じっくりと

「――天狗」
 扉が開く音を聞き、泰明は玄関に駆け寄った。そこに立っている男を、小さな声で呼ぶ。
「おお、泰明。ちゃんと来たぞ」
 愛用の鞄を片手に持ったその男――天狗は、得意そうに笑った。
 現在の日時は二月十三日、午後十一時五十七分。約束した時刻よりも三分ほど早く、天狗はここに来てくれた
のだ。
「……そうだな」
 一週間前、泰明は天狗に言った。逢ってゆっくりと話したいから、二月十四日の午前零時、家に来て欲しい、
と。普段ほとんど自分から誘うことのない泰明にとって、それは大変難しいことだった。もっとも、天狗はすぐに了
承してくれたのだが。
「とりあえず、お前の部屋にでも案内してくれ」
「――分かった」
 頷き、天狗と二人で廊下を歩き出す。途中、居間にいた晴明に天狗が来た、と伝えてから、部屋へ向かった。

「相変わらず綺麗な部屋だな」
 ドアを閉めた天狗が感想を述べる。その間に泰明は机に近付き、上に載せていた箱を手に取った。
「――天狗」
「ん、どうした?」
 声をかけると、天狗は鞄を手近な場所に置いてこちらを向いた。胸の鼓動が速度を増す。しかし、この腕を伸
ばしたいのだ。
 泰明は俯きながらも、手にした箱を差し出した。
「……これを渡そうと思っていた」
 最後は消え入りそうになってしまったが、どうにか言葉にすることが出来た。これを、受け取ってはくれないだ
ろうか。
「――そうか。今日はバレンタインデーだったな」
 短い沈黙の後、低い声が聞こえた。言葉の意味は、伝わったようだ。
 日付は変わり、現在、二月十四日。天狗を呼んだのは、今持っている手作りの生チョコレートを渡すためなの
だ。日頃の感謝と――なかなか本人に告げることの出来ない想いを込めて作り上げた。自分の気持ちを、知って
欲しい。
「――ああ」
 天狗は、何を考えているのだろうか。この贈りものを、拒むだろうか。
 不安を抱えながら、泰明はただ、天狗の答えを待つ。
 ややして、大きな手が箱を掴んだ。
 泰明は頭を上げる。天狗は、ゆっくりと包装を解いていた。
 ほどなくして、生チョコレートが収められた箱の蓋が開く。
 泰明は、自身が用意したものを受け取って貰えたことに、安堵の息を吐いた。
「……泰明。これ、お前が食べろ」
 しかし、ほどなくして泰明の耳に届いたのは全く予想していなかった言葉だった。
「……私が?」
 思わず聞き返す。自分の作ったものを、この場で食せということなのだろうか。
「そうだ、まずはひとつで良い」
 天狗の顔には笑みが浮かんでいる。しかし、生チョコレートの入った箱は自分へと差し出されていた。
「……ああ」
 泰明は再び目を伏せた。箱の外観が気に入らないのか、味を疑っているのか。分からないが、天狗を喜ばせる
ことは叶わなかったようだ。
 胸が痛む。ただ、天狗に従うことしか出来ない。泰明は箱を受け取ると、指先でチョコレートを摘み、口に含ん
だ。甘さと苦味が舌に広がる。恐らく不味くはないのだろうが、味わう余裕などなかった。
「――さて、ではいただくとするか」
 声が聞こえても、天狗を仰ぐことが出来ない。泰明は、下を向いたまま動けずにいる。
 しかし、不意に頬が温かな掌に包まれた。驚いて、視線を元の位置に戻す。
「――てん」
 手を添えたのは何故なのか問おうとしたが、それは出来なかった。
 唇が、天狗のそれによって塞がれてしまったからだ。
「……ああ、美味いな」
 いつもよりじっくりと唇を重ねた後、天狗は満足そうに笑った。どうやら、口内にあったチョコレートを舐めていた
らしい。
 泰明の体温は、上昇していた。
「――何、を」
 話せる程度に呼吸を整えてから、泰明は尋ねた。このようなことをした理由が理解出来ない。
「こうして食べたほうが美味そうだと思ってな。予想は大当たりだ」
「……普通に食べろ」
「まあ睨むな。本当に美味かったぞ。チョコレートも、お前の唇も」
 言いながら、天狗はもう一度、泰明の頬に手を当てた。
 また同じことをされるのだろうか。泰明は身を強張らせる。
 しかし――嫌だ、とは思わなかった。
「――莫迦」
 頬が熱い。それを冷ますために、短く呟いた。
「……泰明、ありがとう」
「……ああ」
 頬に置かれた手が、頭へと移動する。そして、何度かなでてくれた。その温かさに、泰明は瞼を閉じる。
「儂も、スコーンを焼いて来た。しかし、その前にひとつ訊いておく。泰明――今夜は、ずっと一緒にいてくれるの
か?」
 目を開けると、真剣な表情の天狗が映った。
 泰明は息を呑む。そして、口を噤んだまま、頷いた。


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