拒まれた手

  読み終えた書を棚に戻し、私は小さく息を吐いた。頭の中に、ある者の顔が浮かんでいる。
「天狗……」
 口からは、そんな声が漏れた。
 このところ、ふとした瞬間に天狗のことを考えてしまう。既に力は戻ったというのに、今でも北山で天狗と共
に過ごした日々を思ってしまうのだ。そしてその日々を思うと、必ず胸に苦しさと温かさが宿った。 
 私は天狗に感謝している。神子に嘘を吐いたことで壊れそうだった私を救ってくれたのは天狗だ。多少強引で
はあったが、神子に逢わせてくれたのも天狗だった。普段は変わった言動に声を上げることも多いが、今、天狗
に感謝していることは紛れもない事実だ。
 だが。
 本当に、感謝しているだけなのだろうか。
『全部辞めて――ずっとここにいろよ、泰明!何もしなくて良いから、儂の傍にいろ!』
 私を抱きしめた天狗の真剣で悲痛な声が、耳に残っている。力を失っていたとはいえ、何もせずにずっと北山
にいる気など全くなかった。しかし、あのとき天狗の温かな腕に抱かれて安堵したということを、私は否定出来
ない。腕の中で涙を流しながら眠りに就いてしまったというのに、そのことを少しも責めようとはしなかった天
狗に、私は本当に感謝しているだけなのだろうか。
 それは――違うような気がする。
 胸の奥の想いが分からず、私はため息を吐く。
 そのとき、庵の戸の向こうにある人の気を感じ、振り返った。
「泰明」
「お師匠。どうしました?」
 庵の中に入って来た師匠は、ゆっくりと口を開いた。
「――考えても答えが出ないのならば、直接逢うべきだと……私は思うぞ」
 師匠は、微笑みながら私を見る。
「――お師匠、それは……」
 言葉に出したわけではないのに、胸の内を見抜かれている。
「いや、何でもない。独り言だ。ところで泰明、今宵は良い月が出ている。少し外に出るのも良いかもしれない
ぞ」
 師匠はそれだけ言うと、微笑したまま去って行った。
 ……確かに、あの日以来天狗には逢っていない。
 私は……天狗に逢いたい。私を救ってくれた、天狗に。
 そう思い、立ち上がった。

「――天狗」
 夜道を辿り北山に着いた私は、天狗松を見上げ声をかけた。
「……泰明か。どうした、急用か?」
 大きな羽音を響かせ、私の目の前に天狗が舞い降りる。
「――私は……」
 胸の鼓動が速くなる。天狗を見ることが出来ず、下を向く。
「――泰明?」
「――私は……お前に感謝している」
「泰明……」
 天狗は、私の言葉に少し驚いたような声を出す。
「――気を失った私を助けてくれたことに……神子に逢わせてくれたことに……私は、感謝している」
「――泰明……」
「――ありがとう、天狗」
 言葉の最後は消えてしまいそうだったが、ようやく伝えることが出来た。
「……」
「――天狗?」
 だが、天狗は何も言わない。聞こえなかったのだろうか、と思い、その顔を仰ぐ。
「――気にするな。儂は……楽しかったぞ、泰明。十日余り共に過ごし、お前の変化を間近で見られて……だか
ら、礼など必要ない」
 目が合った瞬間、天狗はそう言って私の頭に手を置いた。しかし、その声はどこか苦しそうだ。顔に浮かんだ
笑みも、沈んでいるように思えた。
「天狗……何かあったのか?」
「――何故、そんなことを訊く」
 天狗は、私から顔を背ける。
「……気が乱れている」
 集中して横顔を見ると、天狗の内の気が乱れていることが分かった。
「――お前の思い違いじゃ。さあ、早く帰れ泰明。子供はもう寝る時間じゃ」
 からかうように言い、天狗は私の頭を軽く叩く。だが、その声にいつものような覇気はなかった。
「天狗……しかし」
 そっと、天狗に手を伸ばす。
「――思い違いだと言っているだろう!」
 天狗は強い口調で言い、辛そうな表情で私を見た。
「……天狗……」
 その言葉に、私は手を伸ばすことをやめた。
 天狗に拒絶されている。
 そう、思ったからだ。
「――あ、泰明……」
「天狗は……私が傍にいると嫌なのだな……」
 天狗に拒まれた。ただそれだけのことなのに、胸がどうしようもないほどに痛む。
「なっ……」
「――もう帰る。突然訪ねて、すまなかった」
 小さくそう告げて、私は天狗に背を向けた。もう、この場にはいられない。
「――待て!泰明……」
 天狗が私の手首を掴む。
「――っ!離せっ!」
 その手を振り払い、走った。
 私はもう、天狗の傍にはいられないのだろうか。
 胸が、苦しい。
 そんなことを思いながら、ただ邸を目指した。


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