感情と感情の駆け引き 柳
「俺、蓮二のことが好きなんだけど……」
スクールからの帰り道、隣を歩く貞治がポツリと言葉を落とした。
「それは、どういう意味で、だ?」
立ち止まった体を隣へ向け、口を開く。互いに合い難い視線を絡めるように、レンズの奥の貞治の目を見据えながら。
『俺もだよ、貞治』
笑いながら、そう返すべきだったのかもしれない。
何も知らないと言外に告げ、柔らかに躱しておけば良かったのだろう。ただの暑苦しい友情話として。
それ程に、粘性の感じられない声だったのだから。
「恋愛感情、かな?」
問いに与えられた答えは、曖昧な言葉だった。だというのに、貞治から感じる視線は強く、真摯を以って射抜いてくる。
逃げ道は幾らでもあった。同性であることや、未だ齢十を数える程度であることを筆頭に。
『感情という名のファクターが齎すイレギュラーを好まない』と言うのでもいい。データを操る者としては引き下がらざるを得なかっただろう。
「よく、わからないな。まだその感情は経験したことがない。だが、他ならぬ貞治が相手だ。要望はできる限り聞こう。どういった感情なんだ?」
だが、口は意に反して動いた。理性が出した答えを呑み込み、己の出せる最も本心に添った言葉を告げてしまった。
頬を擽る髪を払い、捉え難い貞治の目をひたと見つめたままに。
「うーん、…………ちょっと移動したいような感情、かな?」
微かに視線を逸らした貞治は、答えに暫くの間を作った。
作られた空気と言葉の意味とを悟れないわけではない。だが、理解を表へは出さず、徐に場を移そうとする背を追った。
行き先の予想は難くない。俺と貞治の間には、それだけの繋がりがあった。
予想違わず、着いた先は通り一本先の小さな公園。その中心に据えられた、穴倉。
隣に座る貞治の呼気が近い。コンクリートの壁は息遣いまでも篭らせている。預けた尻と背への冷たさが息苦しさを緩和していなければ耐え難いほどだ。
髪先とコンクリートが擦った音がする。呼気が頬に当たる。
向けられているだろう視線に熱量は少ない。だというのに、刺すような激しさがある。吸引されているかのように、顔が貞治へと向いた。
「たとえば、手を繋ぎたいと思う」
「手ぐらい繋いでいるだろう?」
目を合わせながら告げてきたのは、ささやかな願い。だがそれは、先に見える引き返すに厳しい言葉への序章でしかないのだろう。
それを理解してなお、次を促した。
「えーと、それでキスしたい」
「……頬や額にならしてやってもいい」
一つ、階段を上る。
上位である立場を崩すことなく、譲歩を告げた。
「口に」
「…………努力はしてみよう」
また、一段を。
僅かな躊躇を呑み込み、追い縋るその手へ指先を触れさせるように。
「それから……」
「まだあるのか?」
今更の、制止。先を予想している以上は何の役にも立ちはしない。
それでも、引き返したいと足を止めた。
「セックスもしたい」
引き返しはしないと、貞治が並ぶ。
引き返させはしないと、俺を追い越していく。
「男同士で、か?」
小さな抵抗。そして、それは大きな障害となる。
「う、ん……、ソコが難点なんだよね。一応、図書館で資料は見たんだけど、やっぱり異性間でのものしか見つからなかったから」
息を吐き出した貞治の口元が苦く笑う。
引き返すことができた一段は、危うい均衡を保っていた。
僅かな緩みに落としそうになった安堵の溜息を呑み、対峙しているかのような空間を変えようと否定の言葉を口にする。
「確かにな。性交とは男性器を女性器に挿入し、精子を卵子に受精させることを目的とするものだ」
「でもセックスのことを一つになるって言い回しをするだろう? なら二人が繋がればいいんじゃないかな?」
再び駆け上がろうとする貞治の言葉に、鼓動が跳ねた。
これは、策に嵌ってしまったようだ。
針に掛けた魚は、緩急をつけて引くもの。一時の緩みに気を抜いた魚は、強い引きに釣り上げられてしまう。
「唇だとキスだけどね」
笑いながら続けた貞治に、長く諦めの溜息を逃がす。
決して嫌いなのではない。互いが同性であることへの嫌悪が湧いているわけでもない。ただ、先の言葉通り、まだ恋愛感情というものを理解できていないだけだ。どちらかといえば、貞治のことは好きの部類に入るだろう。この『好き』が親友としてのもので良いならば、大きく肯ずるのだから。
だが、引き返したい理由はもう一つある。貞治の告白に、意思と反した言葉を返した自分への警戒だ。何か、自分の中に理解し難いものが蠢いている気がしてならない。
それでも、深く吐き出した息に了承が乗ってしまった。
結局のところ、邪気無く見える貞治の笑顔には弱いのかもしれない。
「なら、疑似性交か。凹状の形態が必要だな。……ふむ、男の体の構造から考えて四箇所ほど候補が挙げられる」
望みを叶えてやると決めた以上、問題を解決しなければならない。頭から足先まで、一通り貞治を眺め下ろし、幾つかの仮定を作り上げていく。
「四箇所?」
「ああ、男性器の形状からある程度の大きさの穴が必要だ。それを踏まえ、まずは上から……両目」
小さく首を傾げながら問う貞治に、大きく頷いて見せる。頭の中に描いた体の構造図を吟味しながら、順番に告げていこうと貞治の目へと人差し指を向けた。
「ひィッ!」
貞治は情けない声を上げ、両目を押さえて蹲る。俺が指先を当てたという訳でもない。恐らくは想像の痛みに恐怖を覚えたのだろう。
コンクリートが反響させた高い声が耳の奥に残る。
意外な一面にデータを脳内で遊ばせながら、僅かに首を傾げる。貞治のその姿に背筋を何かが走り抜けたからだ。
だが、その感覚の正体を辿ることはできなかった。思考に沈もうとしたところに、邪魔が入った。
縮こまったまま恐る恐るといった風に顔を上げる貞治の仕種が、勝手に俺の口を開かせていく。
己の意思を抑えられたかのような、微かな不快と不安。
「当然だが、これは却下だ。眼球がある以上は無理だろう。テニスができなくなる。失明の危険があるからな。次に、口。これは十分な大きさがある上に、特段の危険はないと思われる。最後は肛門だ。排便時を考えれば挿入可能と判断できる」
「に、二択ってわけだね……」
掠れた、小さな声。
緩みそうな頬を抑えなければならないのは、何故なのか。
俺が言葉を発する度に、ビクと震える貞治の体。
不快と不安を超える、何かの感覚が湧き上がっていく。
「まあ、そうなるな。だが、性交の擬似的な体験だと言うならば、肛門の方が形としては近い。それに、唇ではキスだと言ったのはお前だ。第一、口の場合はフェラチオという性行為の一種としての名称があるからな」
滲む涙の熱で薄らと曇った眼鏡を見下ろしながら、身体的に楽であろう選択を潰す。嫌悪という精神的な苦痛を考えなければ、だが。
「い、痛いかな?」
貞治の声が更に小さくなった。問い掛ける唇は目に見えて震えている。
何故、だろう。
今も体に広がり続けている悪寒にも似た感覚が、正解を出したと告げるのは。
何かが背筋を這い登っているような気がする。
「恐らくは」
口調も表情も平静を装いながら、短く答えた。
見上げてくる貞治の顔は、まるで泣きながら笑っているような歪みを見せている。
「えーと、前言撤回しても、いいかな?」
躊躇の言葉は、貞治へと移った。ゴールへ踏み出した足を引くような、振り切れない無念さを声に滲ませているというのに。
「ん? どうした?」
膝に乗せた手が、爪を立てているのが見える。
問い掛けながら顔を覗き込むように体を寄せ、その手の上に己の物を柔らかく重ねた。
赤味を作った膝に、この爪を強く重ねたらどんな顔をするのだろう。
胸の奥から湧いた疑問は欠片も外へは出さず、唇を緩ませた小さな笑みを作る。
「だって、蓮二に痛い思いはさせたくないよ」
申し訳なさそうな口振りが、思考に僅かな掻き傷を作る。
己の中で渦巻く、滑りを帯びた未知の感情。それが叫び出したい衝動を連れてくる。
否、と。
そして、唐突に理解した。
己の中にあった感情が何かということを。
求めているのは、痛みの中で生まれる感情の軋みだった。
寄せられる眉を、滲む涙を、噛み締める唇の震えを求めている。
この手で与える苦痛によって、怯えに鳴く声が聞きたい。
この口で囁く裏切りによって、驚愕に染まる瞳が見たい。
愛ではない。恋でもない。まして、これが友情などではあるはずがない。
大切に思う心とは裏腹に、この足で踏み躙りたいと思うのだから。
知りたくはなかった。友で、ありたかった。
傍らにいられるのは、何時までなのか。
「撤回しなくても構わないぞ。俺が性器を使い、お前が肛門を使えばいい」
一筋の悲しみを胸にしながら、引き返せない道を進む。
既に気付いてしまったのだ。既に始まってしまったのだ。
今までの話を撤回したとて、ただの友人には戻れない。
貞治は俺を恋愛対象とし、俺は貞治を欲の対象としているのだから。
突き進むしかないではないか。
まだ、共にいたいと願うのならば。
「え? お、俺が女の子役なの?」
驚きに裏返る声と、レンズの奥の見開いた目。
背筋に電流が走るような感覚が、皮膚を粟立てる。
まるで、一瞬の気の緩みも許されない試合をしている時のようだ。
恐怖を感じているわけではない。いや、ある意味では恐ろしいと思っているのかもしれない。
このままでは、己のデータを崩されるのではないかと。そして、己を制御できない瞬間が訪れるのではないかと。
「いやなのか?」
肌の感覚が鋭敏になっていく。
それでも、一滴の汗も見せないまま口を開いた。
何も感じていないかのように、平然と。声音に一切の感情を乗せずに。
「だって蓮二の方が可愛いじゃないか」
ズレてもいない眼鏡を押し上げた指が、微かに震えている。
頬は柔らかな朱を刷き、冷静を装う声も未だ高いままだ。
想定外の意見だったと、その態度が教えている。
流石にこれは気に障った。同性であるのだから、両方のパターンを考えておくべきだろう。
故に、胸に蟠っていた、自らの感情に巻き込むことへの僅かな躊躇を蹴り飛ばした。
「そういう問題か? 寧ろ、行為中に勃起できるかの方が問題だと思っていたんだがな」
立ち上がりながら口の端を吊り上げ、視線に棘を含ませ見下ろす。
返事を聞く前に体を外へと移し、閉塞感からの解放に肺を大きく膨らませた。
「俺は蓮二が相手なら自信があるよ。だから俺が……」
追うように出てきた貞治が、見えたと信じた光明に縋る。
釣りは駆け引き。力押しだけでは、釣れる魚も釣れはしない。
俺が先刻の逆を辿らせたと貞治が気付くのは、逃げる道を塞がれた後だ。
「今日は準備が要りそうだ。ん……、明日の練習後に、俺の家でどうだ?」
聞こえなかったという態で言葉を切らせる呟きを落とし、暫しの考える振り。
体を反し、微笑みながら問いを口にすれば、貞治の返す答えは決まっていた。
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