扉が開きます。扉付近のお客様はご注意ください。

 人いきれで人間臭い車内に外からの冷たい空気が入り込み、外気の清清しさにほっと息をつく。夕闇にほの暗く姿を現す鶯谷は閑散と人影はなく、一足の革靴の足音が遠ざかり、警戒音と共に閉まる扉によってそれも掻き消えた。

 流れる景色を食い入るように意味もなく見つめる。
 マンモス団地、ラブホテル街、墓場…。鶯谷にはそれらが密集して混在していた。

 誕生から墓場まで…か。うまくできてるもんだな。
 隣で同じように窓の外を眺めて、一人合点いったのか呟いた。
 確かに。俺も内心頷いた。
 マンモス団地で出会った不倫の二人、近場のラブホテルで愛情に似た感情を確かめ合い、秘密は近場の墓場まで持って行く、そんな人間がいないとも限らない。妄想の海で裸足をさらしてちゃぷちゃぷとやる。


 降車して改札を出る。完全に日が暮れた道をとぼとぼ歩く。
 行く手には薄暗い小道。その奥には林を切り開いた墓地がある。いつも静寂に満ちているが、真夜中に墓地のわき道を通ると時折ひそひそと話し声がきこえた。
 話し声がするね。
 話し声。俺にはきこえない。
 そうか、と俺は思った。あんなにあんなにざわざわとしているのに。
 ちなみに、なんて言ってるんだい。
 …ふふ。お前達は馬鹿だって。
 余計なお世話だな。

 確かに俺達は馬鹿だ。そんなことはずいぶん前から自認していたし、変えられるものでもない。腹の中でくふふと笑いながら夜道を進む。

 あそこには芥川がいる。なんだい、河童みたいな顔をして。いや、死神かしらん。結局のところ薬漬けで死んじまった素敵な人。あなたの小枝のような人差し指を握り締めながら、とがったのど仏から響く声を聞いてみたかった。

 じゃあ俺が代わりにさ、 囁いてやろうか。蜘蛛の糸の一節でも。
 冗談、お前の声なんて聞き飽きてるし、指まで筋肉がついてやがる。
 言ってくれるね。お前が死んだって経の一つも読んでやらねぇよ。
 それは寂しいから止めてくれ。

 お前死んでもどこにもやらぬ、焼いて粉にして酒で飲む。
 首に絡まる赤い糸。未練たらしくきっても切れぬ。

 てんで違う歌を口ずさみながら芥川の青白い顔の横を通り過ぎる。耳に彼の吐息が吹き掛かった。


 彼は足をふらつかせながら何だか足元がぐにぐにしていると呟く。
 そうかもな。お前は何を踏みつけてんだ。さあな、まるで暗くってさ足元なんて見えやしないだろ。見たくないだけだろう。かもな。
 …なんて、本当は、見えたのだが、声には出さなかった。お前の足元には白くて細い手があったよ。物言いたそうに指と指の間を広げたり閉じたりしていたよ。どちらも可哀想に。しかしそんな優越感に浸る俺こそが実は一番に哀れだった。

 俺達は何を捨ててきたのか、何を選んできたのか。
 捨ててきたもの全てが時々、恨み辛みを呟きながら目の前に現れそうで戦々恐々としながら暗い道を歩む。選んできたもの…何を選んで今に至るか、実感はあるか? 何を捨てて、前に進んだのか覚えているか?
 それを考えると背筋が寒くなる。
 …俺は覚えているよ、母の手を離し父の腕を振り払い、お前の歌声と小さい箱みたいな部屋を選んだのさ。
 俺はふふふと笑った。
 唯の影の癖に口説こうとするなんてな。やるじゃないか。
 酷いな、影だなんていうなよ、ちゃんとここに居るだろう?
 …どうだか。


 いつの間にか足元はアスファルトに変わっていた。電柱に縛り付けられたような灯もぽつぽつとあり、道を照らしていた。そんなに長い距離を歩いては居ないのに、ずいぶん歩いたような気はしている。部屋まであともう少しだ。
 手をつなごう。
 なんだよ藪から棒に。
 暗いしさ、寂しくないようにさ、手をつなごう。
 差し伸べられた手を横目でちらりと眺め見て俺は先に進んだ。手のひらを残念そうにゆっくりと下ろす気配がした。
 そういうのは俺が本当に寂しいときにやって欲しいもんだ。
 …お前の都合じゃねぇんだ。俺の都合なんだ。
 お前の都合に合せてやるほど親切に見えるか?
 菩薩様のアルカイックスマイルぐらい仄かには。


 道沿いに池がある。いつもは静かに気配を殺しているような池だ。それが、暗闇にぬめぬめと池が光って、こちらを見ろと主張する。鬱陶しく思いながらも池を見つめると、風も吹いていないのに水面が細波立っていた。波紋の中心をたどると、黒い嘴が池の水をかき回している。嘴の主は、黒い羽を逆立て、細い棒っ切れのような片足を池に突っ込み、もう片方を折り畳んだ姿で佇んでいるのだった。
 黒鷺が不意に池から顔を上げる。
 黒鷺の無心の動作に、意識せずほうと吐いた溜息が、澄んだ秋の空気に溶けた。街灯で金色に輝いた瞳がこちらを一瞥した。そしてまた、池に嘴を深く突っ込み、水面を波立たせる。
 池の周りの土はぬかるみ、柔らかな感触を足裏に伝える。
 黒鷺を飛び立たせないようにゆっくりと柳の下まで歩み進める。黒鷺は近づく気配には関心がないらしい。逃げる様子もなく、まだ池を嘴で探っていた。池を覗いてみると、ぼんやりと光を放っている魚が一瞬、現れては泥で濁った水中に姿を隠した。
 …光っているように見えた。
 ああ、まだ小さい鯉のようだったな。
 一瞬姿を見せた鯉はまた、水中の濁りから光をまとい現れ、細い髭を靡かせては濁りの中へ消える。鷺はその鯉を追っているようだった。
 今の鯉は、鱗が光って見えたね。新種かな。
 …餌にしようとしてるんだな。
 腹が減ってるんだろう。

 黒鷺は、最初、鯉の俊敏な動作を追いかけるのが精一杯のようだったが、観察しているうちに動作が鯉に追いついてきているようだった。

 そいつで腹を満たすのは止めた方が良い。
 意識せず口から飛び出たのは黒鷺に向けた言葉だった。
 ぴたりと動きを止めて首だけをめぐらせて俺を金色の瞳で見る。だが、また直ぐに水に嘴を突っ込んだ。
 
 その鯉じゃなくても他にも居るだろうに、何故執着するんだ。
 光っているのがいいんだよ。きっと気に入ったんだ。
 気に入ったものを食べてしまうのか。異種間での愛情表現は捕食に他ならないのか。
 畜生だからな…。だが、考えてごらん。人間が異種へ示す愛情表現も、食欲という形で還元されるんじゃないか?
 じゃあ家庭で買われている犬は頃合を見て人間に食われちまってるのかい?
 さあ、この飽食の時代にそれはないとは思うけど、近国ではつい最近まで犬を鍋の材料にする習慣もあったようだし、キリストが生まれる前からの人類の歴史を考えると人間が食ったことのない動植物はないんじゃないか? 勿論人間も含め。
 
 黒鷺の動作を鈍く光る瞳で捉えながら呟いた奴の横顔は少しの笑みもなかった。
 胃は食べ物で、心は愛で、脳味噌は知識で満たしていかないと、俺は心地よく生きられないが、さて、人間以外の畜生はどうなのかな。
 緩やかに吹いてきた風が簾の様な柳の葉をゆっくりと揺らす。


 もう、帰ろう…家まですぐそこだし、夜風が冷たい…。
 あと少しぐらいいいだろう。決着する。
 黒鷺の嘴に視線を注ぎながら言う。
 決着など、結末などは見たくない。今にも吐いてしまいそうだった。
 構わず帰ろうと池に背を向けて歩き出した瞬間、背後で一際大きな水音がした。
 はっとして振り返ると、黒鷺の嘴に小さな鯉が捉えられていた。月のようにぼんやりと発光する鱗をはらはらと散らしながらもがくその姿は、琴線に触れた。綺麗だけど酷くおぞましい。
 そう思ったら胃の中身を泥の上へ戻していた。逆流する物に気道を妨げられ、一旦はおさまった吐き気も口から大きく呼吸したことでむせ返り、何度も泥の上に身を屈めた。

 美味そうに食ってしまったよ。
 返事を求めない声が、声の出せぬ俺の上から降ってくる。息が整わず、涙が目頭から溢れた。

 …はぁ…っ…は、う…あ…ぐ……

 腕を取り引き起こされ、ハンカチが握らされた。
 手の甲で口元を拭いながら泥と吐しゃ物で靴底を滑らせつつ、ふらふらと立ち上がり、押し付けがましいハンカチを上着のポケットに押し込んだ。

 直ぐにも千切れそうな神経だ。やっぱり、俺が居ないと生きていけやしないんだろう?
 見返すとにやにやしながら、さあ家に帰ろうという。
 息をするのが辛い。口内が粘ついて、意識するとまたえづいてしまいそうだ。掌で頬を伝った涙を拭った。

 背後では食事を終えたばかりの黒鷺がゆらりと揺れ、水面を乱す。
 柳の葉が風でふくらみ、視界が暗緑色に奪われる。ちらりと葉の隙間から世界が透ける。差し出された右手の背後で、芯を失いゆっくりと倒れた黒鷺がみえた。
 目の前を遮る柳の葉を払いのけて池の畔まで歩き、池に半身が沈んだ黒鷺を見る。鱗を金色に輝かせた鯉が、何匹も数え切れぬほど現れ出でて我先にと争いながら黒鷺の死体に喰らいついていた。
 黒鷺の瞳は変わらず街灯に照らされて金色に輝いている。


 月のない夜の薄暗闇の下、肌を撫ぜ体温を奪う風に身を任せる。後は冬を待ちながら枯れてしまうだけの草木の匂いに胸の奥をうずかせながら、緩く坂になった小道を並んで歩く。アパートを見上げる。階段を上る。鍵を受け取り、開錠する。


「ただいま」
 玄関に入り電灯のスイッチを手探りで探し当て、明かりを灯す。途端、空腹を感じた。今日の夕飯はコンビニエンスストアで買った好物のナポリタンパスタだ。手に提げたレジ袋がカサリと音を立てる。今日は疲れた。早々に食事をしてシャワーを浴び明日に備えるとしよう。ため息を一つ吐き出し、靴を脱ごうと踵を持ち上げる。

 左足の踵から靴が脱げた。濃紺色のパンプスのヒールがカンと高い音を立てて玄関に落ちた。



― 終 ―

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