急ぎと喜び

「晴明、もう帰るのか?」
 庵の戸に手を伸ばす彼に向かい、天狗は問いかけた。
「案ずるな。またすぐ逢いに来る。お前の傍にいると、幸せな気分になるから」
 晴明は振り返り、穏やかに笑った。
「――それはどうも。だが、まだ急ぐような時間ではないだろう。もう少しいられんのか?」
 彼に近付いて、唇を動かす。
 昨夜、晴明はこの庵に泊まった。自分の誘いを承諾してくれたのだ。彼といるときは、いつも満たされる。もう
少し傍にいて欲しいと願うのは、自然なことだろう。
「確かにそうだが――泰明の見送りをしたいのでな。今からならば、間に合うだろう」
「いくらあやつでも、ひとりで邸を出ることくらい出来るだろう」
 天狗は、告げた。愛弟子を案ずる気持ちは理解出来るが、泰明は真面目で、意志も強い。ひとりでも時間通り
に邸を出られるだろう。それほど急がなくても良いと思うのだが。
「それはもちろん分かっている。だが……やはり、目を見て挨拶をしたいのだ」
 彼は、ゆっくりと瞼を閉じて呟いた。その声音は、とても優しい。
 心配する必要はないと理解してはいても、目を合わせ、大切な者を見送りたいと思う。
 そう伝わってくるような、柔らかい声だった。そして。
 その気持ちは、天狗も、同じだった。
「――分かった。儂も、付き合うことにしよう」
「付き合う?」
 隣に立ち、庵の戸へ手を伸ばしたとき、晴明がこちらを向いた。
 彼に視線を向けてから、口を開く。
「お前を邸まで送る。そして、あやつにも声をかけてやろう」
 共に暮らしているわけではないが、泰明は自分にとっても大切な存在だ。
 そして、晴明のことは本当に愛しく想っている。
 彼とふたりで、泰明に見送りの言葉をかけることが出来たら――今日は、幸せに過ごせるような気がするの
だ。
「……もう少し、お前の傍にいられるのだな。ありがとう。きっと、泰明も喜ぶ」
 一瞬目を見開いた後、晴明は唇を綻ばせた。
 泰明が喜ぶ、という言葉には、疑問を抱きながらも。
 天狗は、そっと庵の戸を開けた。


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