呼吸が伝わるほどの位置

「お帰り。今日は少し遅かったのだな、泰明」
 帰宅を報告した泰明に、晴明は柔らかな笑みを浮かべた。
 つい先ほど、泰明は一日の務めを果たし、邸へと戻った。そのことを伝えるために、晴明の庵に入ったのだ。
「はい。申し訳ございません」
 今日はすべきことが重なり、普段より帰りが遅くなったのだ。時刻は、既に暮れ方よりも夜に近い。泰明は、向か
いに立った師に謝罪する。
 頭を下げていると、すぐ前に影が出来たような気がした。晴明が近付いて来たのだ。泰明は、視線を上に送る。
「いや、良い。だが………心配したぞ」
 師は掌を頭に乗せ、耳介に寄せた唇をゆっくりと動かした。
 甘く優しい声が響き、耳朶を柔らかなものが掠める。
「――!」
 堪らず、目を瞑った。泰明に何かを告げる際、晴明は呼吸が伝わるほどの位置から言葉を紡ぐことがあるのだ。
 このようなときはいつも――頬だけではなく、耳介まで熱くなる。
 その声が、唇が、胸の内を掻き乱す。何も、考えられなくなってしまうのだ。
「……こうされるのは、嫌か?」
「……いえ」
 瞼を開けると、目が合った。問われた泰明は首を横に振る。鼓動は速くなるが、嫌だ、とは思うはずがない。
 他ならぬ、晴明がすることだからだ。他者が顔のすぐ横で言葉を発したとしても、あまりにも近くで聞こえる声は不
快なだけだろう。
「――このままでいてくれるか?泰明」
 片方の腕が、腰へと回される。泰明は何も言わず、耳介の熱を感じながら、頷いた。


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