、人肌に濡れた下着の布一枚が負っている。くちゅり、とまた、水音が響く。

「ぃっ、ぁ」
「いやらしいのでしょう、霊夢」

 ぶるっ、と、霊夢が身体を奮わせる。荒く、肩で息をしながら、霊夢は自分の口を、もう塞いで欲しいと願う。そうすれば、もう声を漏らさなくてもいいから。自分で閉じているだけでは、もう何の意味も、なかったから。首を捻り、何とかして、紫の顔を捉えようとする。紫の唇を、合わせてしまえばいいと。

「んぅむっ!?」

 けれど、その願いに対して返されたのは、唇ではなかった。振り向いた先で口へ差し込まれたのは、たった今まで執拗に胸を弄っていた、紫の右手の指。その指で、紫は霊夢の舌を舐る。唾液でべちゃべちゃになっている、それ。顎を掌で抱えるようにしながら、人差し指と中指が、霊夢の口内を、やさしく、犯す。その口の端から、だらしなく涎が流れ落ちていく様を、暗闇の中で、紫は見ている。

「やへ、えぅ」
「何を言っているのかわからないわ? 霊夢」
「ゆふぁ、はぁっ」
「わからないと言っているでしょう」

 舌の自由を奪いながら、紫は霊夢から伝わってくる温度を、存分に感じている。
 そして、散々上下に往復させていた左手の指を、離す。つぅ、と、粘性の糸が人差し指に絡み付いている。その時、ほんの一瞬だったが、霊夢が閉じようとしていた足の力が、緩んだ。しゅるり、と下着を腰に留めている紐を解いて、そしてそのまま、熱く湿った布の内側へと、手を滑り込ませた。

「っあ、あ、あ」
「直接触った方が良いって、霊夢がいったのよ?」
「い、いっふぇ、ふぁぃ……」
「んん? よく聴こえないですわ」

 ぬるん、と。糸を引かせながら、紫は霊夢の口から手を抜き出す。
 部屋に響いているのは、透き通った紫の声。切れ切れになって、声にもなりきれて居ない、霊夢の吐息。そして、霊夢の下腹部から、ちゃぐちゃぐと鳴らされ続けている、くぐもった水音。

「きたっ、ない、きたないっ、たら、そこ」
「いいえ。きれい、とてもきれいよ」
「はぁっ、ゆかり、ねぇ」
「なぁに、霊夢?」

 小刻みに身体を震わせながら、霊夢が言おうとしていた言葉。それももうわかっていたけれど、紫はあえてそれを喋らせたい。喋らせて、またその反応を、愉しみたい。
 暗闇の中、霊夢は顔を来れ以上ないほどに高潮させ、その言葉を吐き出せずにいる。
 ずっと弄られ続けたことで、霊夢の下半身は、じんわりとした麻痺にも似た感覚に捉われている。確かに触れられている、そんな中、霊夢は猛烈な尿意に襲われていた。朝の食事と共に飲んだ茶が、膀胱に溜まっている。あれから、一度も霊夢は厠に足を運んでいない。布団が干し終わったらと、そう思っていたから。もう下着はどろどろになって、ぴったりと霊夢の肌と重なり、それが指で無理矢理すき間をこじ開けられる度、粘ついた音をたてる。そんな布が肌に纏わりついてくるのも、霊夢はもう気持ち悪いと考えられなくなっていた。

「ねぇ。こんなに暗いのだし、恥ずかしいことなんて何もない、何もないのよ?」
「うう、う、ぅ」

 左手は、ずっと入り口辺りをなぞっていた。そこへ、人差し指と、中指。二本、霊夢の身体へと、差し入れて、くぃと引っ掛けるように曲げる。その入り口の直ぐ奥、恥骨の奥へ指の腹を押し付けて、ぐにぐにと弾力を持った上壁を、執拗に擦る。
 巫女の耳元で、紫は囁く。本当は、昼前である、明るい時間。その最中、紫はひとつ、嘘をつく。嘘をつくのに、紫はあまりにも慣れている。

「んっ、やめ、て、ゆかり」
「そういえばねえ、霊夢。さっき人払いしたっていったけど」
「……え」
「うそ。大きな声出すと、誰かに気付かれるかもしれませんわ」

 決して肉壁を爪で傷つけないよう、紫は内側を指で引っかく。ぐちゅう、と、その指の隙間から、音が漏れる。

「っひ」

 言われた言葉に、霊夢は緊張を高めた。声を出してはいけない、ただでさえ此処には誰かの訪れが多いから、と。今の有様を、誰にも見られたくはない、と。
 だが、そんな霊夢の考えを予想した上で。それを裏切るように、紫はその指の動きを、少しずつ早めていく。
 霊夢はその感覚を受け止めながら、思う。頭と、身体の奥底。それらがびりびりと痺れていて、上手く思いを、纏めることは出来なかったけれど。
 紫に後ろから抱きかかえながら、霊夢の眼の前にあるのは、ぼんやりとした闇。
 その闇の向こう側に、もっと深く、大きく、暗い闇がある。そんな、曖昧な何かが、ある。
 今まで、紫に触れられる度。何度も何度も、気をやってしまって。霊夢は快感の波に襲われながら、思う。いっそ頭の中身が空っぽになってしまえば良いと願うのに。いつだって最後に訪れるのは、真っ白な世界ではなかった。いつもいつも、何度でも、達した後には、深い闇穴に突き落とされるばかりだ、と。

 そうやって、溶ける。溶けるようだ、と霊夢は考える。
 身体も、たましいも、溶かされて、しまう。

「ほら、我慢しないで? ほら、ねえ」
「っ、っう、……〜〜っ!」

 三、四度。紫は左手の指が、きゅうう、と、断続的に締め付けられるのを感じた。咥え込んだ指を、離さず逃すまいとするような、その動き。霊夢の腹が、波打つように痙攣する。

「うっ、う、うぅう」

 震えながらに声を漏らし、霊夢は失禁する。もう限界に近かった膀胱を、痺れるような快感と供に、壁越しに擦られ続けた霊夢には、耐えられなかった。
 その様子を、紫はどこか恍惚とした様子で見ている。ちょろちょろと断続的に当てられる熱い液体を、左手の掌に感じながら。

「ああ、霊夢。あなたは本当に、かわいいのね。今はまやかしの夜、そんな夜についたひとつの嘘も、今の内に改める告白をしておきましょう。私の人払いは万全だから。誰もこの場に、訪れることなど、ありませんわ。私と、霊夢。この睦事を、誰にも邪魔などさせはしない。ごめんなさいね、あんまりにもあなたがかわいいから」

 ――ちょっと、意地悪したくなったの。

 笑みを浮かべながら、紫は霊夢の耳元で、囁く。

「ひと、って素敵ね。こうやって波打つ身体、この薄皮、その内側には血と肉が詰まっていて」

 八雲紫は、思う。今このように霊夢と触れ合いながら、しかし決して、霊夢と交わりきることはないのだろうと。身体を持つ身なれば、どんなに深く交わったとして、身体という隔たりを、突き破り、溶け合うことは出来ない。まして、身体の奥底に秘めるたましいが、そうなることなど。
 八雲紫は、ひと、と異なるもの。妖怪、それも幻想郷を束られる程の力を持った、大妖怪。今紫が、指先にもっと力を込めれば、霊夢の腹をいとも容易く割いてしまう。歯を立て噛み締めれば、血が噴出し骨を覗かせる。
 眼の前にある、小さく震える、身体。それを取り込み、己の血肉にしてしまおうと思うならば、紫は単純に、文字通り、霊夢を喰らってしまえば良かった。どこまでも乱暴に、有無も言わさず、そう出来る力はある筈だった。
 けれど、それでは。身体を我が身に出来たとて、そのたましいは、絶対に己の腹の中へ収まることはない――そう、心の底から、信じていることにしようとする。たましいと身体は、真に別物であると。だから、もし思うがまま、喰らい貪ってしまったならば。二度と、二度は、霊夢の心を、動かすことなど、出来はしないと。

 紫は思考し、それを納得させる。

「それに引き換え、私は駄目ですわ。きっとこの身体の中には、砂のようなものが詰まっているのでしょう」
「すな、……?」

 そして、いつものようにすらすらと言葉を口にする。
 ただ、いつもの紫と少しだけ違ったのは。自分のことを語るその言葉は、特に深く考えて出したものではなかったということ。

「そう。きっと私の腹の中にあるのは、割けばさらさらと流れて消えてしまうような、そんな砂。とても、とても虚ろな。寿命だけはやたらに長く、こんな血肉に触れ合う時間も、ほんの刹那。そう、霊夢、あなたは私とは違う。私は最早、存在自体がまやかしに似ていて、ぼんやりとしているのね。でも、ひとであるあなたの身体は、あなたのたましいとともにある。どうしてそのうつくしいたましいを、動かそうとしないの? もっと。もっともっと……鳴いて。啼いて。泣いて頂戴、震わせて頂戴、霊夢」
「うっ、うぅ」

 あまりにも、心を動かそうとすることを、不器用にしか出来ない、妖怪。
 それに囁かれる、人間。
 ふたつの影が、闇の中で一層深い闇となり、蠢いている。

「ふぇ、ええ、えええ」

 声を震わせて、霊夢はないた。行為の最中、結局いつも紫は、霊夢をなかせることしか、出来ない。

『なんで、こんなことをするの、いつもあんたは、私を突き落としてばっかり――』

 その様を見ながら、一昨日霊夢に言われた言葉を、紫は思い出している。
 快楽という名前のついた感覚を与え、紫は霊夢を闇の中へ突き落とす。
 その、際。突き落とされる際、霊夢は確かに、紫に対して、感情を深く動かす。
 本当ならもっと、酷いやり方があった。単純に、痛みを与えること。喰らい殺さずとも、圧倒的な暴力を以て、従わせること。けれどそれをするまでもなかった。
 身体の痛み、を、いちばん始めに除外したということ。身体に痛みを与えず、そのたましいに指をかけるには、どうすれば良いかと紫は考えた。
 羞恥とは、与えられた相手に、憎しみと嫌悪をもたらすもの。実際にやってみると存外に簡単で、霊夢もそのような感情を抱いているのだろうと、紫は思っていた。それはそれで良いのだと、紫は考えるのだった。

「なん、なの、なんなの、あんた。なんでそんなこと、いうの。なにいってるのか、ぜんぜんわかんないっ!」
「何、って」
「なんでもなにもないったら! じゃあなに、散々私に触ってるこの指は! 後ろから抱きかかえてくる、あんたの身体は! あんたの、っ、心は、……」
「……」
「やっぱり、全部、ぜんぶ、うそだって、いうの」

 そしてこの日の霊夢のなき方は、いつもより激しかった。
 霊夢の眼に映っていた闇が、大きくなり始めている。




 **-*




『幻想郷って、何であるのかしらね』

 ふと、霊夢は茶を啜りながら、言った。

『霊夢は、幻想郷がきらい?』

 同じ様に茶に口をつけながら、紫は返した。

『別に。すきでもきらいでも。私が何か思ったところで、どうのこうのするわけでも無いわ。私は博麗。変なことが起きたら解決するし、現状を維持するのが仕事。あんたはあんたで、結界を解く気はないでしょ? そうやって、この場所はただ、ここにある』
『じゃあ何故、今更その存在に疑問を持つのかしら』
『ここにあるだけって言っても、疑問を抱くのはまた別な話じゃない?』
『……そう』
『そうそう。続いたら続いたで、こともなし。でも、終わるときは終わるのよね。何事も』

 霊夢はあくまで淡々と語る。別段、深い感慨を以て、霊夢はその台詞を吐き出した訳ではない。
 だがこの時、ちくり、と。紫は、僅かに、小さな針を刺されたような痛みを、胸に感じる。そして少しだけ、かなしい想いに囚われた。

 何故だろうか、と紫は考える。

 紫には、紫が思い描く、理想の幻想郷があった。己の理論が崩れなければ、千年も万年も続けられる筈の理想郷が、明確に在った。
 その中に切り取られる、ほんの一瞬の幕間。凡そ六十年、あるひとつの巡りに満たない程の期間において。気まぐれな巫女は、気まぐれにその仕事を素っ気無くこなしていくだろう。

 では、博麗霊夢は、幻想郷を守るための、ただの装置か。
 その自問を、八雲紫は否とした。博麗であることと、ひとりの人という存在は、別の筈。

 ああ、そうか、と。紫はこの時思いついた。
 何故、幻想郷が存在するか。その問いは、何故霊夢が、博麗として存在するか。その疑問に立ち返ってくるからか、と結論付ける。

『馬鹿馬鹿しいったら』
『何が?』

 霊夢は相も変らぬ様子で茶を啜り、紫に言葉を返す。

 傍から見ていて、博麗霊夢は、あまりにも平等過ぎた。けれど誰にでも平等であるなら、霊夢が博麗の巫女としてやっていくのに、何の問題もないことを、紫は知っている。
 そうやって、巫女は誰からも好かれる存在に成り得ていることは、事実だった。当の本人は、まあ己は博麗であるし、位に思っている。

『退屈だわ』
『だから、何がよ』

 紫は考える。
 このままの安寧を見つめ続けるのも、また良かった。でも、それだけでは退屈であると。退屈は人を、時に妖をも、殺す。思いの平坦さを保つのは、止まった時間を過ごすことに、似ている。
 紫はもう大分長く幻想郷を見守ってきて、そこに生きる、あるいは幽霊も含めて、――意志を持つ者たちの心の動きを、観察してきた。それを見て紫が考えたことは、心は度々、理を越えるということ。理を越え、歴史は紡がれるのだということ。

 紫は考える。
 何処までも回りくどく、考える。
 思わず、笑いが出そうに成るのを、紫は抑える。

 本当は、紫自身、既に気付いている。気付いているからこそ、それを誤魔化すための理由が必要だった。誰からも好かれる博麗霊夢。その「誰」の中に、八雲紫という存在も、含まれていたということ。だからこそ、「終わるときは終わる」という霊夢の言葉に、反応してしまった。それを普通に認められる程、紫は素直ではない。



 だから紫は、嘘をついた。

 ――幻想郷、この楽園に生きる巫女は。その心など、なにひとつ動かそうとはしない。

 そう、八雲紫は、「思うことにした」。
 それを、真なることに傾けようと、紫はした。
 嘘をつき、誤魔化す相手は、他ならぬ、自分自身である。

 ――お遊びを始めましょう。

 そうだ、博麗霊夢は、あまりにも平等すぎて、ちっとも誰かに心を動かそうとしないではないかと。
 感情の起伏が平坦な巫女の心を、揺り動かしてみよう、と。
 紫はそんな、適当で、まわりくどい、理由をつけた。



『ねぇ、霊夢。あなたは博麗の巫女だけれど』
『そうね』
『あなたが誰からも好かれるのは、あなたが「博麗」であるから。それだけじゃあ、ないと思うのよねえ』
『どうかしら』
『いかな私とて、ひとは選びたい。でもね、博麗という存在が誰であるかということまでは、選べなかった。霊夢。あなたが、博麗霊夢という存在であって良かったって、私は思っているのよ?』
『……どういう意味』
『そのままですわ。あなたは、あなた。こうしてお互いお茶を飲みながら、のんびりまったりお話をする。そうねえ、遠からず、私達は空を飛ぶ。ほら、近頃月がおかしいでしょう。満月は確かに顕れている筈なのに、ほんの少しだけ欠けているとは思わない?』
『あん? そうなの』
『そうなの。これは異変よ。私も一緒に行くから、霊夢も力を貸して頂戴な』
『面倒くさいなあ』

 面倒、と嘯きながら、異変という言葉を聞いた霊夢は、きっと協力してくれるだろうと紫は思う。紫自身、単身で異変解決に向かうのは、ちょっと億劫だった。もうひとり、誰かもうひとり、傍に居てくれたならと。その思いは、あるいは嘘ではなかったかもしれない。

『私が空を飛ぶなら、隣に居るのは、あなたがいいわ』
『馬鹿言ってんじゃないったら。あんたには式が居るでしょ』
『あら。そうね確かに、藍は私の優秀な式。私はあの娘がすきだし、式の式もすきよ? けどあなたと一緒に飛ぶのは、それとはちょっと意味が違うでしょう』
『どういう意味』
『霊夢、あなたはさっきからそればっかりね。だから私も同じ答えを返しましょう。そのまま、の意味よ。ああ、藍も連れてはいくけどね』

 それを受けた霊夢は、溜息をひとつついて、ぱりぱりと煎餅を頬張り始めた。

『はぁ、早く冬が来ればいいのに』
『焦らずとも、季節は巡るものじゃない。前の冬が長かったっていうのに、全然懲りてないのねえ』
『それとこれとは、別の話』
『寒い方がお好み? 冷え性って言ってなかったかしら』
『すきでもない。でも、近頃寝苦しいのよね。涼しくなるってんなら、悪くないでしょ』
『短絡的ねえ。冬が来たら来たで、早く春が来ればいいのにとか、どうせ言うのでしょう』
『あんたに言われると微妙な感じだわ』
『あら? 私はいつだって、深い思慮を元にお話しているの』
『それがなんか胡散臭いって話でしょ。腹の中は見えないんだから』

 まあ、どうでも良い事か、と霊夢は思う。

『ああ、それにしたって、冬は冬でそれなりに素敵ね。雪で一面白く覆われるのは、私もきらいではありませんわ。冬は大概眠ってしまうけれど、その前に雪が降る事だってあるのよ。ねえ霊夢、その時は雪見と洒落込みましょう。お酒はこっちで用意するから』
『ん、別にいいけど』

 すすす、と、紫は霊夢との距離を狭めていく。

『近寄るな、暑苦しい』
『まあまあ。そうやってなんだかんだで私の話を聞いてくれるのよね』
『ああ、はいはい』

 後ろから手を回され、霊夢は紫の手を、ぺちりと叩く。それでも引っ込める様子がないのを悟ってか、また溜息をひとつつく。ちょっと嫌がった様子を見せてからは、霊夢は紫の為すがままだった。

『霊夢』
『あー?』
『すきよ』

 くぃ、と右手はその顎を引かせて。紫は霊夢の唇に、己の唇を、重ねる。
 最初じたばたと霊夢は暴れようとしたが、およそ振り解けそうにない力で捕えられているとわかった後は、身体をだらんと弛緩させて、抵抗することをやめた。どうせ直ぐ飽きるだろう、と。霊夢は眼を開けたまま、閉じた紫の目蓋を目の当たりにして。その睫が長くきれいだ、とちょっと思った。

 暫くの、静寂。その時間は割かし長かった割に、舌を絡ませることもない、ただ合わせるだけの、口付けだった。丁度誰にもこの場を見られることもなく、ぷは、と紫は霊夢から唇を離し、耳元で囁く。

『私があなたがすきなのは、あなたが博麗であるから、だけではないわよ?』

 開け放たれた障子の向こう側は、暮れ時の紅に染まりつつあった。まやかしの月が顕れるまで、あと少し。そんな幕間の、出来事。陽があるうちに紡がれたその言葉は、霊夢に投げられた言葉は、嘘であったかもしれない。所詮は、お遊び。心を動かさない巫女も、こうすればちょっとはうろたえるかもしれない。そう思いながら、紫は霊夢の艶やかな黒髪を、やさしく撫でる。

『あなたが、あなただから。ねえ霊夢』
『……馬鹿じゃないの』

 為すがままになっていた霊夢の頬が、僅かに染まっていたのは。きっと夕陽に照らされているせいだろうと。紫はそんなことも、思う。

『ねえ』
『何よ』
『……霊夢、あなたは平等すぎるの』



 ***-




「きらい、きらい。そんなこという紫なんて、きらい」

 しゃくりをあげながら、霊夢は泣く。その言葉は、刃の無い刀、に似ていた。そんななまくらに切りつけられて、しかし紫は、切られたとて流れることのない血が、だらだらと身体を這っているような感覚に囚われる。

「うそつき、うそつき! すきだって言ったじゃない、私が博麗だから、それだけじゃないって、そう、……いったじゃないの」

 霊夢自身、その言葉を紡いだことに、驚きを覚えていた。
 普段は全く気にしないのに、こうやって触れ合う度にしか、霊夢は認識しない。紫の指が身体を這う直前まで、霊夢は忘れようとしているのだった。明確な好意を示された、その言葉を。そうでなければ、博麗という存在として、やっていけない。意識してしまえば、もうそれまでのように、生きていけない気がしたから。だから毎度、どうして紫が己に絡んでくるのかという、その理由。それが大きくならないように、霊夢自身、眼を背けている。

 言われた紫は、言葉を返すことをしない。
 言おうと思えば幾らでも紡げる。言葉とは、紫にとってはその程度のものだった。だから、言わない。誰にでも平等な霊夢、その存在。それを、博麗という名前とは別に、個人として特別に思って居る者は。彼女が考えるよりも、もっと、もっともっと多いのだということを、教えない。

 例えば、森に住む普通の魔法使い。
 例えば、同じく森に住む七色の人形遣い。
 例えば、紅い館に住む動かない大図書館。

 なんだ魔法に縁のあるやつらばっかりだという認識を、ぽいっと何処かしらに紫は投げ捨てる。それらを出し抜いて霊夢に触れ合ってるのは自分である、という何の保証もない考えを抱きながら。

 震える身体を抱きしめて、紫は思う。こんな睦事も、てっとり早く巫女の心を動かそうと思って始めた、お遊びだった筈であると。でも、巫女の心を揺り動かす役目を、他の誰かに任せるのは、何となく癪に触る。その「何となく」が、大分大きくなっていることに、紫自身、眼を背けている。

 巫女が言う言葉は、大概にして虚ろ。その時その時の思いを以てしか、紡がれない。
 確かに、事実だった。
 けれどそれは、博麗霊夢の心が、普段全く動かないことを示さない。
 霊夢は、他の誰かが思っているほど能天気に生きているわけではなく、普段から存外思考する。
 博麗霊夢は真に人間であり、生きながら、笑い、怒り、泣き、それなりに日々を楽しむ。全てのものに平等でありながら、感情を抱く。ただ、その振幅が、小さく目立たないだけ。
 全ては、八雲紫が、己の裡に並べ立てた嘘が、――

「きらい、きらい……」

 ぽろぽろと涙を零しながら呟き続ける巫女の身体を、紫は、きゅうと抱きしめる。黒髪を撫でるのは、やめないまま。

「……ん、……」

 いつものように霊夢は僅かながら抵抗したが、やがてくすぐったそうに眼を細めるだけになった。

「髪」
「え?」
「髪、撫でられるの……きらいじゃ、ない」

 その言葉を聞いた紫は、冷静で居られない己を自覚した。一番、はじめ。最初にしたっきり、していなかったことを、紫はする。霊夢の唇に、自分の唇を、重ねる。

「はっ、……」

 触れ合う唇の隙間から、息がもれた。
 紫は、舌を絡めようとする。並びの良い歯、舌の下、頬肉の裏側。貪るように、紫は霊夢の口内に差し入れる。涎が口端から零れていくのも、気にせずに。

「ん、……ぁ、あ、」

 唇を一瞬離して、紫は言葉を紡ぐ。真に正直な言葉かどうかは、自分でもよくわかっていない。

「あなたが私をきらいと言ってもいいわ。私はあなたがすきだから」

 言いながら、紫は霊夢の両手の自由をほんの少し奪っていたリボンを、解く。結局これを自分から解くことをしなかった霊夢をまた愛しく思い――直ぐ、何処かへその思考を放り投げた。
 後ろから抱きかかえていたその身体の向きを変えて、静かに布団へ横たわらせる。紫はそれに覆いかぶさるような姿勢をとった。くちゅり、と。またことさら大きく音を響かせながら、紫は大分休めていた動きを、再開させる。その潤みは、まだ十分な熱と供に、保たれている。

「ぅあ、あ!」

 ちゅうぅ、と。右手で頭を抱えながら、今度は躊躇いなくその口を貪り、紫は霊夢の身体に差し入れた左手の動きを早めていく。

「んっ、んん、む、ぅ……」

 涙を溜めている、霊夢の瞳。それに映っていたのは、闇ではなく、紫の顔。長い睫。深い色の瞳。長い口付けをやめた後で、僅かに開きかけている口。紫はその最中、何も語らない。しかし、その息遣いすら眼に見えると、霊夢は思った。

 唇を離されたあと、霊夢はだらしなく舌を口から出したままにしている。それを認め、紫は霊夢のその紅い舌に、吸い付いた。

「ん、っ」

 ふたりの唇と唇が僅かに触れ合う程度の距離に近付いて、紫は霊夢の舌を吸い上げる。つい先ほど、紫は己の指でこの舌を散々に舐り、蹂躙していた。
 今は、それとは違い。じっくりと、丹念に霊夢の舌を吸い上げ、紫は己のそれで、霊夢を感じている。それには、確かな熱が。確かなうねりが孕んでいる。霊夢は、吸われる動きに合わせるように舌を突き出そうとして、そのかたちを意図せず、ふとく、まるくさせる。己にかかる生暖かい吐息。そしてもっと熱い感覚をその舌の中ほどから、その先端にかけて感じる。
 紫が顔を離したとき、口と口を繋ぐような透明な糸が、細く、ふたりを繋いでいた。
 
 霊夢は紫の背に手を回し、力を込める。確かな温もりを、感じながら。紫の胸に、顔をうずめながら。やわらかい、豊かな感触を霊夢は受け取る。全身を奮わせるような刺激に耐えられず、霊夢は紫の服越しに爪を立てる。その力は、爪を肌に食い込ませ、普通なら傷跡として残ってしまうほどのもの。実際、紫は少しだけ痛んだ。けれど、それを気にする理由が紫には何もないから、何も言わない。

「あぁっ、あ、あ、っ!」

 また、霊夢に差し入れられていた紫の指が、きゅうぅ、と締め付けられた。断続的ではなく。一度、ごく、長く。その刺激を、紫は受け取る。
 紫の指から、その時熱い何かが放たれることなど、勿論ない。仮に何かが胎の内に溢れたとして、霊夢はきっと、その熱さなど認識しない。けれどその時の肉の収縮は、根本から何かを搾り取るような。そんな動きにも似ていた。
 腰を浮かせ、大きく、大きく、背骨を弓なりに反らせた後。霊夢の身体から、力が抜ける。

「ぁっ、ぁ……」

 上下する霊夢の胸にそっと手をやり、枕を濡らそうとする涙を、紫は拭った。一緒に横になって、意識を手放してしまった霊夢の横顔を、じっと見つめる。
 暫くそうしていて、荒い息も収まり、霊夢が穏やかな寝息を立て始めた頃。布団をかけてやりながら、紫はむっくりと起き上がり、己の耳にかかった長い髪をかきあげながら言う。

「……今日は寒くなるって、ほら。嘘じゃなかったでしょう」

 ぱちん、と。紫が手を叩くと、まやかしの夜は解かれた。障子を開ければまだ陽は高く昇っている筈だったが、今も部屋の中は薄暗い。太陽は、厚い雲に覆われていた。
 雪の静かな足音を、紫は聞いている。しんしんと降り来る雪。もう大分寒かったから、これがそのまま根雪になるのだろうか、と紫は思う。

「雪見、約束したわよね。お酒は私が準備するって。ねえ、霊夢」

 紫の言葉に、返す者は居ない。もう、眠ってしまっている。
 障子の向こう側で降っている筈の雪を、紫は、真っ白だ、とも思えなかった。何処までも曖昧で、灰色に似ているかもしれないと、感じている。
 静かな寝息を立てる霊夢の顔を見やりながら、紫は今更ながらに自問する。
 他の誰にも、この役割を担わせたくなかったのは。任せるのも癪だ、と紫に思わせたのは。己の心に潜む、嫉妬にも似た何かであったかもしれない。
 先日地下に潜った折に霊夢が出くわしていたらしい橋姫とやらに、是非とも教えていただきたいところ――そこまで考えたところで、紫は溜息をひとつつく。それは何処か、霊夢が普段しているような仕草に、似ていた。

 雪はやまない。冬の間、静かに、静かに降り積もって。いずれ時が経って、消えていく。
 紫は、思う。霊夢にとって己は、雪のような存在でありたいと。それは、実に紫にとって、真実だった。
 知らぬ間に降り積もって、そしていつしか、知らぬ間に消えていきたい。春に似た、何かの訪れと供に。
 人間と妖怪。その寿命の差は、あまりにも明らかだった。だから、本当は逆である。その命が露と消えるのは、何事もなければ、何事かあっても、霊夢の方が先に違いなかった。紫が、霊夢の前から、知らぬ間に居なくなるのは。紫が紫自身の意志を以て、姿を消す他ない。

『自分が居なくなったら、霊夢は泣くだろうか。今の霊夢なら、泣いてくれるだろうか。
 霊夢が居なくなったら、自分は泣くだろうか。今の自分なら、――』

 紫は思いながら、眠っている霊夢の髪を、そっと梳く。霊夢は、髪を撫でられることがきらいじゃないと言っていたこと、つい先ほど、己と絡まりながら口に出していたことを、紫は反芻する。霊夢の髪はとてもさらさらしていて、いくら撫でてもその指に引っかかることがなかった。

「通りの良い髪って、撫で甲斐があるのよね」
「んん、……」

 果ててしまう相手は、いつだって先に寝てしまう。自分ばっかり責めているのだから当然のことなのだけれど、と紫は認識しながらも、心の何処かでちょっと寂しい、位のことは思っている。現在までの所、紫は霊夢に、その寝顔を見られたことはない。
 自分がしている行為が行為なだけに、寝る前に自分を抱きしめて欲しいだとか、そうすれば次に目覚めるまでぬくぬく幸せ気分じゃないとか、兎に角そういう甲斐性を紫は霊夢に求めていない。寝顔を見られるのは多分恥ずかしいし、それでいてそんな寝顔を無防備に晒している霊夢はまた可愛いし――そんな塩梅で思考が変な方向へ飛んでいきそうになった紫は、霊夢の柔らかい頬をつんつん突付くことで、軌道修正しようとする。ちっとも修正になってないことに対して、紫は積極的に眼を逸らした。そういうのは、大変得意な大妖怪である。

「やわらか。ふふ」
「んー、んむー」
「ぷにぷに、ほらほら」
「むぅー……」

 一度眠りに落ちた霊夢は、やたら滅多には目覚めないことを、紫は知っている。だから安心して、その柔らかな頬を、突付く。

「いつまで。いつまで、続けられるのかしら」

 この、誰にでも平等な巫女に、こうして触れられることを。
 この、誰にでも平等な巫女の心を、揺り動かすことを。
 そう、紫は考える。

 降り積もった雪が、いずれ儚く消えるように。いつしか、終わることであると。それを思うと、紫はまた、ちょっとだけ哀しくなった。そして、哀しくなったという思いを、ここでまた伴った自分の心を、直ぐに打ち消そうとする。そういえば、己が何かしらの哀しみを覚えるのは、近頃ではこの巫女に関することばかりだったか、と紫は考える。

「馬鹿馬鹿しいったら、ねぇ」

 霊夢の頭を撫でながら、紫は呟く。
 その言葉は。
 やはり霊夢には、そして自分にも、届かない。

 昼時に嘘をついた相手には、夜にまた逢えば良いと、紫は霊夢に言った。
 そうでなければ、嘘はいつまで経っても治ることのない、傷になると。
 しかし、嘘をついた相手が自分であったなら。
 もう幾重にも傷は残り、紫はもう血まみれになっている筈である。

 「すき」というその言葉を、既に直接伝えて尚。
 それは只のお遊びであるからと、紫は自分の中で完結する。
 あまりにも簡単に、言葉を浮かべることが出来たから。
 それらしく己の中で並べ立てることも、また容易。

 つい先刻、言葉を受け取った、博麗の巫女は。確かに心を動かすのは、若干不器用。
 そして、力あるこの大妖もまた、あまりにも、不器用過ぎた。

 真に。
 真に、この幻想郷において、心の動きが見えづらい存在は。
 己を誤魔化し、そしてそれを認めず。
 全てをやわらかいまやかし似た何かと共に沈めようとする、八雲紫である。



 *



「んー……」

 ごしごしと眼を擦りながら、霊夢は身体を起こした。眠ってしまう前も確か暗かった筈だが、今という時がその続きであるかのように霊夢は思う。事実辺りは、ぼんやりとした闇に包まれている。息を吐くと、それが白く染まるのが認識できた。暗がりの最中でも、その熱がぼんやりと見えた。まるでたましいのようだ、と霊夢は思う。たましいは、夏はひんやりとしたつめたさを、冬は曖昧な温もりを持っていそう――寝起きの巫女は、とりとめもない感情を抱く。
 そして辺りの寒さに思わず身を震わせ、肩を抱く。規則正しい生活を送る巫女の寝覚めは、いつもならしゃっきりとしている方。でも、それは朝であるからの話だった。腹時計に尋ねたところ、もう今は夕暮れも過ぎて、きちんと夜である、と霊夢は寝ぼけながら認識する。体内時計の精度は半端ではない。

「んん……? ……」

 腰の辺りに違和感を感じて、手をやる。服は普通にきていたが。

 はいてない。
 見事なまでにはいてない。

「……うわぁ……」

 眠気に引き摺られていた頭が、一気に冴える。記憶が定かならば――と思い、霊夢は敷布団にも手をやってみるが。確か盛大に汚した筈のそれも、真新しいものに替えられている様子。
 余計なことを、とまでは考えなかったが、それに対する感謝の気持ちも霊夢には沸かなかった。

「あっ」

 洗濯物――ふと気付いたように、霊夢はぱたぱたと障子の元へ。そのままの勢いで、それを開け放つ。
 そうして、眼の前の光景に、しばし息をするのを、忘れた。

「雪……」

 闇の最中、白い雪が、ぼんやりとその色を以て、確かに降っている。うっすらと、積もっている。どうりで寒い訳だと霊夢は思いながら、朝方干した洗濯物は絶望的なことになっているだろう――そう思い、かくんと首を落とした。
 そして、その視線の先。縁側の廊下に、紙切れが落ちているのを、認める。何がしか、文字が記されているようだった。屈んでそれを拾い上げ、見る。そこには文字が記されていて、それは随分と達筆であった。


 * * *


 洗濯物は、取り込んでおきました。
 まだ乾いている様子ではなかったので、隣の部屋に陰干ししてあります。
 下着がないとの事だったので、替えを置いていきます。
 ちゃんと新しいものです。
 ご安心をば。

 かしこ。

                                         八雲紫


 * * *


「何がかしこよ!」

 拝啓が無いわよ、誰宛なの、私でしょ、大体手紙じゃないでしょこれ、ああもうそれは良いのよ別に、と霊夢は喚く。突っ込みどころが微妙にずれていても、この場にそれを突っ込んでくれる存在は居なかった。部屋の中を振り返り、よくよく眼を凝らしてみると。なるほど確かに、下着らしき何かが枕元に置いてあるのを、霊夢は見つけた。
 何処の通い妻よ、そりゃ穿かないで過ごすとか有り得ないけど――そうぶつぶつ文句を言いながら、紫が用意したらしいそれをつまんで拾い、両の手でぴらりと広げる。腕を交差させて裏返し、内側も一応あらためる。余計な隙間が空いてないかだとか、主にそういう点を。

「……まあ、見た目普通ね」

 言いながら、いそいそと用意されたドロワーズを穿く辺り、博麗霊夢は大変に素直な性格だった。サイズが何故ぴったり合うのかということも、その時は疑問に思わない程度に素直だった。替えの下着をわざわざ残していった大妖怪とは、凡そ正反対。

 それにしても霊夢が解せなかったのは、今しがた見つけた紙切れが、廊下に落ちていたことである。置手紙として残したならば、一緒に枕元に置いておけば良いものを、と訝しがる。まさか誰かに見られたのではあるまいか、と内心霊夢は肝を冷やすが、それも一瞬のこと。

『どうでも良いか、事実だし』

 そう思うあたり、この巫女は素直なだけでなく、大変潔い性格であると言えた。
 腹時計が狂っていなければ、今は昼の一食を抜いて晩御飯を求める頃であると、霊夢は再確認する。これが一日過ぎて、仮に次の日の夜であったとしても何ら問題は無かったのだが、とりもあえず何かお腹に入れておきたいと霊夢は思う。のそのそと布団を畳み、台所へと足を運ぶ。今日一日、殆ど喰って寝てるだけだという点からは、積極的に眼を逸らすことにした。



 *



「いただきます」

 ちゃぶ台に食事を並べ、緑茶の準備も万端、静かに眼を瞑って博麗霊夢は手を合わせながら言う。
 それは、いつも通りのこと。

 本日の夕餉は、くつくつと煮立つ鍋。野菜を沢山入れて、牡丹肉なんかも入れて、それなりに豪華な食事。独りで食べるには、ことの他量の多さが際立つ様相だった。鍋っていつもお手軽で作りすぎちゃうのよね、一人分の土鍋とか持ってないし、と霊夢は勝手に納得する。あっという間に、既に持っていた白米が一膳をたいらげる。

「お腹、空いてるんだわ」

 ぱたぱたと廊下を駆けていって、また台所へ。山盛りにご飯を盛って、鍋がある上に更なる煮物も付け合わせる。そうだお新香があった、丁度良いじゃない――誰に言うでもなく、それらを盆に載せて、霊夢はまた部屋へと踵を返す。



 *



「あら霊夢、今晩は。美味しそうなお鍋ね、私も頂いて良いかしら?」
「……」

 ちょこんと座敷に座っている存在に言葉をかけないまま、霊夢は持ってきた盆を、ちゃぶ台に置く。

「私の分? やっぱり霊夢はやさしいのね。だからすきよ」

 霊夢の勘は、大概当たる。本人は、そう信じている。
 きっともうひとつの膳を用意するような素振りを見せれば、いつのまにかこの大妖怪は、素知らぬ顔で部屋に居るのではないかと。そう思って、霊夢は自分のとは別にもう一つ、山盛りにご飯を盛った茶碗を用意するのだ。
 博麗が巫女の勘が鋭いのは真であったが、この場合を見る限りは、最早勘と呼べるものでない。どちらかというと、無意識の願望に近いかもしれなかった。しかし霊夢はあくまで心底勘だと信じているから、今朝は珍しくそれを外したのだと思っている。

「鍋、作りすぎたのよ。あんたも食べてけば」
「喜んでいただきますわ」

 丁寧に手を合わせて、紫は膳に箸を伸ばす。

「んん、おいし。ねえ霊夢、もう一緒に住まない? 私の為に、ご飯作って頂戴な」
「馬鹿なこと言ってんじゃないったら」
「いけず。でもそういうところも、良いのよねえ」

 はふはふと、紫は霊夢の作った鍋に舌鼓を打つ。あんまり美味しそうに食べるので、霊夢も流石に悪い気は起きなかった。

「ご飯が食べ終わったら、約束を果たしましょうか」
「あん?」

 紫は、空間に不自然に割けた隙間に手を差し入れ、ぬるりと何かを取り出す。
 それは一升瓶で、明らかに酒であるな、と霊夢は認識する。

「呑むの? せめてご飯食べる前なら」
「あら。夜はまだまだこれからよ」

 言いながら、紫はまた不自然な隙間に手を差し入れる。すす、という音と共に、つめたい風が流れてくるのを霊夢は感じて、冷気の元へ霊夢は顔を向ける。隙間から伸びているらしい手は、障子を開け放っていた。

「ちょっと、やめてよ。さむい」
「寒さも風情のうち。ほら、雪がこんなにきれい」

 部屋の灯りに照らされて、雪がちらちら、ぼんやりと、やわらかく舞っているのを、霊夢は見た。
 まるで、まやかし。確かに其処にありながら、まぼろしの様。
 そして単純に、それがうつくしいと、霊夢は思う。

「……雪見酒、ね。ま、悪くないわ」

 ぱくぱくと鍋の具を頬張りながら、霊夢は言う。
 その様子を見ながら、紫は呟く。

「そうね……ほんとうに。悪くないわ。すきよ、霊夢」
「私はきらい。あんたのことなんか、きらい」
「知ってるわ」

 やわらかい微笑みを浮かべながら言う紫の眼を見て、霊夢はまた、溜息をつく。
 変な妖怪。妖怪の中でも、大妖怪。自分をすきだと言うことなんて、それこそ根っから戯言なんでしょう、とは、いちいち霊夢は言わない。それは、霊夢が知っていたからだった。今鍋をつついている大妖怪が、普段から嘘つきであることを。

 霊夢は悟りの妖怪ではなかったから、相手の心を読むことなんて出来ない。
 だが、この巫女は割かし素直だ。少なくとも、大変に捻くれている大妖怪よりは。
 紫から紡がれた言葉が、仮に嘘であったとしても、それをただ、受け取る。
 受け取って、確かに若干癪であるようにも思ったけれど。
 少しだけ、今の感じは心地よい、という己の感情を、霊夢は信じる。

「どうしたの?」
「なんでもない」

 よっこらせ、と立ち上がり、霊夢は障子を閉めてしまった。
 その足で、紫の下へ向かう。紫は相変わらず笑みを浮かべたままで、霊夢は仏頂面。

「んっ……?」

 そして、相手の有無も言わさず肩に手を回し、霊夢は紫の唇を、自分のそれで塞いだ。
 長く、長く。唇と唇を、ただ合わせるだけの、口付け。
 ぷは、と口を離したあと、霊夢は呟く。

「次」
「え……?」
「次、自分を変に悪く言ったら、許さないから」

 何事も無かったように、霊夢は元居た場所に戻り、普通に食事を再開する。
 全てを知ったような素振りで、霊夢は紫に接したのだった。
 ぽかんとしたまま、紫は何も言うことが出来ない。

「鍋、冷めるわよ」

 淡々と言う霊夢を、呆けながら紫は見ている。
 鍋の汁を飯にぶっかけて、それをかき込む姿を認識してから、紫は声を漏らさないように、笑う。その頬は、確かに真っ紅だったから。
 自分では気付かないが、紫の頬は、霊夢のそれよりも、遥かに紅く染まっていた。


 博麗霊夢は、なにものに対しても平等だった。
 普通に、適当に、半ばことなかれのような態度で、分け隔てなく接する。
 それが幻想郷が楽園の巫女、博麗霊夢に普段見られる、嘘偽りない姿である。


 そして八雲紫は、成功していたのだ。幻想郷の楽園が巫女、博麗霊夢の。その心を、動かすことに。
 紫の紡ぐ言葉は、結果的にその想いを真に伝えている。幾ら本人が、それを嘘にしようと、異様なほど回りくどい思考の過程を巡らせたところで。その言葉は、傍から見れば、それ以上はないという位に直接的。

『このお遊びを、もう少し続けましょう。飽きるまで』

 紫はまた、自分の中でつらつらと言葉を並べ立てる。
 鍋は勿論身体を温めたけれど、たった今、恐らく初めて、向こうから塞がれた唇が、妙に熱いと紫は感じる。

「……そうね、こんなに美味しいものね」

 ――勿体無いわ。

 そんなことを、紫は言った。ごくごく、小さな声で、呟いた。だからその言葉は、霊夢には届いていない。

 紫は思う。
 自分より遥かに幼い、博麗霊夢。
 博麗が巫女、博麗霊夢。
 そんな存在と、こうして鍋を共にして、何でもない会話をする。
 それは存外、何物にも代え難いことなのかもしれない、と。

「雪」
「あん?」
「雪がとけるまで、暫くかかりそうね」
「いいんじゃない。冬だもの。時が来ればとけるわ、きっと。何事も無かったように」


 雪は、相変わらず降り続けている。
 空の隙間を縫うように、ぽっかりと雲が割れて。
 今はまやかしではない満月が、顔を覗かせていることを。
 鍋を突付いているふたりは、知る由も無かった。
 真に、明るい光を纏う筈の、それ。
 月はただ、やわらかい光をたたえながら。
 ぼんやりとしたまやかしを照らし、包む。








 
 


「……以上、あの書置きから推測されることの、まとめ。あの胡散臭い大妖怪が、既に巫女と同衾しているらしいと」
「推測もへったくれもないと思うんだが」
「どうするの。もうお手上げじゃない」
「駄目よ。我ら魔女同盟、ここで引っ込むには早すぎる」
「お前ら外に出ないから駄目なんだって。私はしょっちゅう神社に顔を出してるが」
「やはり積極性……それが私達には足りないということなのかしら」
「とりあえず呑んだくれましょうか」
「異議なし」
「八海山ある?」


 魔女たちは、現実から積極的に眼を逸らした。





* * *

 お読みいただき、ありがとうございました。
いこの
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作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2009/01/10 19:10:16
更新日時:
2009/01/10 19:10:16
評価:
12/13
POINT:
108
Rate:
1.90
1. 10点 ななし ■2009/01/11 01:15:15
霊夢が可愛すぎてもうね
理想のゆかれいむでした
2. 7 名前が無い程度の能力 ■2009/01/11 19:14:43
ゆかれいむ!ゆかれいむ!
3. 10 名前が無い程度の能力 ■2009/01/11 23:28:20
素敵なゆかれいむでした。
魔女組の逆襲も読みたいかもw
4. 8 東月陽西 ■2009/01/12 00:46:28
ゆかれいむが大好きな私にはご馳走でしたw

いや、可愛いよ霊夢可愛いよ霊夢WW
冬眠はどうしたんだとか考えられない程、良かったです!!!
5. 10 名前が無い程度の能力 ■2009/01/13 02:06:39
理想のゆかれいむでした
6. 8 nanasi ■2009/01/16 00:21:27
このなんともいえない雰囲気がとても好きです

ああ、でも、もっとまっすぐ行けばいいのに、と思うも
彼女らにとってはそれがまっすぐなのかも、と考え直してしまいそうになる二人の関係も
7. 9 名前が無い程度の能力 ■2009/01/21 15:12:04
これはいいゆかれいむ
雪のように消えたいと思いながらも、その雪がとけるには時間がかかるって認めちゃってるゆかりんは可愛いな

魔女三人組みはご愁傷様w
新潟の銘酒「八海山」うまいよねww
8. 8 グランドトライン ■2009/01/21 21:00:10
紫は可哀想な生き物である。相手が平等で人間であるゆえに。

胡散臭い理屈を呟いたり、自らに嘘をついて楽しんだりする紫の雰囲気がいかにもという感じで上手でした。
そして彼女の心理描写のほうもなかなか奥深く出来ていました。

しかし、テーマが『雪』よりも『嘘』がメインになっている気がします。
ちゃんと雪をテーマとして扱っている感じはしますが、紫の描写が上手いだけにそう思ってしまいます。

ですが、ネチョの描写が詳しく、物語の進め方も良く出来ておりました。
エンディングもいい感じでした。

そしてあとがきの魔法使い達よ。それでいいのか?
9. 10 ナナシン ■2009/01/23 19:20:39
感無量。理想のゆかれいむを此処に見ました。
自分が博麗の巫女である事、平等であろうとする事に縛れる霊夢と、その鎖を解き放ちたい本心を誤魔化しながらも抑えきれない紫。お互いを愛する確かな気持ちがあるのに、凍りついたまま進展しない二人の関係。しかし雪解けの日が訪れないことがないようにいつしか二人が真実寄り添えあえる日が来ることを予感させる余地が確かに感じられる。二人の未来に幸あらんことを願っています。
10. 8 名無し魂 ■2009/01/23 19:49:13
>>『このお遊びを、もう少し続けましょう。飽きるまで』
霊夢の心を動かしたい紫が平等な巫女霊夢の心を揺るがせようとした感じ。
というか紫は通い妻。霊夢に愛されたいようですな。

霊夢は幻想郷の全住人から(性的に)狙われてるようだが、誰がこのレースを勝ち抜くのか…?
11. 10 泥田んぼ ■2009/01/23 23:41:24
霊夢の不器用な愛と、紫さまのまわりくど過ぎる愛に、
心が動かされました
日常の描写と、心情、ネチョがきれいにまとめられていて、
読んでいて心地よかったです。
素敵な話を、本当にありがとうございました……

と、ここまで書いて最後の十数行で茶ぁ吹いたじゃないかwwwこのやらうww
12. 10 名無し妖怪 ■2009/01/23 23:41:57
これは良いゆかれいむ。
お題の使い方がシンプルで、お話のよさが際立った気がする。
13. フリーレス ■2009/01/28 15:27:51
ふわふわとした甘くでもすこし感傷的な雰囲気が最後の魔女たちで軽い仕上がりになってて良いと思いました
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