水面と遊び

「天狗。今、戻った」
 夕刻。泰継が、普段よりも少し遅く庵へと帰って来た。天狗は円座から立ち上がり、彼のもとへ急ぐ。
「泰継、お帰り……」
 待ち望んでいた彼の帰宅を嬉しく思いながら口を開いたが、途中であることに気付いた。言葉を紡ぐのをやめ、
泰継と目を合わせる。
「――どうかしたのか?」
 視線に気付いたのか訝しげに尋ねる彼。その問いに答えようと、もう一度唇を動かした。
「……少し、気が乱れてるな。疲れているのか?」
 泰継の気が僅かではあるが乱れているのだ。八葉の任務は決して楽なものではない。それに、今日は帰宅も遅
かった。普段よりも多忙で、満足に休憩も出来なかったのかもしれない。
「……そうだな」
 彼は一瞬目を見開いたが、ほどなくして小さく頷いた。やはり、思い違いではなかったらしい。
 疲労している泰継を放ってはおけない。天狗は、彼に提案した。
「ならば、あの泉へ行こう。気を鎮めてくれるはずだ」
 北山の近くに、澄んだ水が満ちた泉がある。非常に神聖で、穢れを寄せ付けない場所なのだ。気を鎮めるのに
は最適だろう。
「分かった」
 泰継が頷いたことを確認してから、彼とふたりで庵を出た。

「相変わらず、清らかな場所だな」
 泉に辿り着き、天狗は声を上げた。いつ来てもこの美しさには感動する。
 隣にいた泰継はそうだな、と返事をした後、目を閉じて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。その呼吸を、繰り
返す。
 清浄な気を取り込んでいる彼の邪魔をしてはいけない。天狗は静かに歩き始めた。

 泰継が小さく見えるところまで移動し、ゆっくりとその場に座った。特に疲労しているわけではないが、やはりこ
の泉にいると落ち着く。
 目の前では美しい水が揺れている。ふと思い付いて下駄と足袋を脱ぎ、袴をたくし上げてその中に両足を入れ
た。
 冷たすぎない温度に気分が良くなり、足を動かす。水面に映った夕陽が波により形を変えることも楽しく、思わ
ず夢中になって遊んでしまった。 

「……天狗」
 しばらくして、泰継に声をかけられた。足を止め、彼に視線を向ける。
「泰継、もう良いのか?」
「気は落ち着いた。お前は何をしている」
 尋ねると、逆に質問をされてしまった。
 もう一度足を動かしながら、彼の問いに答える。
「いや、少し遊んでいたというか」
 何かをしていた、というわけではない。遊んでいた、と説明する他にないのだ。
「そうか……」
 泰継は呟き、波を作り出す足を見つめる。そのとき、天狗はあることに気付いた。
 ずっと足を動かして遊んでいたが、もしかするとあの水音が泰継に聞こえていたかもしれない。余計な音で彼
の邪魔をした可能性がある。
「――さっき、邪魔したか?」
 足を止め、泰継に訊く。この泉には彼の疲労を取るために来た。それを自分が妨げていたのでは意味がない。
 だが、泰継は首を横に振った。
「……そんなことはない」
「そうか……」
 その答えに安堵し、息を吐いたとき、彼の唇が動き始めた。
「――この場所でなくとも、お前が傍にいてくれると安堵する。気も落ち着くのだ。鼓動は……少し早くなるが」
 言葉の最後に、泰継は俯いた。その頬には薄紅が浮かんでいる。
 幸せを、感じた。彼に少しでも安らぎを与えられているのなら、本当に嬉しい。
「……泰継。お前も隣に来ないか?水、気持ち良いぞ」
 泰継を誘う。愛しい彼と、並びたいのだ。
「――分かった」
 泰継は隣に座ると、衣の裾をたくし上げて足を水に浸した。
 その肩を、抱き寄せる。
 驚いたような瞳がこちらに向けられたとき、そっと唇を重ねた。


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