言葉の代わり

  月が美しく照っている夜、天狗は泰継の庵を訪れていた。
「泰継、お前の庵はいつも綺麗じゃな」
「そうだろうか?」
 泰継は書に落としていた目を、傍らに座した天狗に向ける。
「ああ。少なくとも儂の庵よりはずっと綺麗じゃ」
 ある程度高位の天狗は、それぞれ隠れ家となる庵を持っている。最高位にあたる天狗も当然自分の庵を所有し
ているのだが、あまり細かくない性分故、室内は常に物で溢れかえっているのだ。
「そうか……」
 短く答えると、泰継は再び書を読み始めた。その横顔を、微笑みながら天狗は見つめる。
 天狗はよくこの庵を訪れる。自分の庵が散らかっているからではなく、少しでも長く泰継の傍にいたいからだ。
 虚ろな心を抱えながらも、真っ直ぐにこちらを見る泰継。共に過ごしている内に、この手でずっと守って行き
たいと感じるようになった。三月眠り続ける間も、恐ろしい夢など見て欲しくない。泰継が八葉に選ばれたとき
は、彼との時間が少なくなることを寂しいと思った。
 だが、そのことを伝えれば泰継の傍にはいられなくなるかもしれない。それは想いが実らないことよりもずっ
と辛い。
(儂は……お前の傍にいられればそれで良い)
 想いの代わりにひとつ息を吐いてから、泰継に声をかけた。
「――泰継、神子は頑張っておるようじゃな」
 ひと月ほど前この地に降り立った、龍神に選ばれし少女。彼女の活躍は北山にいても耳に入って来る。
「――ああ、神子は良くやっている。きちんと自分の役目を果たしている」
「そうか」
「きっと……先代の神子にも劣らない」
 書を閉じ文机の上に置くと、泰継は天狗に向き直った。整った顔に悲しい影が落ちている。
「――どうした?」
 天狗は眉を寄せた。泰継は俯き、小さな声で言う。
「神子は……泰明に及ばぬ不完全な私とは違う」
「――やめろ、泰継。お前は常に努力している」
 泰継は同じ陰の気を持った存在――安倍泰明のことをひどく気にしている。自分は泰明に劣る存在だと思い込
んでいるのだ。
「どれほど努力しても――泰明には追いつけない」
「やめろ!」
 思わず叫んでいた。泰継にこんな顔をさせたくない。
「天狗……?」
 泰継は顔を上げ、驚いたように天狗を見ている。
「そんなことを言うな。泰明とお前は違う」
 泰継を見据え、言った。泰継と泰明は確かによく似ているが、全く同じというわけではないのだ。
 しかし、泰継に差した影が晴れることはなかった。
「――そうだな、力の欠けた私は……」
「泰継!」
 泰継の言葉を、先ほどよりも鋭い声で遮る。
「天狗……」
「儂は、お前が泰明に劣っているとは思わない」
 京のために、神子のために自身の力を振るう泰継。その姿は決して泰明に劣ってなどいない。
「だが……私には僅かな力しかない」
 泰継は下を向き、膝の上で両手を握る。
 天狗の胸が、痛んだ。
「――いい加減にしろ!」
 気付くと、泰継の両肩を掴んでいた。尖った爪が食い込みそうなほどに、強く。どうにかして泰継の悲しみを断ち
たかった。
「――天狗……」
 そう呼ばれ、天狗は我に返った。泰継の瞳は揺らいでいる。
「あ……痛かったか?」
 肩から手を離し、尋ねた。傷を付けたりしていないだろうか。
 だがその問いには答えず、泰継は不安げな表情で天狗の顔を仰いだ。
「天狗……怒っているのか?」
「――少し、な」
 怒っているというよりは、悲しんでいるといったほうが正しいのかもしれないが。
 続けようとした言葉は、目を伏せた泰継によって遮られた。
「私のことが……嫌い、だからか?」
「――泰継……」
 そんなことはない。むしろ、その逆だ。
 秘めた想いを告げてしまいそうになり、天狗は口を噤んだ。
「――すまない……」
「泰継……」
 謝罪の言葉を述べる泰継。その声は、暗く沈んでいる。
「私を……嫌わないで、欲しい」
「泰継?」
 天狗が聞き返すと、泰継は下を向いたまま続けた。
「――私は……お前に触れられると胸がとても温かくなるのだ。たとえ私にその価値がないのだとしても、お前に
触れていたいと願わずにはいられない……」
 言い終えたとき、泰継は先ほど天狗が掴んだ肩を小さく震わせていた。
「……安心しろ。儂は決してお前を嫌ったりしない」
 天狗は泰継の肩に手を置いた。力を入れずに、そっと。彼を嫌うことなどありえない。本当は、ずっと傍で守り
たいと思っているのだから。
「――そうか、良かった……」
 俯いたまま泰継は呟く。
 すると、その手の甲に雫が落ちた。
「――泰継、涙が……」
「あ……何故、私が涙を……」
 天狗の指摘に泰継は顔を上げた。頬に指を滑らせ、流れる涙に触れている。しかし、それが止まることはなか
った。
「――動くな」
 手を下ろすように目で促してから、衣の袖でその涙を拭った。このように潤んだ瞳を見るのは初めてだ。
「……すまない。悲しい、わけではないのだ。安堵したはずなのに、私は何故……」
 初めて零す涙に戸惑っているのか、泰継は僅かに首を傾けている。
「涙は、安心したときにも流れるものだ」
「そうか……」
 天狗が言うと、泰継は得心したように瞼を閉じた。長い睫毛が濡れている。
 鼓動が、速くなった。
 この涙を拭う役目を、自分だけのものにしたい。ずっと守って行きたいという想いが、溢れそうなほどに強くなっ
た。
 長い間築いて来た関係を壊してしまうかもしれない。だが、この想いを伝えておかねばきっと後悔する。
 そして今を逃せば、恐らくもう言うことが出来ない。
 今しかない。
「――泰継……儂は……お前のことが好きだ。ずっと、お前の傍にいたい」
 声が、震えていた。しかし、これで良い。想いを伝えることが出来たのだ。悔いは残らない。
「…………天狗」
 泰継は目を開けた。驚いたのだろう、瞬きもせずにこちらを見つめている。
「――すまない、いきなりこんなことを言って」
 泰継から視線を逸らした。彼は今何を考えているのだろう。想像することが怖かった。
 だが。
「いや……ありがとう、天狗。嬉しい……」
 耳に、柔らかな声が届いた。聞き間違いだろうか、と思い、視線を元に戻す。
「――本当か?」
「――ああ。私も、ずっとお前の傍にいたい。お前に……触れていたい」
 泰継は微笑んだ。その瞳には優しい光が宿っている。
「泰継……ありがとう」
 ただ胸が愛しさで満ちていた。その想いは言葉にならない。代わりに頬に片手を添え、ゆっくりと唇を近付ける。
 重ね合わせたときも泰継が離れずにいてくれたことが、嬉しかった。
「――天狗……これが『好き』という気持ちなのだな」
「――ああ」
 仄かに染まった頬に気持ちが溢れ出す。もう一度、唇を重ねた。

「泰継。唐突だが、今日から儂もこの庵で暮らして良いか?」
 二度目の口付けを終えた後、天狗は言った。
「――ああ、構わない」
「ありがとう。ずっと、一緒だな」
 天狗は微笑した。これからは愛しい者と共に暮らすことが出来るのだ。
「ああ……そうだな」
 頷きながら答えた泰継を、腕の中に抱きしめた。


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