おかしな薬

  藤姫の館を出て邸へと歩を進めていた泰明は、上空から聞こえた大きな羽音に足を止めた。
「泰明」
 羽音の主――北山の大天狗が泰明のすぐ前に降り立つ。その姿は夕陽の光に良く映えていた。
「――天狗」
 光に照らされた天狗の顔を、泰明は見上げた。時折好んでいる場所を訪れていると天狗から聞いてはいたが、
帰り際に出逢うのは初めてだ。
「今、帰りか?」
「――ああ」
 泰明は頷いた後、再び天狗の顔を仰いだ。力のある双眸がこちらを見ている。
 思いがけず愛しい者に逢うことが出来た。泰明の頬は仄かな朱に染まる。
「――少し北山に来ないか?面白いものがあるぞ」
 天狗は目を細めると、衣の袂に手を入れた。
「……面白いもの?」
 頬に熱を感じながら、泰明は返事をする。天狗の言葉が意味するものは何なのだろう。
「これだ」
 袂から小さな箱が取り出された。天狗はそれを掌に乗せ、蓋を開けて泰明に近付ける。
「……薬か?」
 箱の中には粉状の薬が満ちていた。見たことのないものだ。
「ああ。若い天狗が調合したものだ。詳しくは聞いていないが、変わった効果があるらしい」
「そうか……」
 泰明は薬を覗き込んだ。詳細は分からないが、邪気はない。毒薬などではないのだろう。
「――試してみないか?儂の庵で」
 天狗は小箱に蓋をして袂にしまうと、泰明の目を見て言った。
「――行く」
 鼓動が速くなったことを感じながら、泰明は頷いた。このように真っ直ぐ見つめられては、断ることなど出来ない
のだ。
「じゃ、行くか。暴れるなよ」
 天狗は泰明の身体を横向きに抱き上げ、空へと羽ばたいた。
「天狗っ……」
 抵抗しようと口を開いたが、すぐ近くにある笑顔に、泰明は言葉を呑み込んだ。

「では早速――」
 庵の前に着いたとき、天狗は泰明を地面に下ろし、戸に手をかけた。
 そして、後に続いて泰明が中に入ろうとしたそのとき。
 異変が、訪れた。
「……っ」
 身体が揺れる。つい先ほどまでは何の異常もなかったはずだ。しかし、今は違う。
 立っていることすら出来ぬほどの睡魔が襲ってくる。
「――泰明、どうした?」
 戸を開けた天狗が振り返った。
「あ……身体が、おかしい……」
 途切れ途切れにそう答えることしか出来なかった。もう、目を開けていられない。
「泰明!しっかりしろ!」
 支えてくれる手の温かさを感じながら、泰明は意識を手離した。

「……天狗?」
 しばらくして目覚めたとき、泰明は褥の上にいた。まだ朦朧とする意識の中、ここに運んでくれたであろう男を呼
ぶ。
「ここだ。その……悪かったな、泰明」
 何に対し謝罪しているのだろう、と思いながら身を起こし、声のする方向を見る。
 泰明は、息を呑んだ。
「……これは」
 そこには、空にまで届くのではないかと錯覚するほどに大きな天狗がいた。元来天狗は大柄だが、その比では
ない。
 いや、天狗が大きくなったのではない。
 周囲のものも泰明の何倍もの大きさになっていた。
 泰明の身体が小さくなっているのだ。
「どうやらこの薬、身体を縮める効果があったらしい」
 天狗は衣の袂から小さな箱を取り出し、力なく笑った。
「しかし、私は薬を摂取してはいない」
「儂が中身を見せたときに吸い込んだのだろう」
「そうか……」
 箱の中を覗いたあのときに、舞った粉を僅かに吸い込んでしまったようだ。
 それにしても、何と変わった効果のある薬なのだろう。
「まあ、少しすれば元に戻るだろう。それまでここにいろ」
「――分かった」
 泰明は俯いた。早く邸に戻りたいが、この状態のまま外に出るのは危険だろう。天狗の言う通り、元の姿に戻
るまでこの庵にいた方が良いようだ。幸い身に纏っているものも身体と同じ大きさになっているため、ここにいて
も問題はない。
「――しかし、それまで暇じゃな。少し実験に付き合え」
 小さく息を吐いたとき、天狗の声が聞こえた。
「実験……?」
 縮んでしまった手の甲を見ていた泰明は、唐突なその言葉に顔を上げる。
「ああ」
 天狗は笑みを浮かべると、泰明の身体を持ち上げて掌に乗せた。
「……何をする気だ」
 掌に立ち、泰明は尋ねた。いつものことだが天狗の考えを読むことは難しい。
「色々試してみたいことがあってな」
 胸の高さまで手を上げると、天狗は指を一本伸ばし、泰明の首の側面に触れた。
「……あ……っ!」
 甘く痺れるような感覚に、泰明は思わず声を上げる。
「――ほう、小さくなっても感度は変わらんか」
「――莫迦なことを……っ」
 固く目を閉じ、興味深げな声に抗う。
 だが、指の動きは止まらない。
「しかしこの薬、改善の余地があるな」
「――っ、どこを、改善するのだ……っ?」
 全身に宿る不可思議な熱に耐えながら、泰明は問う。
 すると、狩衣の襟に指がかけられた。
「……身体のみを小さくするように作り直すべきじゃ。そうすれば脱がせる手間が省ける」
「――やめろっ……!」
 その指を掴んだとき、涼やかな風がすぐ傍を通り抜けた。
「ん……?」
 天狗もそれに気付いたのか、床に泰明を下ろした。
 徐々に身体の大きさが戻って行く。
「――戻った……」
 元通りになった手を見て、泰明は呟いた。おかしな薬の効果が切れたようだ。
「そうか……残念じゃ」
「……では、私は帰る」
 泰明は立ち上がり、不満げな表情の天狗に背を向けた。まだ身体の熱は消えない。外の風に当たりたい。
「――待て、泰明。先ほどは出来なかったことを、させろ」
 後ろから伸びて来た腕に、抱きしめられた。
 体温が、上昇する。
 泰明は一瞬身じろいだが、先刻のように触れられるよりは良いと思い、身体から力を抜いた。
 いや――先ほども、嫌だったわけではないのだ。
 天狗の温もりを感じようと、泰明は瞼を閉じた。


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