囁かずとも

 
 八葉として一日の任を終え、庵に戻った私のもとにある者が訪ねて来た。
「天狗――」
「泰明、今からお前を口説こうと思う」
 やって来た人物――北山の大天狗は、庵に上がるとすぐに思いも寄らないことを言い出した。
「……何を言っている」
 言葉の意味を尋ねた。何故そのようなことを思ったのか、全く理解出来ない。
「いや、実は今日、北山の近くで女性を口説き落とそうとしている貴族を見てな。何となくやってみたくなったんじゃ」
 だが、返って来たのは答えとは言い難いものだった。天狗は些細なきっかけで下らないことを思い付き、それを実
行しようとすることがあるのだ。
「下らぬことをするな」
「まあそう言うな。やってみたら案外楽しいかもしれんぞ」
 しかし、天狗は笑顔で私のことを見ている。何があっても自分の心に浮かんだことを私を相手にして行うつもりらし
い。
「何故私が――」
 お前の相手をしなければならないのだ。だが、その言葉を声にすることは出来なかった。
「――泰明」
「――!」
 褥の上で私を呼ぶときのような、低い声。鼓動が速くなった。天狗から目を逸らせない。天狗はそんな私の肩を軽
く押し、すぐ近くの壁に私の背を密着させた。
「――お前はとても綺麗だ。美し過ぎて、触れるのを躊躇ってしまうほどに。だが――傍にいたいというこの想いは止
められない。長いこと生きて来たが、お前と一緒にいるときが一番幸せだ」
 熱を持った大きな手が私の右頬に触れている。天狗は身を屈めているため、真っ直ぐな眼差しが目の前にある。
思わず、息を呑んだ。
「――天狗……」
「お前の全てが儂を惹き付けるのだ。泰明……これからも儂から離れずにいてくれるか?」
 真剣な表情が更に近付く。逃れられない、と思った。背に壁があるからではなく、天狗の瞳に驚くほど強い力が
宿っていたからだ。
「……天狗……」
 体温が上昇する。天狗からこのような言葉を聞くことはほとんどないため、どう返事をすれば良いのか分からない。
 ただ――私は天狗の言葉を決して嫌だとは感じなかった。
 そして、天狗の傍を離れることなど、有り得ない。
 一度深く呼吸し、口を開こうとしたそのとき。
「――ふむ、こういうことか」
 私の右頬にあった手を自分の顎に当て、肩を押した手もどけ、天狗は呟いた。
「――何がだ」
「口説くとはこのようなことなのか、と納得した。なかなか楽しいものじゃ」
 天狗は普段と変わらぬ笑顔で答えた。戸惑っている私とは違い、したいと思っていたことを実行出来たため満足し
ているようだ。
「……」
「ん?どうした泰明?お前は楽しくなかったのか?」
 私の顔を覗き込み、天狗は言った。
「――お前がいつもと違った。違和感があったのだ」
 本当は、それだけではない。囁かれた言葉に頬は熱くなり、鼓動は速くなった。
「――ほう、それで顔が赤いのか?」
 まだ熱の消えない右頬に再び手を当て、天狗は明るい声で訊く。
「……うるさい」
 それ以上、天狗の瞳を見ていることは出来なかった。火照る顔を隠すように、俯く。
 だが、ほぼ同時に大きな掌に頭をなでられ、顔を上げた。
「――お前が相手をしてくれたから、女性を口説いていた貴族の気持ちが少し分かったぞ」
「気持ち?」
 訊き返すと、天狗は頷いて続けた。
「ああ。中には遊びで相手を口説こうとする者もおるだろうが、今日の貴族のように熱心に相手に言葉を囁くのは、
きっとどんなことをしてでも共にいたいと思っているからなのだろう」
「どんなことをしてでも……」
「ああ。例えばお前が手の届かないような身分の者だったら――儂もきっと、必死で言葉を探したと思う。柄ではな
いが、お前の心を掴むためならどんなことだって言ってやる」
 天狗は私の目をしっかりと見据えた。良く通る声が、胸に響く。
「……天狗」
「――それにな、泰明。少々飾ってはいたが、先ほどの言葉は全て本当だぞ」
 天狗は頭の上に乗せた掌をゆっくりと動かした。唇は綻んでいるが、その瞳にはやはり強い力が宿っている。
「…………そうか」
 言ったことは嘘ではない、ということか。そう理解した私は、また頬に熱さを感じた。
「――儂に口説き落とされたか?」
 目を細め、天狗は私に問う。
 しかし、口説かれるまでもない。天狗に対して、私はいつも温かな想いを抱いているのだから。
「――言葉を囁かずとも、私の心はいつもお前で満ちている」
 天狗は一瞬だけ目を見開いた後、柔らかな笑みを顔に浮かべた。
「……めちゃくちゃ嬉しい」
「……そうか」
「――泰明……」
 天狗の唇が近付いて来る。反射的に固く目を閉じた、が。
「泰明、そろそろ夕餉にしよう」
 涼やかな声と共に戸が開き、私は天狗と距離を取った。
「……はい、分かりました」
 やって来た師匠に返答した。確かに、そろそろ夕餉を摂ったほうが良い時刻だ。
「――おや、天狗もいたのか。お前も食事をして行かないか?」
「あ、ああ……じゃあ、世話になろう」
 微笑む師に、天狗は一度咳払いをしてから答えた。突然の出来事にやはり少し動揺しているようだ。
「では、行こう」
 背を向けた師匠に、天狗と二人で続こうとしたとき。
「――続きは後でな」
 耳元で言葉を囁かれ、私の鼓動は再び速度を上げた。


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