額の温もり

「――起きろ、天狗」
 朝の訪れと共に目覚めた私は、後ろから身体をしっかりと抱きしめている男に小声で呼びかけた。
 昨夜、私は天狗に誘われ北山の庵で眠ったのだ。今もまだ、同じ褥に入っている。
だが、もう出仕せねばならない時刻だ。このままでいることは出来ない。
「――ん……」
 しかし、天狗は目覚めてはいないようだった。言葉に少し反応を示したものの、まだ寝息を立てている。
 もう一度口を開こうと思ったとき、不意に腕の力が強まった。思わず、唇を閉じる。
 そしてその瞬間、肩にも圧力と熱を感じた。
 どうやら天狗はより強く私の身体を抱きしめ、額を肩に押し付けているようだ。
 腕と額の温度が、薄い単を通して伝わって来る。
 決して、不快ではない。鼓動は速まっているが、天狗が近くにいることを嫌だとは思わない。むしろ、私にとっ
ては心地の良い時間だ。
 だが――困る。このままでは、褥から出ることさえ出来ない。
 一度深く呼吸をしてから、再び口を開いた。
「――起きろ」
 先ほどよりもゆっくりと、そして大きく口を動かす。すると、身体を掴んでいた手が僅かに動いた。
「――ああ……もう、朝か」
 そして、すぐに後ろから、呟くような声が聞こえて来た。
「――そうだ」
 答えると、腕は解かれ、肩にも圧力を感じなくなった。少しだけ――名残惜しい。
「……お早う、泰明」
「……お早う」
 身を起こし、天狗は微笑んだ。私も起き上がり、乱れた襟元を正してから朝の挨拶をする。
「素晴らしい朝だ。今日は良く眠ることが出来た」
「――そうか。だが、声をかけたらもっと早く起きろ」
 笑顔のまま大きく伸びをする天狗に、私は言った。あのような状態が長く続けば、きっと褥に横たわったまま
でいたいと願ってしまっただろう。
「ああ、悪かった。少し褥から出るのが嫌だったのでな」
 天狗は、私に視線を向けて答えた。
「何故だ。まだ眠いのか?」
「それも少しはある。だが……厳密に言えば違うな」
「――どうしたのだ?」
 天狗が目覚めたくないと思った理由が、私には分からなかった。眠気のためではないとすると、体調が良くな
いのだろうか。だとすれば、謝らなければならない。
 しかし、その理由は予想したものとは全く違っていた。
「……あの状態が、幸せだったのだ。お前を腕に抱いて、眠っている時間が」
 天狗は目を細めた。その声音も、非常に穏やかだ。私の頬は、熱くなる。
「――本当、か?」
 だが、私には確かめたいことがあった。
「おっと、信用出来んのか?」
「――お前は、容易に嘘を吐くことが出来そうだ」
 天狗は他者をからかうことが好きだ。表情を変えずに心を隠すことも、難しくはないだろう。先ほどの言葉は、
本当の理由なのだろうか。
 一瞬だけ驚きの色を浮かべた後、天狗は顔を綻ばせた。
「――それは否定出来んな。だが……お前には嘘を吐けん。自分でもおかしくなるくらいにな」
「……そうか」
 天狗は、私から瞳を逸らさなかった。低い声が、胸の奥へと響く。
「……ああ。額を押し付けていたことが、幸せの証だ。夢の中で心を偽ることは出来ないだろう?」
 笑顔を崩さず、私と目を合わせたまま天狗は言う。嘘などを吐いていないということを、ようやく理解すること
が出来た。
 いや。初めから、確かめる必要などなかったのだ。私は、信じるべきだった。天狗を。恋人、を。
「――そうか、分かった」
 不安があったとはいえ、あのようなことを訊くべきではなかった。自身の行動を後悔する。
「……宜しい。では、もう少しゆっくりして行け。まだ時間はあるだろう?」
 しかし、天狗は気にしてはいないようだった。私の頭に大きな手を置き、何度も動かしている。
「……ああ」
 髪が乱れていることを感じたが、そうは告げず、私は頷いた。


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