信を嘲う狂気
島内に響き渡った名前を振り切るように、一度だけ大きく深呼吸をした。
そして、重い体を引き摺るようにのっそりと足を進める。
「大和部長……、僕は……僕たちは、信じることも奪われるんですか?」
ここで目覚めてから、何度も空に呟いた問いを、また口にする。
これで、三人の仲間を失った。
いや、違う。十五の仲間の命が喪われてしまったのだ。
いつの間にか、頭に描く顔が狭い範囲に絞られていっている。
度毎に行う修正が、徐々に力を弱めているようで、体に震えが走る。
胸の奥へと侵食する深闇の紅に、対抗できる色はただ一つしかない。
僕たちの青。僕たちの空。
大きな優しい手が、綺麗に澄んだ大空に描いた、深い夢の煌き。
強い意志を瞳に込めて、コートに踏み出していったキミの言葉を、風が戯れに再現しながら耳を擽る。
(そうだね。うん。僕も負けないよ。キミも、きっとそう言ってくれるよね?)
未だ見つけられない厳めしい顔を脳裏に思い描いて、無理やり心を前へと向ける。
意識しながら柔らかく口元を緩めて笑みに似た表情を浮かべた。
信じたくない現実を見たのは、目覚めたその日だった。
広がる濃密な自然の匂いが、目覚めに抗う僕を起こした。
遠く幾つかの建物が視界に映り、屋根のない平原で寝ていたと知らされた。
耳から入った声は、あまりにも知り過ぎていて、ただ「嘘だ」と呟くしかできなかった。
小さく震えながら蹲り、聞きたくないと両手で耳を塞いだ。
知っていた。
これが嘘であるはずがないことを知っていた。
見覚えのない風景と、首に触れる戒めの重さ。
震える指で開けたバッグの中に見たモノ。
そして、大和部長の声の不自然な明るさ。
その全てが、僕たちの現実を教えたから。
それでも僕はこの状況を受け入れたくなかった。
大好きな人たちとの殺し合いなんて、受け入れられるはずがなかった。
暫く経って、いつか映画の中で聞いたような長く尾を引く音が、遠くの方で続けて四回響いた。
本当は、遠くはなかったのかもしれない。
耳を塞いでいた両手を抉じ開けるように、暴力的に侵入してきたのだから。
「このままじゃ……何も、変わらないよね」
呟きながら立ち上がり、震えていた体を抱きしめるように両腕を回す。
その感触に力強い腕を思い出しながら、澄んだ空を仰いだ。
そこに翻る青はなくても、脳裏に描く青が消えることはない。
目を瞑れば、力強い腕が優しく引き戻してくれる。
穏やかな指が、僕の行くべき方向へと導いていく。
大丈夫。今のも、きっと風の悪戯だよね?
誰も人を殺したりなんてしない。
みんなを信じているから。
信じられる人たちだから。
祈るように胸に刻みながら目を開ける。
恐らく音がしただろう方向へと、しっかりと大地を踏みしめながら足を向けた。
「大和部長!貴方は、僕たちから信じることも奪うと言うんですか!」
数十分ほど歩いた後、視界に広がった光景に膝が落ちた。
そのまま空を仰ぎ、見えない相手へと悲鳴のように言葉を叩き付けた。
わかっているのに。
大和部長が望んでそこにいるわけではないことなんて。
それでも、何処にも向けられない怒りを吐き出さなければ壊れてしまいそうだった。
壊されてしまいそうだった。この、眼下に広がった凄惨な痛みに……。
紅く染まった小さな体。白かったはずのユニフォーム。
その上に覆い被さるように重なった体も動く気配はない。
後頭部で短い髪がペタリと貼り付くように強張って寝ている。
「も、も…………、えち、ぜ…………………」
視線を彼らに戻せば、頬を伝う雫が手の甲へと落ちる。
その手を伸ばし、固まった髪を指先で解した。
紅い粉が指先に移り、手の甲へと飛んだ一部がゆっくりと溶けた。
二つの意識が身の内で戦う。
桃たちの復讐へと駆り立てる狂気と、それを宥める理性。
許せないと叫ぶ思いと、信じたいと祈る心。
目を瞑り、両腕を自分の体に回す。
脳裏に青が広がり、優しい暖かさを思い出す。
「信じてる。これ以上、こんなことは起こらないって。
信じてる。きっと、それだけの理由があったんだって。
大丈夫だよ。僕は、負けない」
今はいない優しい腕に、語りかけるように言葉を落とす。
それが僕の真実になるように。
そして、何故かキミの言葉が風に乗って聞こえた気がした。
何度も問い掛けているのに、応えは一度も返らない。
ただ、歩く度に侵出してくる狂気に抗う力を、根こそぎ奪おうとする声だけが何度も響く。
日に一度の堪え難い誘惑。今日も何とか振り払うことができた。
目覚めた日に聞いて以来の、同校の仲間の名前をも越えて、心に柔らかく光を灯す。
逆方向へと向かう狂気には気づけないままに……。
「大丈夫。僕は信じてる。信じられる。
キミを、キミたちを信じられる。大和部長のことだって信じていられる。
この優しい腕の記憶がある限り、僕は大丈夫だから」
もう何度目かもわからないほど繰り返した儀式。
自らの体を両腕で抱いて、空を仰ぐ。
静かに目を閉ざし、瞼の裏で大空に翻る青を、心に染み込ませるように広げていく。
祈るように口に出して信を呟けば、優しい笑顔が僕を包んだ。
未だ聞いていない名前を、いつ耳にしてしまうかと怯えながら、ゆっくりと目を開く。
ここで、会いたくない人がいる。
いないはずがないと知りながら、この目に、否定できない現実を突き付けられることを恐れている。
進める足の先に、その姿がないようにと願いながら、重い体を深い木々の間に彷徨わせた。
一時間の距離を行く前に、木々の間から出てきた姿。
僕は、全ての状況を忘れた。
会いたくないと願った言葉に嘘はなかったのに。
近くに在り続ける死の恐怖と、遠くなく僕が変わっていくだろう恐怖に堪え続けた心は、酷く脆かった。
「タカさん!」
走り出した体も心も止められなかった。
その手に握られた銃も、隣を歩く英二の姿も気にならなかった。
優しい腕が僕に伸ばされるのだけを視界に映し、その腕に飛び込んだ。
駆け出す寸前に木々の向こうに見えた気がした、光を弾く銀色も、一瞬の輝きに消えてしまっていた。
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