はじまりの日

  結界を抜け、師匠の庵に着いたとき、空には見事な夕陽が浮かんでいた。周りの雲をも柔らかな黄赤に染める、
大きな夕陽。
「これは……」
「まるで、あの日のようだ」
 続けようとしていた言葉が、背後から聴こえてきた。
「そうだろう、泰明?」
「お師匠……」
「覚えていない、とは言わせないぞ」
 言葉の最後には笑い声を含ませ、師匠は言った。私は、小さく息を吐いてから振り返る。
「……忘れるわけがないでしょう」
「そうか、ならば良い。あの日は、お前のはじまりの日だ。そして、私たちのな」
「――はい」
 頷いてから顔を上げると、夕陽の光が瞳に差しこんできた。少し目を細めれば、あの日のことが今も鮮やかに
甦る。

 桔梗の薫りを嗅ぎ、私はゆっくりと目を見開いた。
 私は一糸纏わぬ姿で、花の咲き乱れる庭に横たわっていた。
「……目覚めたか?」
 身を起こしたときに最初に目に入ったのは、銀色の長髪に琥珀色の瞳をした、美しい男性の姿だった。
「はい」
「どこか、おかしな所はないか?」
 気遣うように言いながら、その男性は私に簡素な単を纏わせてくれた。
「いえ、ありません」
 特に不具合は見られなかったので、私はそう答えた。
「そうか、ならば良かった」
 そう言って、私に全ての知識を与えた男性は微笑んだ。その微笑みにはどこか哀しそうな影があり、生まれた
ばかりの私の虚ろ心にも強い印象を残した。
「――これから私は、貴方に従えば良いのですね」
 造られたばかりの私は、ただその男性の役に立つことのみを考えていた。
「……ああ、そうだな。お前には、私の弟子になってもらいたい。良いか?」
「私は、貴方に従います」
「そうか……」
 その男性は、少し暗い声で呟くと、口を閉じた。私はその男性に、ひとつの質問をした。
「何とお呼びすれば良いですか?」
「?」
男性は、不思議そうな顔で私に振り返った。
「貴方のことを、私は何と呼べば良いですか?」
「……そう、だな……」
 その男性はしばら手を顎に当ててから、口を開いた。
「もう知っているだろうが、私は安倍晴明――しかし、私はこれからお前の師となる」
 私は少し悩んでから、尋ねた。
「では、お師匠で宜しいですか?」
「ああ、そう呼んでくれ」
「分かりました」
 お師匠、と呟いていると、不意に師匠の温かい手が頭に乗せられた。
「お――」
「お前には、たくさんの事を知り、色々なものを見つけてほしい。もちろん、陰陽の術などもそうだが、それだけ
ではなく」
 師匠は空を見上げた。同じ方角に目を向けると、そこには大きな夕陽が浮かんでいた。
「例えば、この夕陽の美しさを知ってほしい――そして、お前にとっての大切なものを見つけてほしい」
「大切なもの……」
 ああ、と小さく答えると、師匠は私にこう告げた。
「お前には、人として足りないものがある――それは、私には与えることが出来ないかもしれない……」
「お師匠……」
 辛そうに俯く師匠に、胸が痛んだ。
「ああ、すまない。今はまだ、無理をしなくて良い」
 師匠はまだ辛そうに、しかし、優しく囁いた。
「邸に入ろう、泰明」
「やすあき?」
 言葉の響きに覚えがなく、思わず声を上げた。
「お前の名だ。『泰山府君』の『泰』に『明らか』の『明』で『泰明』お前は安倍泰明だ」
「――分かりました」
 道具である自分に名前が与えられたことを僅かに疑問に感じながら、私は師匠に続いて邸に入った。夕陽に照らさ
れ柔らかな黄赤に染まった師匠の狩衣を、じっと見つめながら。

「ところで、どうだ、泰明。今は、夕陽を美しいと感じるか?」
 師匠の問いに、私は答えた。
「――はい、感じられます。お師匠が、そう思う心を教えて下さったから」
「それは良かった――では、大切なものは見つかったか?」
 美しい微笑みをたたえ、師匠は尋ねる。
「……」
 私は熱くなった顔を隠すために、そっと視線を泳がせ、言った。
「――私の目の前に、それを教えて下さった方がいます」
 師匠はそうか、と言うと、腕を伸ばし、私の身体を抱きすくめた。
「そんな事を言われると……ずっとこのままでいたくなるな」
「………」
 師匠は、腕の力を強くした。


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