欲と戯れの所在 4 柳
「俺を支配したいなどと言うつもりではないのだろう? ならば、脱げ。羞恥は平等に負って貰うぞ」
喜びに浸っていると、問いと共に軽く頬を叩かれた。
それにすぐさま頷けば、指先でベルトの留金を弾かれる。震える指では、ズボンと下穿きを取り去るまでに少々の時間を必要とした。
蓮二の長い指に示されるまま、足を投げ出して床へと座り込むと、緩く開いていた足の片方を蹴飛ばされる。
自らの足で作った場所に跪き、薄い唇を曝け出された熱へと寄せていく姿は、視覚からの昂りを覚えずにはいられない。
その感情は、濡れた口内へと導かれただけで、体が芯まで溶けていくかのような快楽へと変わった。冷たく艶やかな髪が大腿を擽っている。
人から与えられる初めての快楽に、迸る熱を抑える術はない。それは、誰によっても為されるものではないと信じている。愛しく思っている者が、己と思いを同じくしているのだと感じられるからこそのものなのだと。
だからこそ、限界は目前にある。
だが、その前に顔を離され、背を向けられた。
当然のことだと頭では心得ていたが、嘔吐きながら咳き込む背中を摩りつつも、申し訳なさよりも切なさが押し寄せた。
(無論、わかっとる。俺とて、容易なことだとまでは断言できん。わかっとる、わかってはいる、が……、しかし……そこまでせんでもよかろうに……)
引いていく熱と代わるかのように薄らと熱を帯びた目が、蓮二の姿を霞ませた。
「続きは後だ。帰るぞ、弦一郎」
「む? う、うむ」
掛けられた常と変わらぬ声に、未だ眉を顰めてはいるが漸く落ち着いたらしいと知る。
事態を把握できないまま、急ぎ服を纏う。袖で口を拭いながら残る手で荷を肩に掛け、そのまま戸口を出て行く背中を、荷を引っ掴みながら追った。
帰路は、一切の言葉がなかった。
無言のまま先を歩く背に導かれ、蓮二の家へと足を進めた。
家へと入るなり、グイグイと腕を引く蓮二に引きずられ、風呂場へと直行させられた。
だが、蓮二は行き掛けに居間へと手を伸ばし、何かを手に取ったようだった。
さっさと服を脱ぎ捨て浴室へと入った蓮二が残した「暫く待て」との言葉に、今は脱衣所で呆然と立ち尽くしている。
無論、裸だ。蓮二は戸を潜る際に、顎で脱衣籠を示して行った。
俺と蓮二とを仕切るガラス戸は、何やら作業をする影を薄らと映している。
「いいぞ。入って来い、弦一郎」
幾分かの時を経て聞こえた声に、うむと小さく口の中で返し、浴室の扉を開く。
「う……」
絶句するとは正にこの事。
洗い場に敷かれたマット。片付けたのだろう、石鹸入れは窓側の棚へと上げられている。蛇口から音を立てて湯を増やされている、湯気篭る浴槽。
そして、目の前にあるのは、名工の手による陶器の如き、滑らか且つ艶やかな素肌。マットに座る、眩むような蓮二の色香は、千言尽くしたとて語れない。
だが、それらが理由で言葉を無くしたわけではなかった。
「れ、蓮二……。その手にしている物は何だ?」
「剃刀だ。それ以外の物に見えると言うならば、今すぐ服を着て病院に行った方がいい」
すぐさま返された言葉は、欲しかった答えではなかった。
わかっている。見た瞬間に、確かに理解していた。その長い指で抓んでいるのが所謂安全剃刀≠セということは。
しかし俺が聞きたかったのはその名称ではなく、その用途だ。
「お前の望みに、その剛毛は邪魔だ。俺の口が断固拒否しているからな」
言葉に出さぬ思いを悟ることは、蓮二には容易なことらしい。更なる答えも早々に与えられた。その言葉面には、戯れにも似た軽さをも乗せている。
だが、唇に浮かばせている笑みには、揶揄を含む柔らかさはない。
本気だと悟り、僅かに後退る。
俺が負荷を強いたならば従うべきだ。わかってはいても、それでは用足しや水泳の授業はどうなると躊躇が先に立つ。無論、家の者への言い訳も必須だ。
「嫌ならばいい。服を着て帰れ」
俺の逡巡に業を煮やしたのか、笑みを消した蓮二が指を戸へと向けた。荒げることのない声に、寧ろ激しい怒りを感じる。
その怒りは当然だった。この躊躇は、蓮二には苦を強いておきながら、己に降りかかる面倒事は避けたいと言ったも同然なのだ。
「……すまん」
胸を圧する罪悪感に、一言の謝罪しか出なかった。
だが一度だけ微かに眉を寄せた蓮二は、顔に笑みを戻し受け入れた。
「理解したなら、そこに足を広げて横になれ。ああ、切られたくなければ動かない方がいいぞ。俺も経験があるわけではない」
顎でマットを示し、剃刀を逆手に変えた蓮二は、端に寄せられていた髭剃りのクリームを手にした。そして、左手の甲へと器用に泡を乗せていく。
その間に言われた通りの体勢を取る。マットの上で大の字になり、蓮二の手をただ待つのは顔から火が出るような羞恥があった。
存外大きな蓮二の手が、泡を纏いながらゆっくりと滑っていく。冷えるような薄荷の沁みが、逆に熱を篭らせる。明々と照らされた室内で、形を変えていく欲の象徴。
「ああ、一つ言っておくが、剃り終えたら消毒もするぞ。少し……沁みるかもしれないな」
それを揶揄することもなく、淡々と手順を告げながら手を濯いだ蓮二は、床に置いていた剃刀を取る。ただ、どうにもその言葉が不穏に聞こえるのは何故か。
スッと流された視線を、僅かに体を起こしながら追えば、開け放しの脱衣所の隅に酒瓶らしきものが見える。
先刻その手にしていたのはこれかと、幾つかの疑問の一つが解消された。だが、これが何かはわからないままだ。
「日本酒だ。貰い物だが、父の好みとは外れていたのでな。口にするなら、消毒薬は不可だ」
ラベルを確認しようと細めた目への返答は常と変わらず早かったが、その内容には思わず眉を寄せることとなった。
飲食物を粗末にするのは性に合わない。
だが、その由をすぐに告げられ、言葉は封じられた。口に入れるには、外用薬は確かに不向きだろう。ましてや、望んだのが俺であるのに、何を言えるというのか。
そこまで思いを飛ばした後、不意に気付いたそのあまりの直裁さに顔を熱くした。
俺が強いたが為に取らせた行動を非難するようなことを考えた。照れもあったが、何よりもそのことへの謝罪をと口を開く。
「その、すま…………あガっ!」
だが、急に圧迫を覚えた急所が悲鳴を上げた所為で、最後まで告げることはできなかった。
腹奥にまで達するような痛みは、出来れば経験したくはない類のものだ。お前もそれは重々に承知だろうにと、痛みで潤んだ視界に蓮二を映せば、眉を寄せた顔が僅かに俯いている。
「言うな。今日は既に聞かされた。……お前の口からだけは、言い訳や謝罪を聞きたくはないんだ」
小さく言葉を落とした薄い唇は、耐え難いというように震えていた。
僅かではあれど俺よりも高い背と、しなやかながらもしっかりと付いた肉を、蓮二は持っている。
それでも、儚げに見えた。
ゆっくりと腕を伸ばし、細身の体を抱きこむ。
滑らかな白い肌を、欲を以ってではなく抱きしめる。
局部の泡を触れた腹へと移しながら、引いていく熱が愛おしさへと変わり、胸へと押し寄せていく。
ズクズクと疼くように残る痛みが、胸を締め付ける甘い痛みに塗り替えられていく。
「蓮二がそう望むなら、二度と言わん。だが、お前にだからこそ、俺は何の躊躇いもなく頭を下げられるのだ」
耳へと落とした囁きは、明け透けなまでに本心を晒していた。
思う者が眉を寄せた姿など、誰が見たいと望むのか。それでも、蓮二が望まない俺の姿はお前を思うが故なのだと。
だが、全てを打ち明けることは大事なことなのだ。あまり聡いとは言えぬ俺には、こうして触れ合った肌と肌とが温みを分け合うように、互いの心を分かち合うための言葉がいる。
「それでも聞きたくはないと、そう思うことは我儘だろうか」
柔らかに肩へと乗せられた重みが、小さく動く。耳に当たる吐息と共に入った言葉が、風となって胸の炎を煽っていく。
囁きに込められた俺へ向ける甘えが、狂おしいほどに愛おしい。
「いや、構わん。お前の望みを叶えられることは、喜びだ」
蓮二の喜びこそが俺の喜びなのだと告げ、腰へと回した腕に力を込める。
「そう、か? いや、そうだな。俺も、弦一郎の望むことを叶えたいと思った」
思うが故の破廉恥な欲望に返されたのは、戯れのような承諾だった。
だが、その在り処は俺と同じ故だったと蓮二が告げている。
感動に打ち震えていると、「いや、叶えてみせる」と続けられ、体が離れていく。
持ち直された剃刀が、蓮二の手の中でキラリと蛍光灯に反射している。
目を刺すような光に僅かに湧いた恐れを捻じ伏せ、視界を閉ざしながら体を倒した。
これも、愛ゆえなのだと。
床へと剃刀を置いただろう音が風呂場に響いた。
体を起こし、洗面器を湯船に沈めている蓮二へと口を開く。
言葉にできなかった思いを告げるために。
「俺は、蓮二が好きだ。否、愛している」
「……知っている」
らしくもなく間を置いた蓮二から、囁くような声が返った。
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