中身のない杯

「晴明」
 周囲が眠りに就き、静かになる時刻。天狗は空になった杯を片手に、傍らの彼に声をかけた。
 今宵、晴明はこの庵に泊まる。先日逢った際、共に酒を飲みゆっくり過ごしたい、と言われたので、この庵に
招いたのだ。
「どうした――」
 杯を高杯に置き、彼はこちらを向く。
 その直後、彼と唇を重ねた。
 柔らかさと甘さを充分に堪能してから、ゆっくりと解放する。
「……驚いたか?」
「もちろんだ」
 目を合わせて尋ねると、晴明は穏やかに笑って頷いた。
「あまり、そうは見えんがな」
 酒を注ぎながら、呟く。だが、このような反応も予想はしていた。出来ればもう少し慌てる姿も見たいとは思
うのだが、彼はいつも落ち着いているのだ。
「――お前は、少し酔うと普段よりも長く私に触れてくれるな」
 天狗が酒を口に含んだとき、杯を手に取り晴明は言った。
「――そうか?」
 目を見開き、天狗は尋ねる。
 不意打ちで驚かせようと計画していたのに、自分のほうが面食らうことになってしまった。自覚はないが、本
当なのだろうか。
 彼は、酒を一口飲んでから、唇を動かした。
「天狗が、いつも酔っていたら良いのに」
 晴明は、笑みを崩さない。だが、妖しく光る瞳をこちらに向けた。
 求められている。
 そう、気付いた。
「――別に、酔っていなくてもお前にずっと触れていることは出来るぞ」
 杯を高杯に置き、そっと彼の頬に触れる。
 たとえ酒がなくとも、晴明がそう願うのならばいつでも彼の近くに行こう。
「……そうか」
 晴明は、ゆっくりと目を閉じた。
 彼の唇に、自分のそれを重ねる。自分を求めたのは晴明だ。しばらくは、解放しない。
 ほどなくして、彼の手から中身のない杯が落ちた。


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