均衡が


 天狗は、泰明に向かって両手を伸ばすと、その身体を素早く抱き上げた。
「天狗っ……」
 驚いたのか、彼は声を上げる。だが、腕を緩めるつもりはない。
 八葉として今日の務めを済ませ邸へ帰る途中、泰明はこの北山に立ち寄ってくれたのだ。少し会話するだけで
は足りない。まだ、夕刻を彼と過ごしたい。
「泰明、あまり動くと危ないぞ。大事に運ぶから、儂に任せろ」
 腕に力を込めながら、地面を蹴り、飛ぶ。彼は一瞬身体を震わせたが、暴れるようなことはなかったので、安
堵した。
 
 しばらく飛行すると、晴明の邸が目に映る。地面に降りれば、泰明は邸へ入るだろう。
 だが、もう少し傍にいて貰う。天狗は屋根の上に移動し、そっと彼を隣に下ろした。
「――天狗、下には行かないのか?」
 目を見開き、こちらを向く泰明。その瞳を覗きながら、天狗は返答した。
「たまには良いだろう?見慣れた景色も普段とは違って見える」
 彼や晴明のことは前から知っているが、この屋根には自分も初めて来た。いつもより小さく見える、人や家。
すぐ近くにある未知の場所へ行くと、楽しい。泰明も、喜んでくれると良いのだが。
「……確かに、お前がいなければ決して来ることのない場所だ」
 彼は、興味深そうに辺りを見回しながら、呟いた。普段よりも柔らかな声が、嬉しい。
「――貴重な体験になったか?ではもう少し、楽しむか」
 楽しめるのは、景色だけではない。泰明の身体に、手を伸ばす。
 だが。
「天狗……っ」
 驚かせてしまったのか、抱きしめる前に突き飛ばされた。
「――!」
 身体の均衡が、崩れる。一瞬、落下しそうになったが、容易に立て直せる程度だ。万一足が縺れたとして
も、身体を打ち付ける前に羽根を広げれば良い。
 だが、そのとき。
「……天狗!」
 目の前にいる泰明が、声を上げ、手を伸ばしてくれた。
 手や指の美しさに見惚れながら、迷わずに、掴む。
 姿勢を立て直し、息を吐いた後、彼に視線を向けた。
「泰明……」
「――すまない。危ない目に遭わせた」
 申し訳なさそうに、彼は俯く。声も、沈んでいた。
「……お前が謝ることではないだろう。驚かせたこちらの責任だ」
 泰明が下を向く必要はない。驚かせた自分が悪いのだ。
「私が突き飛ばさなければ良かったのだ。すまない……」
 彼は、まだこちらを見ない。責任を感じているようだ。
 ならば、泰明に分かってもらえるまで、もっと気持ちを伝えよう。
 天狗は、そっと口を開いた。
「――むしろ、嬉しかったぞ」
 驚いたのか、泰明は自分を見た。
「――お前は、突き飛ばされると喜ぶのか?」
 天狗は、手を伸ばして彼の頭をなでた。
「もちろんそれも嫌ではないが、お前から手を伸ばしてくれたからな。気持ちの表れと、思って良いか?」
 均衡を崩したあのとき。綺麗な手をこちらへ向けてくれたことが、嬉しかったのだ。
 自分を大切に想っているから、助けてくれたと思って、良いのだろうか。
「――莫迦」
 彼は横を向く。だが、頬には薄紅が浮かんでいる。
「――やはり、来て良かった」
 一歩、彼に近付く。泰明の想いが伝わって来た。屋根に来て良かったと、思う。
 今度は驚かせないよう、その身体をゆっくりと抱きしめてから、唇を重ねた。


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