それで充分

「天狗」
 私の傍らで屈み、邸の庭に咲いた花を眺めている天狗を呼ぶ。彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「何だ?晴明」
 天狗の瞳が花ではなく、私に向けられた。
 彼がこの邸に来たのはつい先ほどのことだ。私に逢いたい、と思ってくれてのことらしい。まだ泰明が帰って来
る時刻でもなく、私も仕事の予定はなかったので、共に花を見ないか、と誘ったのだ。
「――楽しんでいるか?」
 少し不安を抱きながら、天狗を見上げた。もしも他にしたいことがあるのなら、花に囲まれているこの時間は退
屈なのではないだろうか。
「ああ、お前といるのは楽しい。花もたくさん咲いているしな」
 だが、私の不安を掻き消すかのように天狗は笑ってくれた。周りには数多の花があるが、それに劣らぬほどに
彼の笑顔は美しい。
「――そうか、良かった」
「ああ。酒がなくとも充分じゃ」
 安堵し、胸にそっと手を置いた私の隣で、天狗は再び笑い声を上げた。
「そうだな……私も、お前と過ごすことが出来ればそれで充分だ」
 空に浮かぶ陽のような表情を見ながら、私は自身の想いを告げた。
「――急に、何だ?」
「本当の気持ちを押し隠さなくて良いということを、お前が教えてくれたのだ。このような心地になれる日が来ると
は、思っていなかった」
 大きく目を開けている天狗を、真っ直ぐに見る。
 以前の私は、誰かに本心を打ち明けるということをほとんどしなかった。自分の気持ちのせいでその人との関
係を崩してしまうことを恐れていたのだ。しかし天狗は、心を隠す必要はないと教えてくれた。そして彼も、飾りの
ない気持ちを私に示してくれる。
「――そう、か……」
「そうだ。天狗――感謝している」
 少し目を伏せた天狗に、私は囁いた。穏やかな心境でここに立っていられるのは、彼のおかげなのだ。
「――儂は何もしていない。お前の隣にいたいと思っているだけだ」
 だが、天狗は低く真剣な声で言い、私を見つめるだけだった。何もしていない、などということはない。私が心
を隠さずにいられるのは彼のおかげだ。しかし。
「――それは、私も同じだな」
 私も、彼と同じことを願っていた。胸に、温かい光が灯る。天狗と過ごすことが出来れば、それで充分なのだ。
「……晴明」
 天狗の大きな手が、両肩に置かれる。応じようと瞼を閉じた瞬間、唇に彼のそれが重ねられたのを感じた。


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