時計は、真夜中の十二時を指そうとしていた。
夫の帰りに待ちくたびれた葵は、取り合えず先に風呂に入ることにした。
ブラウスのボタンを一つ一つ外しながら、ふと目の前にある鏡に映った自分に目が止まる。
「醜い顔。」
ぽつりと寂しそうに呟いた。
わかっている。なぜこんなにも自分の顔が醜いのか…
彼と結婚したのは私なのだから、勝ったのは私。そのはずだ。しかし、今彼が一緒にいるのがあの女だと思うと、憎まずにいられない。自分がこんなにも待ち焦がれているのに、彼は帰ってこない。あの女のために、彼はまだ帰ってこないのだ。
ブラウスがふわりと下に落ちる。手早く残りのものも脱いで、浴室に入る。
蛇口をひねると勢いよくシャワーから水が飛び出す。
「冷…たい。」
だんだんと、体温が失われていくのがわかる。
しかし、今の葵には、その喪失感が心地よく感じられた。
白い肌は一層白く、赤みをさしていた頬さえ、真白になっていく。
もう、髪が濡れることなど気にもならない。髪から肩に滴が落ちたことも、わからない。
「私が…消えていく。」
葵は確かにそう呟いた。いや、声にならない呟きという方が相応しい。唇はかすかに震え、言葉を刻もうと動いたが、シャワーの音にかき消されたのか、葵にさえ、その声は届かなかった。
泣いていたのかもしれない。
寂しかったのか、悔しかったのか、それはわからない。恐らく、両方であろう。寂しくて、寂しくて、自分がつぶされてしまいそうで。シャワーの水しぶきを顔で受け止める。泣いていることを認めたくない。自分が弱い人間だと、わかっていても認めたくない。だから、すべてを洗い流す。涙も、弱さも、嫉妬も……自分も…?
「 葵 。」
遠くで、懐かしい声が聞こえる気がする。
呼んでいるのは…私の名前?
「葵。」
浴室の戸が開かれる。
葵は、ゆっくりと振り返り、戸を開けた人物を見上げる。
「ゆ…き…と…さん?」
冷気を漂わせる葵は、とても儚げで。
由紀斗は何も言わずに駆け寄った。
帰宅し、せっかく着替えた服が濡れてしまうのにもかまわずに浴室に入り、水を止め、無言で葵を抱きしめた。
葵の身体は冷えきっていて、とても冷たかった。
「葵。」
由紀斗が、囁くように愛しい者の名前を呼ぶ。
葵が、ゆっくりと顔を上げる。身体は冷え切っていても、泣いていたことは一目瞭然と言わんばかりに、目が潤んでいた。
「遅くなってすまない。」
ワイシャツを脱いで、葵の肩に掛ける。
再び、きつく抱きしめる。
「おかえり…なさい。」
震える唇から、ようやく言葉を紡ぎだす。
「ただいま。」
葵は、自らの腕を由紀斗の背に回す。
「由紀斗さん…暖かい。」
葵は由紀斗の胸に顔を埋めた。
不意に、抱きしめる力が緩み、葵が由紀斗を見上げる。
ゆっくりと、吸い寄せられるように唇を合わせる。
はじめはそっと重ねるだけのくちづけ。
二度めは、いたわるように柔らかく。
三度めはついばむように軽いくちづけを繰り返し。
そしていつしか、濃厚なくちづけへと変わっていく。
「ねぇ…連れてって。」
頬を上気させ、葵が囁く。
由紀斗は抱きしめていた腕を解き、タオルを手に取った。
「髪、ちゃんと拭いておかないと風邪ひくだろ?」
言いながら、葵の髪を丁寧に拭いていく。
一通り表面の水滴が拭き取れると、タオルに髪を挟んで軽く叩いて水気を取っていく。 葵は肩に掛けられていたワイシャツを洗濯かごに放り込み、おいてあったスリップを被る。
そして、由紀斗にくっつく。
「そんなにくっついてたらちゃんと拭けないだろ。」
言いながらも、髪を拭く手は止まらない。
「だって寒いんですもの。」
背中に回した腕に力を込める。
「髪、ちゃんと乾かす?」
一通り髪を拭き終えて、由紀斗が尋ねる。
「ううん。もういいわ。ありがとう。」
そっと由紀斗を押し返し、背を向ける。
「怒ってる?」
後ろから葵を抱きしめながら尋ねる。
「何を?」
「帰りが遅くなったこと。」
「怒ってなんかいないわ。」
葵は振り返り由紀斗を見上げた。
「どうして水なんか…」
葵はうつむき、恥ずかしそうに言った。
「『サロメ』読んでたのよ。『ほら、ヨカナーン。おまえに口付けするよ』って。」
言いながらそっと由紀斗にくちづけする。
「『苦いよ。これが死の味かい?』って?」
言いながらそっと葵にくちづけする。
「そうね。でもきっと私なら、あなたが死んだら…きゃっ。」
突然、由紀斗に抱き上げられ、驚きの声を上げた。
「姫様、どちらまで?」
首に腕を回し耳元で熱っぽく囁く。
「あなたの思うがまま。」
***
ぽふっっと葵の身体が軽くはずむ。
「ねぇ…電気消して。」
灯りが落とされた部屋で、葵は立ち上がって、窓の方へと歩く。
ベランダと部屋とを遮るガラス戸の前に立ち、何の迷いもなくカーテンを開け放つ。夜空に勝るとも劣らない、地上の光の洪水。吸い込まれそうに深い、葵の瞳の黒。月が、映る…。
「月が綺麗ね。」
ベッドの端に座る由紀斗を背に呟く。
「君の方が…綺麗だよ。」
カーテンを開けたまま、由紀斗の待つベッドへと一歩、また一歩と下がる。
依然として、その眼差しは夜空に向けられている。
「星も、綺麗だわ。」
由紀斗に向き直り、由紀斗の前に座る。
「葵の方が、綺麗だ。」
葵の髪にくちづけ、そして耳朶にくちづける。
「あっ…」
やがてくちづけは透き通るように白いキャンバスに赤い軌跡を描き出す。
葵の唇から吐息に交ざって甘い声が漏れる。
「…あん…っっ…」
いつしかスリップの肩紐は落下し、葵の白い肌が月明かりに浮かび上がっていた。
浮かび上がる白い肌には、あちこちに赤い印…葵が、由紀斗に愛されたという証が、散りばめられていた。
首筋、鎖骨、肩、左胸、脇腹…
膝立ちになり、由紀斗の腕を掴んで身体を支えていた葵だったが、だんだん、膝が震え、息があがりだし、やがて寄りかかって立っているのがやっとになってくる。
葵の背中にまわされていた由紀斗の腕がほどけると、葵はしなだれかかる様にして座り込む。
浅く早い呼吸を何度か繰り返し、ようやく落ち着くと、顔を上げた。
愛しい人の顔がすぐ側にある。決して夢ではなく、本物の由紀斗が今、目の前にいる。それだけで、葵は癒され、満たされた。
「どこにも…行かないで。」
言い終わるのを待たずに、唇を合わせる。
「どこにも行かないよ。」
やさしく囁く。
「離さないで…ずっと…」
背に腕を回す。
「離すものか。」
きつく抱きしめる。
「愛していて。」
由紀斗の肩口に顔を埋める。
「愛してる。」
額にそっとくちづける。
「葵?」
肩に水滴が落ちてきたような気がした。
「何でだろ?初めて由紀斗さんに愛してるって言われた時みたいに嬉しいの。不思議ね。どんなに愛していても、あなたを信じていても不安だなんて。」
葵は、涙を流していた。
由紀斗は少し困ったように微笑み、葵にそっとくちづける。唇がその頬を伝う涙を拭う。
「……抱いて。」
由紀斗の首に手を回し、自分が下になるようにベッドに倒れ込む。
潤んだ目で見上げた由紀斗の顔は、本当に身近に感じられた。
絡み合っているのは、きっと目線だけじゃない。指先だけじゃない。触れ合っているのは、きっと手のひらだけじゃない。唇だけじゃない。
繋がっているのは、絡み合っているのは、触れ合っているのは、身体だけじゃなくて…心。
葵は、身体のすべてを由紀斗に任せる。
「あっ…やん…」
葵に触れる手はとても優しくて。
優しく触れる唇はとても柔らかくて。
それらの動きは穏やかで、決して葵を上り詰めさせてはくれない。
「ねぇ…もぅ…だめよ…」
上がるのは息ばかり。もどかしさに気が狂ってしまいそう。
「お願…い…」
わざと感じる所をずらして触れる唇に呼応する吐息。
「いじ…悪っんあっ…いやあ…」
潤んだ目からは一筋の涙が零れ落ちる。切なげに歪んだ表情が、相手を一層煽っていることを頭ではわかっているのに、身体がついてこない。
「早…くぅ…ひゃんっぁあんんっっ!」
息切れを押さえながら、ゆっくりと息を吐き、由紀斗を受け入れる。
夜の静寂が二人を包み込む。
それはまさにこれから訪れる嵐の前の静けさ???
「んっ…」
静寂を破ったのは葵のなやましげな吐息。少しずつ身体をずらしながら、もっともっとと身体がせがむ。
思考でなく、本能。
「あっ…そこっ…そこイイのっ…」
頭の上に上げられた手が宙を掴む。涙にぼやけた視界には、いとしい人の影がぼんやりと浮かぶ。
呼吸と共に、動きも一層激しさを増していく。しがみついて、爪を立てて、遠くにいってしまいそうな意識をつなぎとめる。
「もぅ…だめぇ…ひあああんんっっっ!!」
しなやかにそれる背中。激しく上下する胸。そして再び訪れる静寂。
「ぁんっ…」
身じろぎして、自分の中に熱を感じる。熱くて、溶けてしまいそうな熱。
一呼吸おいて葵が耳元で囁く。
「ねぇ、このまま起こして?」
にっこりと可愛らしく、しかし妖艶に微笑む。
まさに天上天下向う所敵なしの微笑み。
「はんっ…」
ゆっくりと身体を起こす。弛緩した筋肉は重力に逆らうすべを知らない。
「あんんんっっっ…深いのっっっ…」
目の前の首にしがみつき、唇をねだる。すぐにでも飛んでしまいそうな意識をゆっくりと手繰り寄せる。
冷静さを取り戻すわけではないが、熱くなりすぎた身体を少し冷ます。今度は、自分が主導権を握るのだ。
ゆっくりと足に力を入れ、身体を目覚めさせる。重力に逆らうのに、こんなに力と集中力を必要とするなんて。
「ひぁっ…はぁああんんっっ!」
ふいに甘噛みされ、胸に痺れが走る。不意打ちだったため重力に対抗していた集中力は霧散する。ガクッと勢いよく沈む身体は再び重力に従わされる。深く、熱は葵を狂わせる。
「葵…綺麗だよ。」
由紀斗の囁きが耳に届いているのか定かではないが、艶っぽく喘ぎ声を上げながら、葵は腰を振る。自らの動きに加えて、下から突き上げられる感覚…一度開かれた快楽の扉は、葵をたやすく上り詰めさせる。
「ねぇっ…もぅだめっ一緒に……っっ!!」
いい終わるか否やのうちに葵は短い悲鳴を上げた。
荒い呼吸を繰り返しながら、由紀斗の胸に頬をすり寄せる。上下する胸、普段より少し速い心音。身体はとても気だるいけど、とても安堵できる。
「ぁ…。」
自身の中から流れ出す感触に、頬を染める。さっきまであんなに狂っていたのと同一人物とは思えない純真な反応が、また、相手を煽る。
そっと髪をなで、引き寄せ、くちづける。深くくちづけ、手は葵の身体をまさぐり、また追い詰めて行く。
「ぁんんっ……だめよぅ……」
言葉と身体が裏腹なのはいつものこと…
こうして、佐山家の夜は深けていくのだった。
翌朝、葵がえらい目にあったことは言うまでもない。ご愁傷様。<合掌>
「ちょっと〜由紀斗さん〜。」
朝ご飯の支度をしていた由紀斗は、ガスを止めて寝室へ行く。
「手。引っ張ってくんない?起きれなくって。あたたたっ。」
情けない悲鳴を上げながら由紀斗に手を伸ばす。
「しょうがないなぁ。今日は赤坂と待ち合わせだろ?大丈夫か?よいっしょ。」
上半身を起こし、腰をさすりながら答える。
「誰のせいだと思ってんのよ。キャンセルするわけにもいかないから行くわよ。」
ゆっくりと立ち上がろうとするが、どうにもこうにも腰に力が入らない。っていうか、筋肉痛?
「誰のせいって、俺のせいか?」
「他に誰がいるっていうのよ。」
「自分のせいじゃないのか?」
「違う。普段私のことほったらかしにしてる由紀斗さんが悪い。だいたい…あたたたたたっっ。」
由紀斗に支えられながら、ようやくクローゼットの前に辿り着く。
「取り敢えず。責任とって待ち合わせ場所まで送ってね。」
にっこりと無敵の微笑でいわれたら、すでに拒否権ないでしょ。諦め半分、溜め息をつきながらやれやれと葵の着替えを手伝ってやる。
「しかたないなぁ。バイクでいいだろ?」
ぱっと振り返り満面の笑みを浮かべた。
「ありがとぅ〜。んもうちゅぅしちゃう〜ちゅぅ〜vv」
そんなこんなで、佐山家の日々は続いていくのだった。
♪あとがき♪
終わった。っていうか無理に終わらせた。
あとがきっていうより、言い訳だらけの駄文?そうかもしれない。あぁ、響さんいつもの恩を仇で返してごめんなさい。何か、やたら前振り長い上に、誤魔化しが多いです。ごめんなさい。後半由紀斗の台詞少なくって、というよりなくてごめんなさい。僕的に嫌だったので、故意的に削らせて頂きました。あまり、原作のイメージを壊したくなかったというのもあります。壊し過ぎじゃねぇかなんて怒んないで下さい。
響さんに殺される前に終わります。それでは皆様お元気で。またお会い出来る事を祈って。(逃)
200007091815 黒晶御剣 拝
♪あとがき♪ =改訂版=
っというわけで、改訂版です。そして、言い訳だらけの駄文ことあとがきです。
いえ、夢の館が復活という事で。御剣的にお祝いをしようと…え、祝ってない?そんなことないですよ〜(汗)いや、ちゃんと奮発してますってっっ!!なんと700字ほど増加ですよっ?さらに、H度3〜5割増!!!つまり、改訂前は誤魔化しが多かったのに対して、改訂後は誤魔化しがまだ少ない!いや、完全撤去はそれはそれで危険なので(汗)
では、例によって例のごとく、響さんに抹殺される前に去ります。日に日に身の危険を感じていますが、ここは書き逃げっっ!!それでは皆様、またお会いできることを祈ってっ!再見!!(逃っ)
200305181737 黒晶御剣 拝
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